log

アンバー・ホリック(2001年5月)

04 29 *2009 | Category 二次::幻水2青赤

 植田屋のタツさんへのプレゼントとして書きました。

 青騎士が執着せざるを得ないものについて。

続き





 軍師は、主立った者を集めた会議を、平時より手短かに終らせた。
 勝ち戦の後だったが、男達の顔は厳しい。偉丈夫の戦士揃いである将たちでさえ、流石に泥のように疲れきっていた。
 ミューズ市の門を開け放つための王国軍との戦いの後、同盟の兵士達は、ミューズ市に巣くった獣の紋章のしもべと相対することになったのだ。
 不安と暗い興奮が、ミューズ市内に足を踏み入れて逃げ延びた者の、全員の中で燃えていた。自分たちが何者を相手にしようとしているのか、その正体が実感を伴って迫って来る。
 ────あいつらを駆逐しようと思ったら、獣の紋章に片を付けるしかない。
 真の紋章を継承した、少年の顔の風の魔導師は、疲れて青ざめた顔でそう云った。
 ────……。
 同盟の要である、もう一人の真の紋章の継承者は、絹のような黒髪につつまれた頭を傾げ、沈黙して何事かを考えているようだった。
 堅固だったミューズの門の内側では、まがまがしい黄金色に輝くたてがみを備えた巨きな狼が、無数に街の中を走り回っていた。
 柔かな足裏で石畳を蹴り、うねるように道筋を辿った。道から軽々と屋根へ、木立や噴水を飛び越えて、ルビーのような両眼で獲物を探し回った。そうして見いだした同盟軍の兵士達を、黄金のなめらかなあぎとに銜えて、小動物をなぶるよりも易々と食い殺して行った。
 ミューズの石作りの美しい町並みは、忽ちのうちに阿鼻叫喚の地獄に変った。勝利の予感を抱き、意気盛んにミューズ市に攻め入った兵士達は、王国軍にさえ与えられることのなかった死の恐怖に、子供に返ったように泣き叫んだた。
 瑞々しいみどりの中にそびえる白い石の都が、もう先から、屠殺場に変貌を遂げていたことを、彼らは知らなかったのだ。
 ナナオ────彼らの将軍がいなければ、一体どれ程の犠牲者が出たものか分からなかった。








 負傷者と死者を乗せた担架が次々と運び込まれて、城の中は慌ただしかった。
 死者を荼毘に伏す煙が上がっている。ノースウィンドの風習は土葬だが、同盟軍では疫病や野犬、魔物から城を守るために、死者の遺骸を焼くようになった。自分達の馴染んだ埋葬法とかけ離れた方法で葬られる戦友を焼く炎の傍らで、兵士達が膝を折って祈りを捧げている。
 それは東西の風習の奇怪にいりまじる、一種呪術的な光景であり、或る意味ではいかにも寄せ集めの同盟軍にふさわしい光景でもあった。
 東にはすでに暮れたしずかな青い夜空が拡がり、西へ向かうにつれて、まだ諦めきれないような光が赤く冷ややかに逆巻いている。空のあり方でさえ、東西の融和は容易な事ではない。
 城の石の階段を、騎馬大隊の二人の隊長は自分達の部屋へ向かってゆっくりと登って行った。帰城した際に鎧は取り去っていたが、疲れ切った足には、履き慣れた軍靴でさえ重く思えるほどだった。
 窓から二人の男の背に差す暗い金の光が、大きく螺旋をえがく階段に、伸び縮みする影を作っている。
 一方の男、カミューはふと足を止めて窓の外を見つめた。塔の上部へ上がるにつれて、金襴を張ったような空の魔術は高く冷たくなった。その夕陽の美しさは皮肉に思えた。
 今日の同盟の戦いは、勝利の暁光を手にしたつもりで開け放った扉の向こうに、凶兆を現す赤い西日を見いだしたようなものだ。勝ってはみたものの、この先の道を無事に乗り切れる保証はどこにもないのだ。油断すれば一歩も先の見えない夜に飲み込まれてしまうだろう。
 夕陽は彼の細い質の髪に溶け、普段は金色を帯びた栗色のその髪を茜色に染め上げた。風は、髪の先をやわらかな火の粉のようになびかせる。
「お前がミューズ市の上に獣の紋章の影を見た気持が、ようやく分かった……」
 一、二段先を登っていたマイクロトフをあおぐ。
「よく恐慌状態にならずに戻ってこられたものだ」
「……恐慌状態になったさ────」
 苦く押し殺された声が答える。
「だからあんなことになった」
 その後に起こった、白騎士との対立のことを云っているのだ。
 カミューは微かに微笑した。
「嘘だな。我を失ってなどいなかったじゃないか」
 アンバーの光沢のある瞳を甘い金色に輝かせる。
「あれほどお前らしい行動もなかった」
 カミューはどこか、その記憶を楽しむように目を細めた。
 金と白磁、炎をよりあわせて作ったようなカミューの姿を、マイクロトフは暫く見降ろしていた。静かに足を踏み出し、階段を一段降りた。礼を取るように腰をかがめ、まだ段差のある階段の上に立った友人に向かって手を伸ばした。おだやかな疑念を蜜色の瞳に浮かべて、カミューはその手を取った。いささかの情熱を感じさせる力が籠り、引きずられるようにして彼は黒髪の男の間近に引き寄せられた。
 彼は僅かに躊躇うようにこわばったが、影のように無言で自分を巻き締める腕とその抱擁に、しなやかな身体を崩れ込ませるようにして応えた。






