「その星の名は」の続き。
人々がこの世を離れても、天には星が輝き続ける。
「入ってもいいか」
耳に馴染んだ声が、静かに抑制したノックの後に聞こえた。
カミューは逡巡した。
マイクロトフが自分の部屋を訪れたということをどんな気分で受け止めればいいのか分からなかった。喜べばいいのか、或いは、状況の悪化を予測して、警戒すればいいのか。
だが、いずれにせよ自分がそのドアを開けることは知っていた。
あの晩以来、彼等の間で何かが変ってしまった。それは変ったのではなく、終ってしまったという可能性もある。
彼は息を調えた。無意識に髪に手をやり、撫でつけて整えている自分の指に気づいて、それに可笑しみを感じた。まるで意中の婦人と顔を合わせようというように。
彼は、扉の前に立っている男を逃がさずにいようと思う余り、いらえも返さずに扉を開けた。その勢いに怯んだように、カミューの年下の友人は暗い目を伏せた。
マイクロトフが、カミューの私室へやってくるのは実に二月ぶりのことだった。幾ら多忙であっても、彼等の付き合いがそれほどまで途切れたことは今までにない。最後の晩がいつだったか、カミューははっきりと覚えている。ハイランドの、ミューズの流民狩りを見殺しにした晩だ。自分達は荒れて、二人ともしたたかに酒を飲んだ。あの後味の悪い晩が最後だった。
マイクロトフが何故あの晩、カミューに触れようと思ったのか、そのきっかけは未だもって彼には分からない。力任せの夜は、二人の間に唐突に訪れ、カミューは身体を裂かれる痛みを耐えることになった。酔いと欲望から醒めた男は、紙のように蒼白い顔になった。どれだけ悔いているのかは一目で分かったが、マイクロトフは、自分自身を正当化するようなことは一言も云おうとしなかった。
ただ、カミューを想っていたと云った。その想いは尊重すべきものであったと云った。
自分が想っている相手を、それで許せないようなら、自分が今まで心身を強健に保ってきた意味はないとカミューは思う。
自分が風にも耐えない婦人のような存在でなくて助かった。自分が衝撃に充分耐えうる性質の持ち主であったことにも感謝した。
マイクロトフに想いがあり、自分の持つのと限りなく似たものだと云うなら、後は、きっかけが最悪のものであったことを忘れればいい。
しかし、それでマイクロトフが彼自身を許すかどうか分からない、というのは当然想定すべき事柄だった。
マイクロトフはその晩を境に、一切カミューと個人的に接触しようとはしなくなった。幾晩かに一度、お互いの部屋で酒を酌み交わすこともなくなり、立ち話程度の個人的な会話さえ、二人の間で交わされなくなった。
カミューは困惑し果てた。今度という今度はマイクロトフの考えが分からなかった。彼等はあの最悪の夜に幾つかの言葉を交わした末、理解し合ったと思った。カミューはマイクロトフを全面的に許したのだ。
不思議と、彼等の部下はその異変に気づく様子はなかった。騎士団の長二人の不和の噂さえ立たず、カミューは、殆ど会話を交わさなくなった自分達を、周囲は依然として親友同士として扱っているのを知った。
無論、公務の最中にマイクロトフがカミューを避ける訳ではなかった。ただし、痛々しいほど丁寧に振舞い、カミューとの接触に関する限り、常の彼らしくもなく、抑制して振舞った。公務以外ではカミューと全く行動を共にしようとしなくなった。云ってみればそれだけのことだ。
結果、マイクロトフの行動は独断専行が増え、カミューはその点でも頭を抱えることになった。ミューズ市に単独で飛び出した時も、その後のゴルドーとの争いでも、マイクロトフはカミューに本心を打明けようとしなかった。それ故にカミューは常に、無言の相手の気持を察し、先回りするように心がけなければならなかった。
彼等は半月前、ついにマチルダ騎士団を共に離反し、新生の同盟に身を寄せることになったが、それでもマイクロトフはカミューに頑なな沈黙を守り続けていた。
「どうした?」
遠慮のない声で尋ねるのと同時に、カミューは、マイクロトフが手に小さな木箱を携えていることに気づいた。丁度てのひらより少し大きい、木製の小箱だった。胡桃材らしい豪奢な光沢のある、白い木材の板で組立てられたその箱には、小さな銀の錠前がついている。
「今、多忙ではないか?」
カミューが完全に寝むための格好になっているのを、見て分かりそうなものだった。もっとも、部屋で過ごすには奇妙な格好かもしれなかった。マチルダほどではないが、この城の冬も冷える。カミューは部屋着の上に、毛皮の外套を羽織っていた。その格好で、果実酒の瓶と厚い哲学書とを供に、冷える晩をやり過ごそうとしていたのだった。
