サークル「湖底同盟」の三浦かなこさんのゲスト本に載せて頂いたもの。グラスランドの設定違いが、今見るとちょっと悲しい。青と赤、仲良しの同盟参加後話。

続き





　ハイランド軍・キバ将軍の猛攻に撤退を余儀なくされた同盟軍は、自軍内部の不和、底力の不足に疲弊してノースウィンド城に引き上げていた。
　休息時間を割り当てられた兵士達は、それぞれの宿舎や、城門の内側に設えられた野営に散った。中庭には炊き出しの煙があがり、鎧を脱いだ男達が列を作った。医師の天幕には、次々に治療のための薬草や布が運び込まれた。しかし、今日はシュウが早い撤退の決断を下したため、怪我人も死者も少ない。
　代わりに、どこか険悪な倦怠がノースウィンド城にただよっていた。
　騎馬大隊の大将として出陣した元マチルダ騎士団の騎士団長二人は、ようやく長い軍議を終えて、自分達に割り当てられた、城の中ほどの小さな個室に引き上げた。
　マチルダ騎士団を離反した彼等にとって、同盟軍の一大将として出陣する、初めての闘いだった。それを撤退という形で打ち切られて、マイクロトフが苛立っているのを、カミューは感じ取っている。重く黒い瞳と髪、冷たい容貌のマイクロトフは、その実、心も身体も炎のようだった。彼はいつもゆらぎながら燃えている印象がある。誰の手に掴み取られることも拒む熱を、身体の中に隠し持っているように見える。
「そう苛立つなよ」
　服をあらため、マチルダでは騎士見習いだった若い兵士の運んできた食事の盆を携えて、カミューはマイクロトフの部屋を訪ねてきた。騎士団にいた頃は、居心地が悪いほど広い居室を与えられていた彼等だが、この城では石造りの小部屋を与えられただけだった。
　平民の家に生まれ育ったカミューには何の不満もない。むしろ、自軍を見放して同盟に移ってきた自分達が、同盟の中で特別扱いをされれば、いたたまれない思いをしたことだろう。大部屋の兵士達も多い中で、騎馬大隊の大将であるために、個室を与えられたことに意外な思いをしたほどだった。
　彼は、同盟においての緒戦について語りながら友人と夕食を摂ろうと、気楽な気分でこの部屋を訪ねてきたのだ。マイクロトフは、軍議に出るためにつけた礼服も脱がずに、物騒な怒りを漂わせて椅子に座り、組んだ長い両足を床に投げ出していた。
「リドリー殿のことで苛立っているのだろう？」
　カミューは、二杯目のワインをグラスに注ぎながら、マイクロトフの顔をうかがった。
「……」
　マイクロトフは答えない。
「国に不満があれば離反することもある。わたしたちもそうやってマチルダを離れたんだ、仕方ないさ」
　マイクロトフが暫く機嫌を直すつもりがないようだと知って、彼は食事を摂るのに専念した。固いパンをちぎって、ワインで流し込んだ。焼いた肉は塩がきつく、固かったが、それでも温かい食事は有り難い。戦場の糧食を思えば苦にならなかった。カミューは万事、充たされればよし、充たされぬならばそれもよし、というように、自分の気持の帳尻を合わせる習慣ができている。
　それに、彼は戦場での疲れを癒す以外にも、体力を温存しておく必要があった。
（だが、この分なら今夜は無いか？）
　彼は、空になった皿を押しやり、遅い春の、今は火の焚かれない暖炉の傍らに、ゆっくりと身をもたせかけて立ったまま、三杯目のワインに口をつけた。
　そうして、火がついたように苛立っていたマイクロトフから、徐々に怒りが消えて行き、それが、いつものもどかしくゆるやかな炎に変って行くさまを黙って眺めた。こんな風に静かに彼を眺めるのは初めてのような気がした。
　夢の中で彼の姿が現われることは多いが、夢の中で見る彼は、望遠鏡の向こうに覗く人の姿のように、遠くぼんやりと歪んで見えた。現実の彼は、もっと鮮やかでもっと熱く、はるかにカミューの胸を揺らした。揺れることの少ない自分を揺り動かす男の姿を、カミューは目の覚める思いで記憶に取り込む。またとない絵を目にして、それから目を逸らすことを惜しむように。