 背中からカミューを抱きしめる腕は、膝から力の抜けた身体を易々と支えて壁に縫い止めている。傷ついたのでも病んだのでもない身体で、誰かの腕にすがらなければならない状況に、カミューは酩酊する。関節は甘く痺れ、重い綿のようになっていた。
 腰の中心に、とかした鉄のような、いたたまれない熱の渦がある。その熱が彼を身動きできない快楽のぬかるみに浸けこんでいるのだ。その渦の中に濡れた熱が更に突き入れられる。背後にいる男の動きに添って、腹や背中にぎくりと予期せぬ力が入った。全身がはれぼったく脈打ち、両胸の突起や性器がかたくはりつめた。
 跳ねあがる身体を逃がすまいと云うように、抱擁は益々濃厚なものになり、硬い髪を備えた男の頭が項にこすりつけられる。
「……っ」
 名を呼ぼうとするが、カミューはそれをためらった。間近に聞える息づかいは自分の馴染んだ潔癖な男のものだったが、カミューの中に疼きをもたらし、それを再びきりのない摩擦でかき消して満たす身体は、とても彼のものとは思えなかった。
 顔が熱くなる。額が汗に濡れる。喘ぎが、喉を奥まで干上がらせた。
 自分より大きな体にぴったりと抱き込まれて営む熱は、苦しいほどの汗の中で無闇な逃避衝動を揺り上げて来る。涙が吹き出して視界をゆがませた。
「カミュー」
 欲望に掠れた声が耳元に触れた。短い息が耳元を包む。
 これはどうやらこの男の癖のようだ。何を要求されているのかを知って、カミューはようよう潤んだ目を上げて振り向いた。涙に潤んだ目を見せることに抵抗を感じながら、黒い瞳の前に濃い金色に濡れた虹彩をさらけだした。
 彼は、行為の終盤に必ず目を開いて瞳を合わせることを要求する。
 それは律動と汗にきしむ行為の中で、やや甘いと云えないことのない、年下の友人の性癖だった。








「────今まで」
 息が整わずに壁にすがったカミューの耳元に、唇と共に低い声がすべり込んできた。カミューは目をしばたたき、睫毛を湿らせた涙と汗を振り払った。
「何だ……?」
 自分の声もまた掠れていることに気づく。乱れた息を整えながら、身体を引き離そうとする。まだ膝が細く震えていた。手を取られて部屋に入るなり、寝台に腰を下ろす暇もないままマイクロトフに抱かれたのだ。
 拒もうとすれば拒むことは出来た。今日は、かつて経験したことがないほど疲れきっていた。しかし、無人の街に溢れるほど魔物を飼ったミューズから帰還して、黄金色の獣の吐く息、たてがみをゆるがす悪意にじかに触れた暗い昂揚は、カミューの中でも強く脈打っていた。
 ミューズ市の上空にゆらめく獣の紋章の姿を目の当たりにして、それがマチルダ騎士団を離反するきっかけになったマイクロトフにとっては、ミューズ市の異変に対しての思いは、なおさらに根深いものだろうと思われた。
 髪に唇が触れ、鉄のたがのような腕が自分を抱きすくめた時、ふるえるほどの疲れがあるにもかかわらず、抗えなかった理由はそこにもあった。
 カミューはやわらかに引き離そうとしたが、するとその腕は、なおさらに力を強めた。
「……どうした」
 腕を引き離すことをあきらめて、髪をかきあげる。足許に脱ぎ捨てた服がわだかまっていた。 脱がされないままだった上着と、ほつれた髪が、冷え始めた汗に濡れて不快感を呼び起こした。
「……今まで男と寝たことがあるんじゃないか?────」
 低く掠れた声がそう続けるのを聞いて、カミューは呆気に取られて振返った。
 本来マイクロトフは、行為の最中にもどこか腹の底で、戦局や政治のことに気を取られているような男だった。少なくともカミューはそんな印象を抱いて来た。
 戦いで昂揚した神経を癒すのに、この行為がいささかならず役立ちであることは確かだ。しかも、それが溺れる気遣いのない友人、更に云うならば、戦友であれば尚好都合だ。能率良く熱気を逃がし、直ぐに自分たちの直面する戦場に意識を引き戻すことが出来る。贈り物をしたり、甘い囁きで心を宥める必要もない。
 マイクロトフがその相手として自分を選んだのは理解出来ないことではないと思っていた。無論、彼にとっての自分が、欲望を処理するだけの存在だと思っているわけではない。しかし恋とは、意識するしないに関わらず、自分の心や環境にとってどこか都合のいい相手とするものなのではないか?
 カミューはのどの奥から細くふるえるため息を押し出した。疲労と陶酔の余韻で、体中がまだ甘く痺れている。少し混乱していた。
 今日あのミューズから帰還して、彼がそんなことを云い出すとは思いもよらなかった。