「相手をしてくれる人もいなくてね。時間を持て余していた。入らないか?」
「いや、おれはここでいい」
まるで扉の前に根が生えたとでもいうように、マイクロトフは頑なに部屋の中に入ろうとはしなかった。カミューはその意地に半ば呆れた。自分達の間で何年もかけて培ってきたものは、あの晩のマイクロトフの行動ひとつで無に還ってしまったのだろうか。これが他のものなら諦めるように気持を切り替えるところだ。だが、その相手がマイクロトフではやりきれなかった。
「何か用事か?」
「お前にこれを受け取って貰えないかと思って訪ねた。昼のお前は多忙そうで、話しかける機会を逸していた」
そう云って、黒い外套を身につけたマイクロトフは木箱をカミューのてのひらの上に載せた。マイクロトフの指の中で壊れてしまいそうに華奢な銀の鍵を、錠前の底の鍵穴に差し込んで回す。
「開けてくれ」
神妙にそう云われて、カミューはその箱の蓋をそっと開けた。中にはやわらかな、上等のおがくずがつまっており、おがくずの合間に、藍色の丸いものが入っているのが見えた。マイクロトフに箱を持たせたまま、カミューはおがくずを散らさないように、慎重に箱の中のものを取り出した。それがいったい何なのか、その球体に記された文字を見るまで、カミューは分からなかった。間違いなく、それは彼が初めて見るものだった。
その球は、おそらく木製なのだろう。鋼ほどの重みもなく、内側が虚ろであるほどは軽くなかった。てのひらより少し大きな球の表面には藍色に染めた鞣し革が貼られ、そこに、無数の線と文字が白い糸で縫い取られていた。そして、その線の始点と終点に、無数に輝く青、赤、白、黄────様々な色の石は、小粒ではあるが、間違いなく本物の宝石だった。木製の台座に乗せられたそれは、夜の灯の下でもきらきらと光り輝いている。小さな夜空が一つ、そこに出現したかのようだった。
「これは、天球儀だ。あの晩」
そう口に出して、マイクロトフはそれ以上を口に出せないように、言葉に詰まった。しかし、言葉に力を込めてもう一度云った。
「あの晩、お前は東国の古い名で星の名を諳んじただろう?」
あの晩と云われて、いつの話をしているのか、カミューにも分からない筈はなかった。酒に酔ったマイクロトフが、カミューの服を引き剥ぎ、背中から欲望をねじ込んだ。その痛みの烈しさの余り、カミューが子供の頃に習い覚えた星の名前にすがらなければならないほどに。
マイクロトフを責めるつもりがなかったカミューは、ただ黙って肯いた。どんなことを口にしても糾弾になってしまいそうだ。それは彼の本意ではなかった。
「あの後、東国の星のことを調べていた時────ハルモニアの職人が、その東国の星の名前に則って、天を球に模した細工を作っていることを知ったんだ。数年に一つしか作っていないものだということで、手に入れるのに時間がかかってしまった」
「貴重なものなのだろうな」
カミューは、球に縫い取られたハルモニア語の星の名前に見入った。真っ白な絹糸で星の名前をかがられ、その星の色に合わせた宝玉を縫いつけられた天球儀は、おそらく貴族が道楽で作らせるような細工ものだ。おいそれと思いついて手にはいるようなものではない。
「ああ。表記はハルモニア語だが、東国の古い星座を三六〇、星を千七百しるしてあるらしい。天空を球面に見立てて、天球の中心から天空を見上げた形になっているとか。きっと気が遠くなるような時間をかけて作る細工ものなのだろう」
マイクロトフは、低く咳払いをした。
「お前が、この先おれに星の話をしてくれる機会があるものかどうか分からない。だが、あんな時に、あんな風に唱えて終りにするには、お前の思い出は美しいものだった」
そして、伏せていた目を上げてまっすぐにカミューを見つめた。そんな風に彼に見つめられたのは久し振りだった。元来は、マイクロトフは居心地が悪くなるほど真っ直ぐに目を見つめる男だった。
彼と目が合わないことを、どれだけ自分が不足に感じていたのか、その瞬間実感して、カミューはかすかに苛立った。マイクロトフは傍にいながらにして、随分長い間、カミューを孤独にしたのだ。
だが、カミューの怒りは、マイクロトフの低いつぶやきにかき消されて、にわかに鎮まった。
「お前の思い出を汚したくなかった」
その声の調子は、この二月というもの、孤独を味わっていたのがカミューだけでないことを示していた。