　やがてマイクロトフは深い溜息をついた。
「……悪かった」
　暖炉と壁の間に身を預けて、自分を酒の肴に杯を干すカミューをまぶしそうに見上げる。
「いいさ」
　カミューは暖炉の上に置いてあったワインの瓶を振ってみせた。その中味の半ば近くまでが既に彼の咽喉を下っていた。
「飲めよ。放っておくと、全部飲んでしまいそうで困っていたところだ」
　カミューは、マイクロトフの目の前の椅子に腰をかけ、彼のグラスに強引に酒を注いだ。
　マイクロトフは居心地が悪そうに眉をひそめたが、あきらめたように手を伸ばし、グラスに注がれた白い酒を一気に飲み干した。そこにもう一杯注ぎ込む。マイクロトフはあきれたように彼の顔を見詰めたが、やがてちらりと笑った。二度目に注がれた酒を、今度は一口飲んで、ようやく夕食に手を伸ばした。
「人は国から離れることもある、無論。……国そのものに心が残っていてもそうなることを、おれはこの身をもって知ったからな。だが、人の気持の変遷には、それなりの積み重ねがあるものだ。違うか、カミュー」
　カミューはうなずいた。
「おれたちが同盟に身を投じて、さほどの時間はたっていない。だが今日の闘いが、あのリドリー殿に変遷を促すようなものだっただろうか？　どうにも流れが見えない────そもそもこの程度のことに自軍大事の気持が先立つようで、リドリー殿が今までどうやって将として軍を率いてこられたのかわからない。その程度の男なら、今までの闘いで失脚するなり死ぬなりしていたはずじゃないか？」
　リドリーは、よくも悪くもコボルトを最優先する、民族主義的とも云える将軍だった。彼は同盟軍の一部を担うことよりも、粉骨砕身コボルトに尽くす軍人だった。それは寄せ集めの同盟では当然の結果だった。
　彼等の上に立った少年指導者の影響力をもってしてさえ、それは変らないことだったのだろう。しかし、今日の闘いが、さほど彼の民族主義に影響を与えたとは思えなかった。コボルトの配備の位置に不満があるとは、軍師シュウにとっても言いがかりのようなものだ。それに対して、シュウがさほど意義を唱えなかったことにも不審が残る。
「云い過ぎだぞ、マイクロトフ」
　しかし、カミューはかたちばかりたしなめた。
「……ああ。分かっている。だが、おれには納得できない。子供の陣地取りの遊びではないんだ。将兵の命を預って闘う将軍が、遊び飽きた子供が棒切れを放り出すように戦場の最中から離脱するというのが解せない。それだけだ」
　マイクロトフはやりきれないような息を短くつき、盆の上でさめたものをゆっくりと口に運び始めた。
　マイクロトフの丈夫な白い歯が、食物を噛み千切る。咽喉が動いて、咀嚼したものを咽喉の奥に送り込んでいく。それだけだ、と云いながら彼の気持はおさまらないようで、長くはないが、揃った黒い睫毛の下で、暗い色の瞳が考え込むように沈んでいる。
「大丈夫だ」
　カミューはそう云って思わず笑った。この思い詰める男の真剣さを愛しいと思った。
「おそらく、リドリー殿にも考えがあってのことだろう。あの頑固な武人殿は、一度仲間と呼んだ者共をそう簡単に裏切りはすまいさ」
　マイクロトフは顔をあげた。その黒い瞳の中で好奇心が動くのが見えた。彼は思案するように沈黙して、夕食の残りをゆっくりと飲み下した。
　部屋の傍らに用意された水差しから水を汲み、汗をおびた顔や手を洗った。彼が何か自分に尋ねたいのだということは承知していたが、カミューは黙って杯を傾けた。
　身支度をするマイクロトフのために最後の一杯を残しておこうと、カミューはそれ以上自分のグラスに注ぎ足すのをあきらめた。マイクロトフも自分も並み以上に飲めるのだからしかたがないが、ワインの瓶一本など、二人で飲んではひとたまりもない。