 振返ったカミューは、マイクロトフの声の乱れが、疲れや行為の余韻によるものではなく、いまだについえない欲望を顕わしているのだということに気づいた。
 黒い瞳はうすやみにつつまれた部屋の中で尚更に暗く光っている。その烈しさにカミューはぎくりと背中をすくませた。
「……だとしたら、何だ?……」
 慎重になった方がいい、と彼の本能は告げていたが、しかし唇からはその言葉が滑り出していた。かつて他の者との間にあった関係をほのめかす言葉だったが、それは虚言ではなかった。
 マイクロトフとこうなったのは、マチルダを出て、都市同盟に与してからのことだった。それより以前、マチルダに居た頃、確かにカミューは男と寝床を共にしたことがあった。
 年上の白騎士、騎士団の副団長になった数年前、その時の騎士団長だった赤騎士────。
 目上の者の誘いを断り難いということもあったが、正直好奇心もあった。
 彼は、快楽をひとくち味わってみる、という誘惑に弱かった。その時自分を抱いた男に深い思い入れはなく、代わりに騎士としての尊敬の念だけは抱いていた。女の可憐でやわらかな身体を腕の中でたわませることと、男の硬い腕に抱かれてくちづけを受けることの違いに興味があったのだ。そして、一口甘い蜜を味わった後はあっさりとこころが離れて、のめりこまないのもまた彼の性質だった。
 そんな独特の恋愛観の海に心を泳がせていたカミューだが、マチルダを出て間もなく、マイクロトフに気持ちを打明けられた時だけは、葛藤と驚駭を禁じ得なかった。
 マイクロトフは、カミューにとっては気楽に心をもてあそべる相手ではなかったからだ。
 彼もまた、ある程度真剣な感情無しに仕掛けてきたのではないだろう。その気持ちに応えるだけの誠意が自分にあると確信することは、カミューには難しかった。
 その葛藤の結末について率直に述べるなら、カミュー本来の気質が勝ったとしか云いようがない。
 自分の心の奥底を覗くことなく、マイクロトフへの好意だけで彼に応じてしまったように思う。騎士団を率いる立場でなくなったことも、彼を開放的な気分にさせていた。
 むろん、今までの相手にそうしてきたように、一口囓って皿を下げるような真似をするつもりはなかった。マイクロトフを傷つけるつもりは毛頭ない。だが、だからといって、過去にさかのぼってマイクロトフに償うわけにはいかなかった。
 ────だとしたら何だ。
 その答にマイクロトフがどんな反応を示すか、カミューは想像がつかないまま口にした。
 他の男と触れたことがあるといって、彼は自分を責めるのだろうか?
 しかしマイクロトフは何も云わなかった。
 次の瞬間、奇妙な違和感を覚えた。
 苦しそうな息づかいがひとすじ聞え、カミューの腕を掴んだマイクロトフの熱いてのひらが、突然氷のように冷えたのだ。
 今まで人のてのひらに触れられていたのが、突然血の通わない金属の義手に触れられているのに気づいたような感覚だった。しかも、そのてのひらは、ひとの体温に出会って、金属のように熱する様子さえない。底まで冷え冷えとした感触が、皮膚の下に隠れていた。
 烈しい怒りがそうさせているのだということは想像がついた。言葉でなじられるより、氷のように冷えたそのてのひらは、マイクロトフの激情を確実に伝達した。
 自分の中にゆっくりとゆらめいたものに、カミューは愕然とする。
 それはおそらく恐怖心と呼ぶべきものだった。
 この男に恐怖を抱いたことなど初めての経験だった。
 くるしみにてのひらを凍てつかせた友人は、一瞬の沈黙ののちに目をそむけた。てのひらから力が抜ける。黒い睫毛が閉ざされる。こうして見ると酷薄な線をえがいた薄い唇から、そろそろと息が吐き出される。
「────悪かった」
 彼はそう云って、カミューの腕から手を離した。冷えたてのひらでカミューの汗に濡れた髪をかきあげ、乱れて肩からはずれかけた上着を着せかけた。ほんのわずか、かするように頬に唇を触れる。
 しかしカミューの緊張はとけなかった。あるいはてのひらよりも冷えた友人の唇と、それらが凍り付いた理由について、息を殺して考えていた。
 開いたままの窓から風が吹き込んでくる。ノースウィンドを囲む荒野は一年に一回の季節を迎えており、おおらかな初夏が薄闇の中に充ちていた。野薔薇の甘い香りが部屋に紛れ込んでくる。しかし、戦いの後のあたたかな虚脱や初夏の甘い風も、部屋に淀んだ緊張感を消し去ることは出来なかった。