「それで、この天球儀をわたしに?」
カミューは、自分の声が、早くも調子を和らげていることに気づいた。この二月の空白を責めることもせず、友人の中で、暴発するような力と極端な潔癖さが同居していることを諫めることさえせず。何を云わずに彼を許し、その無骨な手から差し出された贈り物を受け取ろうとしていることを悟った。
マイクロトフの極端な行動は元からのもので、カミューはそれを許す。思えば、友人になった頃から、その形は変らなかった。この場面でもその人間関係の形が保たれているのを感じた。
「お前の気を惹こうとして天球儀を手に入れるのではない、と自分に云い聞かせていたが」
マイクロトフはかすかに苦笑に似た表情を浮かべた、
「どうやら違うらしい、カミュー。おれはお前の気を惹きたいようだ。どんな方法でも」
カミューは、なめらかなあおい球を、そっと胡桃材の箱の中に返した。そこに縫い取られた魔法の呪文のような星の名前が、縫い取られた千七百もの宝石が、マイクロトフから贈られた、潔癖で純真な秋波の軌道を表すように、カミューの視界に静かな残像を残した。カミューは天球儀から視線を逸らし、マイクロトフの目を見つめ返した。
「これは申し分なく美しい。子供の頃の思い出以上に大切なものになるよ。だが」
マイクロトフが贈り物という、常にない手段を取った価値を、少しでも打ち消さなければならないことを、カミューは惜しく思う。
「方法と云うなら、お前は分かっているはずだ。こんなに回り道をしなくとも、ただお前がわたしに話しかけ、二人きりの時間を持つことが、どんな力を持っているのか」
マイクロトフは、かすかに、その端整な顔を歪ませた。そして、罰を待つ賢しく美しい犬のようにカミューを見つめ、沈黙した。
「……だが、時には回り道が最上の手段になることもあるのだろうな」
カミューは、友人が、自分の口にした戯れ言のために手に入れた、高価な贈り物に目をやった。最初の夜が失敗から始まったことを、古い星を縫いつけた天球を贈って埋め合わせようとするとは、マイクロトフとしては破格の思いつきと云っていい。
「ありがたく受け取ろう」
彼は、無骨な男の指から、よく磨かれた美しい箱────箱自体がおそらく高価なものだった────を受け取った。そのささやかな重みに、マイクロトフが自分を想っているという言葉が嘘ではなかったのを感じる。
「火をおこしてある。入らないか? お前の好みのものではないが、酒もある」
「いや、酒は……」
マイクロトフは、カミューが先刻扉の前でそうしたように逡巡した。
「本当に、部屋に入らない気なのか?」
「おれは、許しを得るまではもう、お前に指一本触れる気はない。だが、それはあの晩以来、難しくなった。一度味わうということはおそろしい。知らないでいるものを耐えるよりずっと難しいものだな」
カミューは言葉に詰まった。そして、友人が全てを決して曖昧にしておこうとしないことに思い至る。自分が口にせずに察すれば充分だと思っていること。許したと思っていた形がマイクロトフにとっては充分でなかったことを知った。
彼は、星を閉じこめた箱を抱えたままで、マイクロトフに伸び上がった。小さな箱の分、彼等の身体には少し隙間がある。その隙間を埋めるように身をかがめ、カミューはマイクロトフの結ばれた唇に静かに触れた。唇は乾き、ひどく冷たかった。
誘いのくちづけのつもりではなかった。マイクロトフが許されることをそれほどに望んでいるなら、そこから始めなければならない。
「贈り物をありがとう。それそのものも、そして、お前が選んでくれたのだと思うと、更に嬉しく感じる。そしてあの晩のことは」
カミューはどう表現すればいいのか迷った。
「お前は紳士的とは云えなかったが、結局は────わたしが望んでいたことと同じことが起こったのだということを云っておく」
マイクロトフの表情にあたたかな血が通うのをカミューは見て取る。彼は、唇と同じくひどく冷えた大きな手をそっと握り込み、扉の内側に引き入れた。
「そして今日、部屋にお前を無理に引き入れたのがわたしだということも、覚えていて貰おう」
云いたいだけのことを云ったカミューは、胸の中のつかえが取れた思いだった。黒い外套を身につけて黒い影のように戸口に立った男に、彼は自分の熱を分けるように身を寄せ、もう一度口づけた。
今度は更にやわらかく。
許しなどという無骨なものとは関わりなく。
それが誘いであるということを証すように甘く。