「それはお前の、人や物事を見極める目……とも云えるだろうが、おれにはそれが先見の明だけとは思えないことがある」
　マイクロトフは戻ってきて、てのひら半分ほどの高さを残した酒を透かし見て、半分をカミューのグラスに、残りの半分を自分のために注いだ。
「まるで先のことをすっかり見通しているようだな。おれもそのおかげで、随分助けられているが、おれの知らない情報源か……何かの力がおまえにあるのではないかと思うことがある」
　マイクロトフは低くつぶやいた。カミューは足を組んで椅子に沈み、目をあげて、ひとつ歳下の友人の目を見詰め返した。
　マイクロトフに、自分のことを話して聞かせることに抵抗はなかった。
　しかし考えてみれば、「それ」について殊更に人に話して聞かせたことがなかったため、どう切り出そうか迷った。
「聞きたいか？」
　彼は思わずにやっと笑った。マイクロトフは気を悪くしたように苦笑し返した。しかし腹を立てた様子はなく、肯いてみせる。
「夢を見る。……先のことを漠然と見る夢だ」
　カミューはゆっくりと言い出した。
　黒い瞳がいぶかしげにまたたいた。
　カミューは秘密を打明けるように声をひそめた。
「……これが結構、当たる」
「いつもか？」
「まさか。時々だ。肝心な時に役にたたないこともあれば、助けてくれることもある」
　マイクロトフは目を伏せた。カミューの話にじっと耳を傾けているのが分かった。
　カミューは、夢の話を隠していたわけではなかったが、この話を聞いた者は決して信じるまいと思っていた。マイクロトフなら、ふざけるな、と怒りを見せるくらいのことはあっても不思議はない。真面目に耳を傾ける彼の姿にかえって居心地の悪い思いがあった。そのくせ耳元を風が吹き抜けて行くような解放感もあった。
「……いずれ一緒に行くべきだ、ということも分かっていたような気がする」
「誰と誰が？」
「わたしが、お前とだ」
　カミューは、神妙な面持ちで座る青年の肩を、指先でとん、と突いた。
　夢は彼の進むべき道の行く手をしばしば照らした。昨年もそれは訪れた。マイクロトフの夢だった。
　夢は印象的な昏さと光を兼ね備えており、それが唯の夢でなく、意味を汲み、やがて訪れる選択に備えるべきものなのだと分かった。それは長年の目が覚めても薄れず、忘れようのない不快さをもって晩秋の彼の眠りの中に訪れた。
　その夢は、敵方に回った彼と自分が闘い、自分がマイクロトフの胸を貫く、という夢のかたちでカミューに訪れたのだった。
　その夢のもたらした不快感は、いまだ彼の胸の中に生き残っている。寝床の中で背中を汗に湿らせ、苦しい呼気と共に飛び起きた。自分が低く、声さえも漏らしたのを覚えている。
　マイクロトフがゴルドーに離反した時、自分も同じく離反の道を選んだのは、あの夢のせいでなかったとは云えない。マイクロトフと離別する道を選べば、自分はあの夢のように後悔することになる。それはカミューだけの持ち得る確信だった。
「はっきりしたものじゃない。そんな気がする、というだけの話だ。眠った時に見る夢でなく、或る光景が目の前にぼんやり浮かんでくることもある」
「そうか」
　マイクロトフは目を上げた。
　暫くして、彼らしくない慎重な声でささやいた。
「……それでリドリー殿は大丈夫だ、と？」
　そう云いながら、カミューを見詰めている。
「そうだな。……」
　カミューはうなずいた。
「この話を信じられるのか？」
　いささか意外に思って尋ねると、マイクロトフは怪訝そうに目を細めた。
「お前に出来ておれにできないことは幾らでもある。それがひとつ増えるだけの話だ。……おれはそういう夢は見ないから、よくは分からないが……」
　カミューはどこかしら小さく胸を突かれたように思った。目の前の男がひどくまぶしく思えた。