 マイクロトフが怪我をして戻ってきたのは数日後の夕刻だった。
 荒野に二日間、強い雨が降った翌日だった。
 傷は小さなものまで数えると無数と云っていいほどだったが、最も深いものは、背筋を斜めに断ち切り、骨に届きそうな槍傷だった。
 黒い外套の内側に、止めた馬の足許に血だまりが出来るほどの傷を抱えて、マイクロトフがノースウィンドに戻ってきた暖かい夕刻、カミューは初めて、彼がマチルダに斥候として送り込まれたことを知った。
 ミューズを攻め落とした今、ハイランド皇国の息の根を止めるためには、速やかにロックアックス城を攻めるべきだった。散っていた兵が集められ、連日作戦が練られた。元マチルダ騎士を含めた数名が、ミューズとグリンヒル側それぞれの、マチルダとの国境に偵察に出た。その事も、マイクロトフを除く斥候の面々もカミューは承知していた。
 しかし、どんな経緯でそこにマイクロトフが交じったのか。元青騎士団団長だった彼は顔も知られている。ましてや今は騎馬大隊を任される身であり、斥候を務める立場ではなかった。
 マイクロトフが深手を負って戻ってきたことを知った軍師は苦い顔をした。
 彼は、自分を訪ねて来たカミューの顔に、不審を読みとったようだった。
「言い訳をするのは本意ではない────が、この度の偵察に、彼が同行したのは、本人の希望があってのことだ」
 シュウは、半ば忌々しそうに黒髪をかきあげた。都市同盟に下る前、貿易商を営んでいた若い軍師は、人並み外れて不合理を嫌い、感情論を排除して来た。それだけに、奇策を弄して敵の意表を突こうという時、味方を無慈悲に利用する側面も持ち合わせていた。
 しかし軍師は首を横に振った。
「これはそんな作戦じゃない」
 偵察のために選ばれたのはたった四人ずつ。
 国境の警備と地形を確認するだけの任務だった。
「無論、彼がいれば斥候以上の働きが出来るだろう。しかし、偵察に大隊長を送り込む程、我が軍は手余りな訳ではないからな」
「……傷を負った経緯は」
「偵察は失敗したわけではない────マイクロトフ殿が同行したお陰で有益な情報も得た。騎士団に残った事に迷いを持つ青騎士の中に情報提供者を得たのも彼のお陰だ────中隊以上の隊長を引き受けた者の名も確認することが出来た」
 軍師は腕を組んで広間の天井を見上げた。腹に据えかねるようにため息をつく。
「グリンヒルに続いて、ミューズがハイランドから解放されたことを知って、騎士団領から脱出しようとする領民が増えているようだ。殊にマイクロトフ殿の向かったグリンヒル側は、昼夜を問わず、脱出する領民が後を絶たないらしい────」
「なるほど」
 得心のいったカミューは呟いた。
「領民と騎士団の衝突の場面に、偵察隊が居合わせたのですね」
 軍師は肯いた。
「領民の数は三十人。ルールから脱出した四家族だった。子供と女性が白騎士に二人斬られた。マイクロトフ殿と付き合いの長い貴方なら、その後どうなったかお分かりだろう」
 分かりたくもなかったが、目に見えるようだった。カミューは肯いた。
「おおよそは」
「白騎士の数はおよそ二十。偵察隊の一人にグリンヒルへ報せにやり、領民が全員脱出するまでマイクロトフ殿が鬼神のように剣を振るい、領民の盾になったと報告を受けている。最初の犠牲者以外は領民も無事、偵察隊も全員無事に帰隊した────信じられない事だ……」
 軍師は初めて笑みに似たものを浮かべた。
「マイクロトフ殿とゴルドーの反目の最初のきっかけは、ミューズの流民をマチルダ騎士団が見殺しにした事だったな」
「その時も、自分の目で信実を確かめようと、単身ミューズに乗り込んだのです」
 カミューは思わず嘆息した。
「そしてマチルダ騎士団をも飛び出したというわけか」
 結果、騎士団の多くの戦力を共に得ることとなった軍師は肩をすくめた。それは気障な仕種ではあったが、悪意を感じさせるものではなかった。
「その行動力には敬服するしかないが────マイクロトフ殿には今後、彼を失うわけにはいかない同盟の事情にも関心を抱いて頂きたいものだ。……そのことについておれが彼にくどくどと云って聞かせるより、その役目はカミュー殿、貴方にお願いした方がよさそうだな」
「────承知しました」
「グリンヒルで傷の手当てをするようにという制止を振り切って、馬を駆ってノースウィンドに戻ってきてしまったらしい。鞍を染み出して、馬が腹まで血まみれになっていたそうだ────知れば知るほど手に負えない御仁のようだな、元青騎士殿は」
 思わず微笑しかけたカミューは、ふとその笑みを消した。自分に触れた、氷のようなてのひらの感触が蘇ってくる。かすかに不安定な危惧がこみ上げる。
 自分であっても、あの男にくどく言い聞かせる以上の何が出来るだろう。
 慌ただしい真昼の城の気配に耳を澄ませる。マイクロトフに命を救われたマチルダの領民は、グリンヒルで身柄を引き受けたそうだった。偵察隊は全員帰隊していた。先刻はマイクロトフに会えなかったが、もう治療が終る頃だろう。
「シュウ殿もマイクロトフの行き過ぎについては、時々は言い聞かせてやってください」
 軍師はひやりとするように整った黒い目を細めて少し笑った。
「おれの忠告では、口に苦いというだけで、たいした効能もなさそうなのでね」
 そんな風に云った。
 返す言葉もない。彼は軍師に目礼してその場を離れた。
 領民達をかばって剣をふるうマイクロトフは、この上なく彼らしい。しかしどこかにかすかな違和感があった。
 それは、自分の手首を押し包む冷たいてのひらとの違和感でもあるようだった。







