幻水にはまった年の秋のイベントで配ったペーパー。
他愛な~い小話。
日が高く上り、夏の午後の光がノースウィンド一帯を包んだ。
(カミューはいったい、どこへ行ったんだ)
マイクロトフはかすかに苛立ちながらあたりを見回した。グリンヒルを攻め落とし、作戦に参加した者には、わずかながらの時間とはいえ、休息のための時間が与えられた。
しかし一般の兵士たちと自分たちとでは立場が違う。今日の夜にも新しい作戦が練られることになっている。あの食えない軍師に突っ込んで来られる前に、任されたふたつの騎馬大隊の内、戦える者、傷の癒えない者の数についての、正確な数を弾き出しておきたかった。そのためもあって、騎馬隊のもう一人の隊長にあたるカミューを探しているのだ。知った顔の兵士をつかまえて彼の居場所はと聞くと、笑いをかみ殺して「昼寝をするから探さないでくれとおっしゃって、森の中に入っていかれましたよ」などと云う。
(昼寝だと?)
あきれかえった彼は、探すなと云い残したらしいカミューの後を追って森の中に入って行った。
この一帯は魔属性をおびた獣も多く、危険なはずだが、ノースウィンド城周辺の森だけは、獣同士の争いさえほとんど見られず、静謐な光に満たされている。これは「光の盾の紋章」を右手に帯びた、彼らの少年将軍の力のなせる技だろうか。
森の中に分け入って行くと、静かな鳥の鳴き声がする。ゆったりと鷹揚に、男の腕ほども長さのある虹色の大翅をきらめかせて、夏蜻蛉が飛んでゆく。この地方に特有の、夏に花をつける宿り木が、高木の枝いっぱいに絡ませた蔓に、炎のような深紅の花を咲かせている。青く光る背の筋を鈍く光らせて、無害な蛇がわき道の草むらをうねって消えてゆくのが見える。マイクロトフはしんと静かな森の中で、奇妙な畏怖にとらわれて立ち止まった。果たしてこの調和をあの少年が生み出しているのだろうか。緑は盛んに、しかしみずみずしく輝き、ゆるやかにうねり、あおあおとざわめきながら、緑と光で編んだ円い巨きな籠の中に、すべからく人も獣も天も地もくるみ込んでいる。不安になるほどの調和がそこにあった。息をひそめずにはおれない敬虔な平和だった。
(いったいどこまで行ったんだ?)
落ち着きをなくした胸にわき上がった、甘い苦痛を振り払おうとするように、マイクロトフは、時折頭上から紅い花びらの降る森をぐるりと見はるかした。馬を使っていないのだから、それほど遠くへ行ったとは思えない。
するとふとその時、少し先にねじくれた太い幹と扇状に広がった枝ぶりを見せる椈の老いた巨木がそびえているのが見えた。その老木にもやはり宿り木が絡みついて、深紅の花を咲かせている。赤い花を咲かせた異形の椈だった。真下から見上げると、椈の梢近い枝から、人の足が投げ出されているのが覗き見えた。
(あんなところに)
彼は再びあきれてブナの上に足を伸ばして眠る人の気配を探った。まるで動く様子がない。やはりよく眠っているようだ。
「カミュー!」大声で呼んでみたが、返事はない。
(まさか、カミューに限って、何かことがあったのでも無いだろうが……)
血の匂いや跡、獣の気配もない。もう一度呼んで返事が無いことを確かめたマイクロトフは、あきれて引き返そうとしたが、ふと、自分もこの椈の巨木を登ってみようかという気になった。マチルダに居た頃ならば、昼日中、急な任部ではないにしろ、するべき仕事を放り出してそんな突拍子も無い行動に出ようなどとは、およそ思いつきもしない筈だった。
おれもたいがい羽目をはずしているな。
そんなふうに思いながら、携えてきた書類をベルトにはさみ込み、幹の節や瘤を足がかりに、マイクロトフは上方へと登り始めた。少年期以来、木に登ったことなどなかった。大木にとりついた手足に、不思議な快感とときめきがあった。この老いた椈は大人の男が数人で腕を広げても抱え切れないような太い幹を備えており、大柄な男の体を支えても、小鳥が止まったほどにもこたえはしなかった。
幹の巨大さに、己が一匹の黒い羽虫になったような感覚を味わいながら、マイクロトフは、投げ出された足の見えた位置まで登って行った。宿り木の蔓に咲く紅い花が、濃厚な香りを放っていることを彼は初めて知った。この花は高木の梢近くにしか咲かない花だ。香が強いことは、近づいてみなければ分からない。それを知るまでは、挑発的とも云える紅い花片の華やかさばかりが、見る者の目に際立つだろう。頂度、この樹の枝の上で眠っている男の印象と同じように。
枝同士が放射状に集結した部分がくぼんで、巨木の天辺にささやかな平地を作り出していた。長年そこにそうして光と雨、風を与えられたくぼみは、絨毯を敷きつめたような、分厚く柔らかな苔を生やしている。その周りの枝を、緑色の服の貴婦人の喉元を飾る宝石のように、宿り木の紅い花が一面に咲き乱れていた。