　それに気づいたのでもないだろうが、不意にマイクロトフは、部屋に灯されたランプに息を吹きかけ、燈を消した。一瞬、油の匂いが強く漂って、部屋の中は暗闇になった。しかし、燃え残ったランプの熱が、ほんのかすかな光源となって残っている。ほぼ影しか見分けられない部屋の中で、マイクロトフは自分のかけていた椅子から立ち上り、カミューに近寄ってきた。腕を引いてカミューを立たせる。間近に彼が頬を寄せてくる。彼の身体が含んだ熱気がカミューを押し包む。そのままうなじを温かい手で抱かれた。
「……今夜、いいか？」
　声がかすかに掠れているようだった。
「灯りを消した後に聞くのか？」
　その瞬間、ふと闇に馴れた目が、目の前に立った男の瞳の黒さを見分けた。それは闇にまじったものを映す鏡となって、カミューの姿をかすかに拾い上げていた。
「……駄目なら部屋には来ないだろうと思った」
　その声に含まれた微妙な甘さにカミューは微笑した。闘いの後、こうして手を伸ばしてくる彼と、夜の時間を共にするようになって数年たつ。それ以外でも、時折こうして過ごすことはあるが、それは闘いの後ほど濃厚ではなかった。
　闘いはマイクロトフを高揚させる。あり余った力は容易には逃し難く、関節や四肢にはらんだ熱をやり過ごすようにして、マイクロトフはカミューをかきよせる。
　そうして熱と熱情、カミューと自分とを激しくかき混ぜ、放熱の中で絡み合い、朽ちて渾然と脱力する瞬間を迎えるのだ。
　最初は弟のような存在であり、のちに最良の友人になったマイクロトフの求めるそれに、カミューは戸惑った。
　だが暫くして、それが自分たちの関係に害をきたさないと知った。カミューと寝るようになっても、マイクロトフは変らず無骨で真っ正直であり、潔癖であり、怒気に似た炎と共に敵と打ち闘ったのち、高揚を共有しようと、夜、カミューの部屋の扉を叩く。
　最初の晩こそマイクロトフには余裕が無く、荒々しかったが、それ以来彼がカミューの夜を無理矢理に侵害するようなことはなかった。扉を開けた彼を前にして、マイクロトフはいつも目を伏せ、はにかむように低くつぶやいて相手の意志を確認する。
　そして、カミューの口から肯定の言葉を聞いてようやく、またとない尊くやわらかなものに触れるように両腕を伸ばして、彼の身体をかき抱くのだ。
　マイクロトフの「儀式」に自分が関わっている事に、やがてカミューは、奇妙な喜びを感じるようになっていた。
　元来楽天家のカミューにとっては、行為の後の独特の疼きや、微細な嫌悪感だけが問題だった。マイクロトフがそれに思い悩まないなら尚いい。
　幾つかの懸念が取り払われた時、カミューは思い悩むこと一切をやめたのだ。

　息があがる。うなじを支える手が煩わしいほど、身体が熱くなっていた。隣り合わせた部屋からも人の気配がする。この部屋で自分達が何をしているのかを気取られぬよう、息を殺すのも新鮮だった。
　シーツにつけた背中が熱くなる。背中から昇ってくる熱と、自分に覆い被さっているマイクロトフの身体の熱とにはさまれて、朦朧としてくる。今晩のマイクロトフは、妙に何度もくちづけて、カミューの唇から逸れていっても、再び戻ってきた。触れるだけのそれを何度も唇に落したかと思うと、深く絡んでくる。
　カミューがあおのいて、マイクロトフがそれにかぶさっている、その姿勢が生み出す結合の深さを最大限に利用して、深く噛み合わせ、乾いた空気にかさついていた唇の表面を潤ませる。
　そうしてくちづけていると、益々身体の触れ合う部分が多くなり、融けるような、包まれるような奇妙な気分になる。
「……苦しそうだ……」
　息をはずませたマイクロトフが不意に耳元にささやきかけてきた。
「どうした？ カミュー」
「……苦しそうか？」
　カミューは、うす暗がりの中でマイクロトフの頬に触れた。そのまま撫で上げて髪に触れる。硬い髪の感触が、優しい針のように手に触れる。こめかみの皮膚を揺らすマイクロトフの鼓動が指先に絡んだ。
「お前も息があがっている」
　ささやくと、マイクロトフは少し笑ったようだった。
　指を首筋に下ろし、ついで肩に触れ、胸にてのひらをあてがう。見事に硬く張った胸筋の下で、マイクロトフの心臓が走りつづけている。心臓の位置で手を止めた。忙しく鳴りつづける音を確かめながら、もう片方の手で、自分を見下ろす男の背中を引き寄せた。

「祖母は目を開けて、昼の光の下にいながらにして、未来の夢を観たそうだ。魔女の目だと言われていた」
　カミューは、服に袖を通すマイクロトフの背中に向かって、独り言のようにつぶやいた。マイクロトフは反応を見せて、振り返った。ランプは再び灯されて、部屋の中に金色の光を放っている。ランプのあたたかな光を、黒い瞳がいぶかしげに跳ね返した。
「魔女？」
「ああ。その頃はそう呼ばれていたそうだよ。紋章もよく使ったというから、きっと強い魔力を持って生まれたんだろうな」
　マイクロトフは口の中でもう一度小さく、魔女……とつぶやいた。好奇心が沸いたように座り直し、手を伸ばしてカミューの髪に触れた。
「そのために虐げられるようなことはなかったのか？」
　カミューは愛撫されているような不思議な気分で、マイクロトフの無骨な手に髪を触れられるに任せ、記憶を呼び覚まそうと目をしばたたいた。
「グラスランドはそんな気風じゃない。むしろ、魔力の持ち主は重宝がられたくらいだ。礼金を受け取って未来を占ってやるようなこともあったようだな」
「お前は覚えていないのか？」
「ああ。俺が生まれる前に死んだそうだ。だが、散々聞かされたよ。祖母の目がどんな不思議な力を持っていたのか。その夢が何をもたらしたのか」
　カミューは自分の目を指差した。
「祖母譲りなんだ、この目は。一族で緑色の目を持っているのはわたしと祖母だけらしい。魔力の守護を戴いた目というわけさ。祖母ほどの力はないが、その代わり、わたしは殆どお前の夢しか見ない。効き目としては同じ程度のものなんじゃないか？」
　半ば笑いながら、そう云う。
　ふと気づくと、マイクロトフはひどく真面目な顔をして自分を見守っている。カミューはそろそろと起き上がった。マイクロトフを迎え入れた部分に鈍い痛みがあった。
　マイクロトフの情熱が自分に向くのは一種独特の快感があるが、しかし大きな闘いがあるたびに傷めつけられるのは歓迎できない。自分か彼が、この行為にもう少し馴れる必要があるだろう。
「どうした？」
「……やはり夢などでなく、お前はお前の判断で動いているのだろう、カミュー」
　そう云って、マイクロトフは髪に触れていた指先で、そっと彼のまぶたにふれた。指は熱い。散々熱を逃すために抱き合っても、マイクロトフの皮膚はやはり炎のようだ。
「もしその目が俺にはまっていても、きっと硝子玉ほどの役にもたたない」
　暫く黙り、マイクロトフは低く、
「魔女の目は、未来を覗き見る英知の象徴なのかもしれないな」
　そう云った。
　彼の手放しの賛辞に、カミューは面映ゆい思いをした。それは自分を買いかぶり過ぎているというものだ。しかし長い間、高揚したマイクロトフがなぜ自分の部屋をを訪ねるのか、彼の余りの潔癖さゆえに理解し難かったカミューは、ある答をもたらされたように思った。
　彼と自分の上に平等にもたらされた、どこか互いに盲目になる瞬間、いうなれば恋のもたらす、こころの大いなる拡散と狭窄を垣間見た思いで、カミューは珍しく顔を赤らめた。
　その時ふと、目の前がぼんやりとゆらいだ。暗い部屋の隅に人影のようなものがゆらめいた。同盟の軍師であるシュウと、リドリー将軍だった。