 医局に友人の姿はなかった。意識のない重傷者が何名か寝かされているほかは、殆ど傷病者の姿はない。ここに人があふれるのは戦いの翌朝から数えてせいぜい数日間だ。
 それだけ、重傷者や戦死者の数を抑えて戦いを終えることが、新生都市同盟の特徴となっていた。彼らは、その血筋を買われたかいらいであっても不思議のない、十六歳の少年を大将に戴いた。しかし、真の紋章を護りに戴くその戦いの生還者の多さは、奇跡を信じて集うた者たちに、天の与えた報償とも云えた。
「ホウアン殿」
 カミューは医局の奥へ入り、医局長の姿を探した。
「────ご友人はお帰りになりましたよ」
 膨大な書類と処方箋を前にしたホウアン医師は、柔和な瞳を上げた。
「そのようですね。……本人は云いたがらないでしょうから、傷の具合について教えて頂けますか」
「ええ」
 ミューズ風の浅い赤の衣装を着けたホウアン医師は静かに立ち上がった。自分より大分背の高いカミューの背中側に回る。
 左側の貝殻骨から、右の腰骨までを指で指し示す。
「ここから────ここまでを、騎槍の穂先で裂かれています。騎士団領のご婦人を庇って胸に抱き込んだために負った傷だと聞いています。この傷以外には殆ど深刻な傷はありません。……しかし、この傷は侮ることの出来ないものですね。背骨の両側の筋を断ち斬られています。治るのに時間のかかる傷ですし、重い剣をふるえる力が戻ってくるまで、相当な訓練を積み直さなければならないでしょう」
 カミューは慄然としてその言葉を聞いた。
「……それでは、マチルダ攻略には間に合わないということですか」
「ああ、いえ……しばらく」
 医師は微笑んでカミューを制止した。
「ナナオ殿が治療にあたられるようですよ。マイクロトフ殿の先ほどの様子では、どんな傷を押してでも出兵されるようなご様子でしたから。……ナナオ殿が紋章での治療を買って出られたのです。医局のなかで真の紋章を使うのはさすがに差し障りがありますから────先ほど、ナナオ殿と連れだって部屋に戻られたのです」
「……」
 絶句したカミューは医師のおだやかな黒い瞳と目を合わせておれずに、視線を足許に落した。怒りがこみ上げてくる。
 確かに、彼らの少年将軍だけが、そんな致命的な傷を癒すだけの威力を持った紋章を使える。血を止め、肉を塞ぐだけでなく、そこに傷がなかったように切れた筋をつなぎ、一度死んだ運動能力をよみがえらせる。そんな奇跡を起こすことが出来るのだ。
 「真の紋章」と呼ばれる特殊な紋章だからこそなし得ることだった。聞き及ぶところによれば、この世界に、その力を使うことの出来る人間はたった二十七人しかいない。
 しかし、彼がいなければどうするつもりだったのだ。
 先刻軍師も云っていたことだが、マイクロトフは自分が率いる兵のことを忘れるべきではない。ゲンカクの養子ナナオは、度々こういった場面で、自らの力を頼みに敵中に飛び込んでゆき、その右手に宿した紋章の力そのものの、奇跡のような生還劇を繰り広げてきた。
 しかしそれは彼が特別な人間だからだ。特別な人間の力を借りるしかないなら、激情に駆られる身を慎み、将の椅子の上で逸る心を抑えることも時に必要なのだ。そんなことは、青騎士を率いていたマイクロトフなら骨身に滲みて分かっている筈だった。
「グリンヒルからノースウィンドに無理に戻ってきた理由は何だったのでしょう?」
 ホウアンが気遣わしげなつぶやきを漏らした。
「さあ……何か気にかかることがあったのでしょうが……」
 カミューは声を低め、身体の中にこごった怒りを解きほぐそうとした。
「ひとまず、ご本人と話された方がよいのではありませんか?」
 ものやわらかに、医師はカミューを促した。
「ええ────」
 彼は表情を和らげた。医師の前で苛立っても仕方がない。
「ご迷惑をおかけしました」
 心からそう云って頭を下げると、多忙な医師は寛容な微笑と共に肯き、自分の仕事に戻って行った。
 怒りを握り込むように拳を握りしめて、城の右翼側の上層にある大隊長の部屋に向かう。
 感情の乱れに汗を帯びた額の熱さを、窓から入る風がやわらげた。甘い草の香がする。数日前まで咲き誇っていた荒野の野茨の香に交じって、今は東側の林を埋めたアカシアの花の香が、あたたかい風の中に漂っている。
 中庭で訓練が行われている気配がした。兵士達はミューズの恐怖を忘れ、間近に迫るマチルダ攻略に昂揚している。暗鬱な森の中にそそりたつ岩山のような、あのロックアックス城を墜とす。そして、最終的にはハイランド皇国の首都ルルノイエを攻めることになるだろう。
 それは、都市同盟の中で身をすくめるようにして生きてきた小国家の兵士達に、身震いするような高揚感を与える戦いだった。歴史を塗り替える絵筆を握ったこの輝かしい初夏を、全ての兵士達が忘れず、生涯胸をふくらませて思い起こすことだろう。
 それはとりもなおさず、公平な指導者を戴いた国だけの得る特権だった。
(なのに、お前は何を荒れているんだ?────)
 苛立ちとも不安ともつかないものを抱えて、階段を上る。
 すると、重い足音が聞えて、階段の上方から、うっそりと黒髪の男が降りてくるのが見えた。
 彼が大きな傷を負って動けなくなっているものと思っていたカミューは、不意をつかれて、マイクロトフの確実な足取りを見守った。カミューが上階へ登って来ようとするのにほぼ同時に気づいたマイクロトフは、戸惑ったように後ろを振返った。そしてすぐに、カミューが自分に会いに来たことに気づいたようで、微苦笑を浮かべた。
「どこへ行く?」
 あまり動じてもいないような声がするりと喉を滑り出すのを、カミューは自分自身の耳で聞いた。そして自身にも違和感を抱く。
「……お前に用があった」
 マイクロトフはそう応えて低く咳をした。それと同時に痛みが走ったような表情を見せる。彼は黒い上着を肩からかけ、その下に裸の胸を晒している。
 上着の下の腕や肩、胸にも、そこここに手当をほどこした跡があり、包帯が巻かれているが、深い傷を負った筈の背中から胸にかけては、上着の布に無防備に触れているようだった。
「傷はどうした?」
 カミューの問いに、マイクロトフは無意識のように自分の胸元を押さえる。また小さな咳が彼の喉から漏れた。はだかの胸が咳に苦しげに削げるのをカミューは見守る。
「ナナオ殿に手当てをして頂いたんだ────もう、傷は塞がった」
 カミューがそれに言葉を続けるよりも早く、友人は暗く目を伏せる。
「ナナオ殿には迷惑をかけてしまった……お前にもきっと心配させたのだろうな」
 ミューズ攻略の日の再現のように、夕刻の窓から赤い光が差し込んでいる。夕陽を背に受けて、彼の大きな体は闇の木陰にひそむ黒い獣のように見える。牙を隠した口の中でひそめる荒々しい息づかいが聞えてくるようだ。
 何故そんな印象を持つのか、カミューには分からなかった。彼が自分にとって危険を暗示する存在だったことは嘗て一度もなかった。
 そのくせ、問いつめる前に賢しい自己反省の言葉を漏らしたマイクロトフを、カミューは責めることが出来なくなった。
「わたしに用というのは?」
 訊ねると、マイクロトフは複雑な面持ちでカミューを見おろす。石段を数段登り、カミューは彼の立っているのと同じ段に上った。それでも瞳が間近に出会うには身の丈の差がある。少年時代のマイクロトフのほっそりした姿を思い出すと、奇妙な感じがした。
 相変わらず闇の中の中からこちらを見つめているような警戒心が彼の背中や腕を包んでいたが、ふとそこから力が抜けたように思えた。
「部屋に来ないか、カミュー」
 男そのものの姿に変って久しい友人。彼の唇から、最近では馴染んだ欲望を暗示する、かすかに掠れた声が漏れた。