そこに友人はいた。太い枝の根本を枕にして、 組んだ足を長々と楽に伸ばし、放埒な眠りをむさぼっている。木陰と花の作り出す、揺れる炎のような陰影を受けて、彼の栗色の髪は、不思議な色彩をおびて薄く光っている。睫毛にも、額の上で、男としてはやや優しい曲線を描いた眉の上でも、その光の魔術は行われていた。
マイクロトフは息をのむようにしてカミューに見蕩れ、やがて苦笑した。
こんなところで一人で無防備に眠る姿を見せつけられると、彼の立場ではおだやかならぬ気持ちになる。それは時に寝床を共にすることのある者としては……。カミューが自分の隣で、これほどまでに無心に眠る姿を見た覚えがなかったのだ。
複雑な思いで、紅い焔の花に取り巻かれて眠る友人の傍らに膝を乗り上げる。目を覚まさない彼の寝顔を覗き込む。
ふと、マイクロトフは彼らしくない淫蕩な気分をかすかに揺り起こされて、かがみ込んだ。彼とこの関係になってから、しかしこれほど遠慮無く気分に任せたのは初めてだった。それは、カミューが屈託のない眠りに沈むのと同じで、ここでは誰にも見られないという気安さからだろうか。
だが、マイクロトフの唇が触れる寸前、まるではかっていたかのようにカミューが目を開けた。彼はぎくりと息を止めた。
しかし目を開けたものの、完全に目が覚めきっていないようで、夢のいりまじったような表情で瞬く彼に、マイクロトフは何と云ったらいいのか分からなくなる。
「……怠慢だぞ、カミュー」
結局自分の感じたことを云いあらわすよりも、紋切り型の台詞を口にして、彼は我ながら可笑しくなった。つまらない男だ。自分をそう思った。しかしその自分の退屈さを否定はしていない。それに彼は、目の前にいる男が、自分に特別な面白味など求めていないことを知っていた。
「……探したのか?」
そういいながら起き上がろうとする友人の肩をそっと押しとどめ、マイクロトフは一瞬前に自分をとらえた甘い衝動に任せた。冷たい唇に自分の唇を押し当てる。塞がった呼吸を補おうと息を吸うと、身体の中に紅く甘い香が染み込んでくる。それは、こんな突拍子もなく高い場所で出会った香だからか、それとも触れあった、透明な氷のような友人の身体の印象のためかは分からないが、普通なら頭の芯を濁らせるその甘い香は、どこか泣きたいように五感を澄み渡らせていくように思えた。自分の心が乾いてかさついていたことに、友人に触れてようよう分かる。
マイクロトフは、この美しい男にいまだ友人という以上の名をつけられずにいる。それどころか、カミューに抱く感情にも名をつけられなかった。
彼を恋人と断じたり、彼と自分との間に横たわる想いに恋情という名を与えるには、あまりにも彼に対して抱く想いは複雑な側面をそなえ、震えながら色を変えて揺れつづけている。しかしカミューが自分の友人であることは確かで、それは今も昔も変らず、分かりやすい上に彼の価値を減じることのない、単純で力強い言葉だった。
「用があって探していたんじゃないのか?」
カミューの声がわずかに濡れている。その声の甘い余韻にマイクロトフは背中を震わせた。
「……すぐでなくていい」
信じられないようなことを自分がつぶやくのをマイクロトフは聞いた。驚いたようにカミューが目を丸くするのを、すきとおるような睫毛ごとまぶたを指先で撫で下ろして閉ざし、自分を映す金緑石に似た瞳から逃れた。彼の無骨な指の下で、まぶたが少しふるえ、カミューの口元が微笑んだ。
「……怠慢だな、マイクロトフ」
戯れの混じった睦言を漏らす唇を、彼は唇でふさいだ。ついで、カミューの胸元をはだけ、戦場の疲れに荒れた唇を首筋に落とし込んだ。跡が残らないよう柔らかく甘噛みして舌でなぞる。首筋の血管を護った皮膚はやわらかくなめらかにはりつめ、マイクロトフの唇をいやした。なめらかな水に触れたようだった。逆に彼の熱く乾いた唇は、その水面に波紋をえがく。かき乱されて、カミューは吐息を漏らして背をゆるく捩った。
あたたかな脈の上をなぞると、それは身体の芯に灯った火を煽るようだった。
カミューは不意に、てのひらで彼をやわらかに押しのけた。
「おまえに限って、こんな場所で破目をはずすことはないだろう?」
それが文字どおりの牽制なのか、誘いなのかの判別がつかずに、マイクロトフは一瞬動けずに手を止めた。しかし、カミューの濡れて変光するアレキサンドラの瞳に出会って、マイクロトフは、それが後者であることをようやく読み取った。彼は再び、襟元から覗いたカミューの皮膚に触れることに専心した。
そうしながら、彼等の体を支える大木の葉末がさらさらと風に歌うのを聞く。視界のそこここを埋めた紅い花の名について思う。
ファイアライフ。花の名前。
……あるいは放埒を意味する。