　彼等二人が、広げた地図を前に深刻な表情で話し込んでいる姿が、蝋燭の炎のようにあえかに浮かんだのだ。それはほんの一瞬カミューの目の前に現われ、ランプからかすかにたちのぼる煙の中に溶け込むようにして消えていった。瞬間的に息を呑んだ。こんなふうにはっきりと暗示する何かが目の前に現われたのは初めてのことだ。
「マイクロトフ」
　彼を呼ぶと、からりと切り替えたような、醒めた声が出た。
「もう休もう。シュウ殿はすぐに作戦を練って巻き返しを試みるだろう。わたしたちがすることは幾らでもある」
　マイクロトフはいぶかしむ様子もなく、うなずいた。
「そうだな」
　しかし彼は何も云わなかったが、服を身につけて扉へ向かうカミューの腕をとらえた。
「どうした？」
　カミューの瞳を覗き込んだマイクロトフは、何か目に見えぬ光に射られたように目を細め、首を振った。しかし視線を逸らそうとはせず、カミューを見ている。
　やがて彼は意を決したように囁いた。
「……美しい目だと思ったんだ。特別な力などなくても」
「どうしたんだ、いきなり」
　先刻の言葉といい、この言葉といい、彼が普段口にする言葉に似つかわしいとは思えない、大盤振る舞いの賛辞にカミューは驚かされる。
　────特別な力などなくても。
　先刻もマイクロトフはそんな云い方をした。どうやら、マイクロトフはカミューの夢の神秘性を否定したいようだ。その言葉の意味に思い当たって、ふとカミューの気持が和んだ。おそらくマイクロトフは、自分がカミューを要求する気持に、特別な理由があるからだとは思いたくないのだ。
　特別な力などなくともカミューを信頼し、求めているのだと、彼が言外にそう言っているのが解る。
「……ありがとう」
　彼は光を背にして立つマイクロトフの姿を眺めた。世界への警戒心と火のような大義を持って歩く巨きな獣の様な友人が、自分の側でくつろぐこと、自分をまっすぐに見詰めることへの喜びがあった。誇らしく思った。
「マチルダ騎士団の礼服を着けることを、同盟で許されてよかった」
　彼はしかし、胸のうちをマイクロトフのように打ち明ける代わり、そう云った。
「やはり、お前には、あの青い礼服が似合ってる」
　面食らったような顔になったマイクロトフにそっと唇を近づけ、くちづけを掠め取ると、カミューはおやすみ、とささやいて扉を開け、廊下に出た。
　春の夜明けは冷え込む。部屋の中は二人分の熱で暖かかったが、廊下はうなじの産毛をこわばらせるほど冷えていた。マイクロトフと一緒では寒さなど感じるはずもない。そんな風に思って笑う。

　マイクロトフはマチルダに離反したことで苦しんでいるが、カミューは、すでに祖父母の国を捨ててマチルダに渡って来た男だ。両親は夜盗に襲われて死に、マチルダやミューズに散った僅かな身内は、ハイランド皇国を巡る不穏な世情に疲れてグラスランドに帰った。カミューの中では、自国という物が漠然として形のないものになりつつある。殊に同盟は一つの国ではない為、この先戦いに勝っても、自分がどの国に腰を落ち着けるのかは分からなかった。
　カミューはいつも直感で動いた。理を重んじながらも、いつも情を優先してきた。昼の夢と夜の夢、双方に明日を預けて、流れに沿うようにして、自分が望む明日へと泳いできた。そのために昨日の自分と違う岸に辿り着いても、苦痛は感じない。
　だが、マイクロトフは彼の選択肢に抜き難く大きく関わった。
　国に預けない剣を、自分はこころの中で彼に奉げたのだ。
　カミューは肩を竦め、窓の外に耀く野営の光を見下ろした。白い息を吐きながら自分の部屋への道を歩く。
　先刻マイクロトフが触れた感触を思い出して、自らのまぶたに触れる。
　魔力の守護があるのであれ、ないのであれ、世界に幾人の人がいるのか解らない中で、マイクロトフを見分けた、自分のみどり色の両目に、カミューはひそかに感謝をささげた。