 部屋に入って先ずマイクロトフがしたことは施錠だった。
 その手元を見おろしたカミューの非難するような目に気づいて、彼は目を逸らす。
 そして、カミューの手を引いて窓の側に引き寄せた。南西を向いた窓からは、燃え残った夕陽が差し込んでいる。その中でマイクロトフは飢えたようにカミューの目を覗き込んだ。
「────何だ?」
 いぶかしむ問いかけにも答えようとしない。色の淡いカミューの目は夕陽を透かすが、マイクロトフの瞳は黒く沈み込む。しかしその中にも射抜くような光があり、カミューの瞳や頬には、あきらかに強い視線に炙られる感触があった。
 やがてマイクロトフはふっと短い息をつき、剣呑な光を宿した黒い瞳を閉ざした。額に小さな汗の粒が浮かんでいることに気づいて、カミューは眉をひそめた。
「背中を見せてみろ」
 自分よりも一回り大きな身体を窓辺に押しつけるようにして腕で囲い込み、肩から羽織った上着を引き下ろした。上着はそのまま足許に落ちる。
「カミュー」
 抗おうとするようにマイクロトフが声を上げるのを、傷ついて包帯を巻かれた腕を掴んで自分に引き寄せる。
「……っ」
 痛みに息を呑む友人の肩を押しやり、自分に背中を向けさせた。
 カミューは息を呑んだ。そこには、片腕の幅ほどもある長く不自然な傷跡が拡がっていた。ホウアンの云った通り、左から右へ斜めに断ち切られた跡が残っている。しかし、そこにはあきらかに新しい皮膚が張り、日に焼けてなめらかな光沢を帯びた皮膚の中で、生白く無惨な傷のかたちに拡がっていた。まるで白い巨きな蛇を巻き付けたようだ。新しい傷とも古い傷ともつかない、不可解な紋章の力のはたらいた痕跡がそこにはあった。
「小さな傷なら跡形もなく治せるとナナオ殿もおっしゃっていたが……」
 マイクロトフは息をついた。
「痛むのか?」
 答えるまで少し間があったが、マイクロトフは肯いた。
「明日になれば大分ましになるそうだが……紋章で繋いだ筋や骨が馴染むのに、少し時間を要するらしい」
 カミューの中でまた、ちり、と苛立ちが動いたようだった。
「……背骨も傷ついていたのだな」
「ああ」
 言葉少なく答える彼の表情の薄い顔に、カミューは先刻抱いた暗い怒りが新しくよみがえってくるのを知った。
「いったい何故、そんな身体でグリンヒルからわざわざ帰ってきた?────いや、それよりも何故、こんな無謀な真似をしたんだ?」
 マイクロトフの唇の両端がほんの僅かに上がった。仕方無げに黒い瞳を伏せる。
「……どちらにも答えにくい」
 カミューはため息をついた。背筋に怒りのふるえが走り抜ける。しかし、彼はその怒りを心の奥底に隠しておくことに関して、人に不実と評されるほど堪能だった。今この場で追求することを半ば諦めて上着を拾い上げ、傲然と立つ男の肩に着せかけてやる。
「食事は」
「摂っていないが、必要ない」
 マイクロトフは短く答えた。
「それより触れさせてくれ」
「莫迦を云え」
 カミューはようやく苦笑することに成功した。
「痛みがあると聞いたばかりだぞ?」
 左腕が伸び、カミューの頬に触れる。その指は愕然とするほど冷えていた。それは、数日前にマイクロトフが突然見せた失調と同じ冷たさだった。
「お前に触れれば治る」
「いい加減にしろ、マイクロトフ」
 カミューは冷えた指に、自分のてのひらのあたたかさをうつしてやろうと、マイクロトフの手を静かに握り込んだ。
「どうしたんだ────お前らしくもない」
 カミューのその言葉に、彼はかすかに目を見開いたようだった。
「……おれらしくないだろうか?」
 ぽつりと答える。彼の瞳に浮かんだ光は、見違えようの無い欲望の光だ。しかしその中に、子供のそれのような孤独が覗くのを見て、胸が小さく疼いた。カミューはそっと指を解き、苛立ちや疑念を腹の底に落とし込むようにして、頬に触れた。
「打ち明け話をするのに、わたしでは不足か?……」
 宥めるようなつもりで声を低めると、黒い瞳は抗議するようにまたたいた。
 マイクロトフは押し殺した息を吐き、寝台に腰を下ろした。背中が痛むようでかすかに浅い息を繰り返している。そろそろと自分の膝に肘をつき、片手で顔を覆った。
 それでも心情を吐き出すまでは少しの時間を要した。
「グリンヒルにはお前はいない────なら、おれが帰って来るしかあるまい」
 カミューは答えなかった。沈黙以外に答が見つからず、マイクロトフを見降ろす。
「お前に応えて貰えば楽になるかと思った……だが、正直────苦しくなるばかりだ。今まで経験のないことで、嫉妬していることにも最初気づかなかった……」
 途切れながら言葉が続いた。
「ただお前を尊敬して、賛美していれば良かった頃とは違う。おれのものにしたいと思ったところでどうなる? お前のような男をおれだけのものにしておけるものか?」
 カミューは、羞恥でも喜びでもなく、戸惑いと訝しさに愕然として、マイクロトフのかたくなな顔を見守った。
 この生硬な感性の男、血や骨の代わりに、大義と義務の錬金術で作られたような男の口から聞かれる言葉だとは信じられなかった。
 それでは、マイクロトフは自分に会うために傷を押してグリンヒルから戻ってきたと云うのか。
 背筋を、細かなふるえが包んだ。
 動揺に熱くなる。
 しかし、当の本人はカミューの動揺に気づかなかった。何から云えばいいのか分からないように小さく首を振る。
「お前の目を覗き込むと、そのときは嘘のように楽になる。全てがうまくいくように思える……だが、そんな気持ちは長続きしない……またその前よりも苦しくなるだけだ」
 語尾が掠れ、感情が高まったのが分かった。一度覚悟を決めたせいで独白はなめらかになり、マイクロトフの唇からあふれ出した。
「剣を取っている時は少し楽になる。何かするべきことがあって、打込んでいられる内は。……だが、部屋で夜一人きりになれば同じことだ。そうすれば無理にも仕事を探し出して務めを果たすか、お前に会うことでしか楽になれない」
 最後の言葉はつぶやきのようだった。
「まるで中毒症状だ」
「……それは」
 唇の乾きをそっと湿してカミューはつぶやいた。
「特別不思議なことではないだろう。……誰かを想うようなことがあれば」
 そう云いながら、彼の言葉によって語られているのが自分だということに気づく。不意に小さな恐慌が訪れ、項が熱く火照った。
「だが、そんな状態は長く続くものじゃない────」
 マイクロトフがはじかれたように険難な目を上げる。そのあやうさがカミューの狼狽を深めた。
「……いずれ静まるさ」
 今苦しんでいると打明けるこの男に、そんなことを云って聞かせてどうなるというのだろう。自分の言葉の愚かしさに鼻白む思いでカミューは視線を落とした。頭がうまく働かない、奇妙な感覚があった。
「静まる?」
 マイクロトフの瞳はいささか陰惨に輝いた。その光は夜空で蒼く凍る孤独な星のようだった。彼は落ち着いた声で、低くカミューの言葉をくりかえした。考え込むように黙り込んだが、やがて薄く微笑した。大きく息を吐き出して背中をそろそろと伸ばす。
「静まらなくていい……」
 ささやくように掠れた声が云い放った。
「今の気持ちがなくなるなら、苦しんでいた方がましだ」
 その言葉は、カミューの胸に刺さった。
 そうだ。マイクロトフは自分とは違う。騎士団に居た頃もまさしく、身を切るようにして働く男だった。騎士団と彼らに与えられた仕事にしか興味のない男のように見えた。大きな体の中に石の骨格を呑んでいるようだった。そのくせその中に暗い熱が燃えさかっているのが垣間見える。自分はそれを感じ取ってこの男に惹かれていたのだ。
 そして、マイクロトフが、母国に心と剣を捧げたのと同じように、その自虐的とも云える潔癖な気持を自分に捧げたのだと、彼は初めて知った。そのかたちも彼らしさを失ってはいない。嫉妬に氷のように胸を冷やしてもそれを口に出すこともなく、剣を握って公の務めに時間と力を割くことで埋め合わせていたのだ。
 全てが腑に落ちてカミューの胸は詰まった。息が苦しくなる。先刻心臓に刺さった棘が、致命的な深さにまで届くのが分かる。棘の痛みはカミューを苦しめたが、しかし一瞬前にマイクロトフがそう云ったように、彼もまたその痛みから解放されたいとは思わなかった。
 彼は腕を伸ばし、男の肩に触れた。熱い肩はその感触にびくりと竦んだようだった。
 その拍子に上着が滑り落ちようとするのを、再び着せかけてやる。思い直して寝台の隣に坐り、上着ごとマイクロトフを抱きしめた。先刻は傷に触れることを気遣おうとしなかったが、今は痛みを遺す背中や腕に触れないよう、やわらかに項を巻いて引き寄せた。マイクロトフの大柄な身体は緊張を解かず、かたくなに強張ったままカミューの腕に抱かれている。
 冷えた頬に自分の頬を押しあてる。マイクロトフには、カミューの感情が高ぶって皮膚を熱していることが分かるだろう。
 唇を探ると、黒い睫毛が閉ざされて、マイクロトフは彼のくちづけに応えた。陶然とした息が漏れてカミューと重なった。唇は未だ動揺から抜け出せないように冷たかった。しかしそれはすぐにカミューの熱と交じる。こうなって最初の頃はぎごちなかった彼のくちづけだが、最近ではカミューの触れ方や好みに馴染んでいる。
 あたたかい水に出会ったように背筋が欲望にくるまれ、幾度か小さくふるえた。
 焦れたような浅い息を吐き、それでもカミューを侵害しようとはしない男の冷えた唇は、逆に心の奥にまで忍びこんでくるように思えた。
 窓の外は輝かしい鉛丹の夕暮れから、全体が灰色を帯びた青い夜に変り始めている。夕刻から夜へ移行する不安定な魔の一刻は終わり、潔癖な夜が訪れようとしていた。
 風はうす闇に冷やされて、なおさらに触れ合った肌や息のあたたかさを強調する。
 今まで自分の目を繰返し覗き込んだ、飢えたような瞳を思い出した。そこにひそんだ痛みの影、動揺に冷えたてのひらの冷たさを思い返す。カミューの胸は熱いものに濡れた。上着の中に手をすべりこませ、なめらかな傷跡にそっと触れる。
「お前のものにしたければ、好きなだけ持って行け」
 彼の髪に顔を埋めたマイクロトフの耳元にささやく。
「心でも、目でも────手足でも。今まで誰にもやったことはない。今から全部お前に捧げてもいい」
 マイクロトフは顔を上げた。額にはやはり薄く汗が浮かんでいる。苦痛と昂揚に湿ったその額を、カミューは自分のてのひらでつつみ、汗をぬぐい取ってやる。
 やがて、マイクロトフは甘苦く唇をほころばせ、目を閉じた。
「……そんなことは無理だと分かっているが────空を飛んでいるような気分だ」
 訴えかけるようにささやく。
 自分もほんの一瞬前、そんな風に心を高揚の雲の上に引きずり上げられたのだ。
 マイクロトフだけにそんな事が出来る。今まで誰も持たなかった影響力を、カミューの身体にも心にもふるっている。
 そう告げようとして、しかしカミューは口を噤んだ。
 彼が自分の言葉で幸福になるなら、毎日一言ずつ囁いてやればいい。
 その発想は、まるで婦人に毎日花を一輪ずつ捧げようとする、恋に落ちた男のもののようだった。甘い想いにおろかしく盲目になった者だけに訪れる、空を飛ぶような陶酔の一瞬。中毒が深まることや禁断症状を恐れながら、苦しい鼓動と嫉妬を選び取るのだ。
 今、カミューの胸を高鳴らせるこの想いを、全て一度にマイクロトフの胸に押しつけることはない。花束にすればある日一斉に枯れる想いでも、一輪ずつ手渡してゆけば、苦しみと昂揚をひきのばすことになるだろう。
 想いがいつか鎮静するものと思う自分。そして鎮まることを望まない彼との違いが、こうして触れていると、体熱の差のように混じり合って溶けてゆくのが分かる。
 やがて欲望の気配を恥じるようにマイクロトフの身体はひそかに動き、静かにカミューの背を抱きしめた。








 窓の鎧戸を閉ざした後灯りをつけて、二人は裸の身体を寝台に滑り込ませた。
 自分を抱くマイクロトフが灯りをつけておきたがる理由を、カミューはようやく知ったように思った。熱気と傷の痛みに息をつまらせながら、時折マイクロトフは真剣な顔で彼の目を覗き込む。そこにあるのが形だけでなく心も添っていることを確かめるように、何一つ逃すことのない闇のように、覗き込んでくる。
 今まで彼は誠実ではなかった。好意でマイクロトフに応えることに、どこか優越感すら覚えていたように思う。年下の友人の稚い恋を宥めてやっているような気にさえなっていた。しかし欠けて未熟だったのは自分だったことをカミューは知った。
 執着を自覚した途端に、腕も肌もまるで意味が変る。視線や、口づけが離れる時の小さな音でさえ、目や鼓膜を通して五感に鋭く訴えかけてくる。心臓はずっと同じ高さで鳴り続けている。息苦しさに自失しそうだった。
 マイクロトフの視線の下に開いた身体を晒すことも、今までは多少の抵抗があるだけだった。しかし、感覚の過敏な高低を繰り返しながら視線に晒されると、それだけで高まりかねない程の興奮がこみ上げてくる。事実、指や唇だけでなく、その視線は、快楽のしるしがしたたるほど彼を追いつめた。
 いつもより酷く疼いて震える彼と、魔力でつなぎ合わせた背筋の痛みに竦むマイクロトフは、まるで初めての夜を分かち合うように未熟で荒々しい抱擁を交わすことになった。
 どこか望むほどは届かないような感覚に焦れて身もだえる。愛撫を返そうとしても、マイクロトフは不満の色を目に浮かべて、彼の腕を押しのける。今夜は特別に抑制がきかなくなっているようだった。仕方なく、カミューは自分を抱く男の傷の痛みに触れまいと、息を殺すようにして身を委ねる。
 力の抜けた身体に不意打ちのようにやってくる衝撃は、喉を灼き、項で身体を支えなければならないほど背筋を強張らせた。
 声を殺せずに彼にすがりついたのも初めてだった。
 汗を帯びた黒い睫毛を瞬かせ、カミューの身体を覆った男は微笑した。苦痛と欲望に背中を喘がせながら、カミューの耳元に、そっと充足のため息を落とし込んだ。
 







 今まで、寝床の中で決して自分より先に眠ったことのなかったマイクロトフが、初めて眠りに引き込まれるのをカミューは見た。寝息はやすらかに静まり、疲れ切った彼は死者のような深い眠りに落ちていった。カミューは、眠るマイクロトフの青ざめた顔を眺めた。色の淡い唇と、冷たく整った鼻梁を、傷に消耗して削げた頬を見つめる。
 思い立ってそっと手を伸ばし、その造作に静かに触れてみる。
 疲れた黒い瞳を休ませる薄いまぶたに先ずは触れた。
 そこが記憶通り温かいことを確かめてカミューは微笑する。あたたかな安堵がこみあげてきた。彼が無事に帰ってこなければ自分はどうなったことだろう。そう思ってぞくりと背中をふるわせる。どちらも欠けるわけにはいかなくなったのだ。そんな風に思った。
 相手より一歩遅く恋に落ちた男は、自分の両の目を、相手以外の目にはさらすまいとするように、たわむれるようにてのひらで覆った。
 てのひらの窪みで作ったささやかな闇に、人恋しげに自分を覗き込む瞳の黒さを思った。

00: