早起きの騎士が手にしたもの。
他の話とはつながっていません。
おそらく、いつも自分が目を醒ます時間通りに、マイクロトフは目を開けた。
彼はその瞬間、胸の中に小さな喪失感がこみ上げたことを不思議に思った。だが、やがて記憶がゆっくりと甦ってくる。彼は静かに身体を起こした。無意識に、眠りに落ちる前に胸に抱いていた相手を、同じ場所に見出そうとしていたのだ。だが、寝台のマイクロトフの隣は空だった。彼は手を伸ばして、シーツの上を撫でた。雨の続いた城の寝台は静かに冷えている。
カミューがそこを抜け出してから些か時間が経ったようだった。
カミューは友人だった。
それが過去のことになってしまったのかどうか、マイクロトフには判断できなかった。
彼との友人としてのまじわりが過ぎ去って行くとすれば、新しく来たるものにどんな名をつければいいのか、それもまだ分からない。彼の今の気持は、恋と名付けるにはかろやかさに欠け、愛と名付けるには寛容さに欠けるように思えた。だが、カミューを今までの友人の座に無造作に据えておけないのではないか、と思った。
寝台から下りながら腕を上げ、背中を伸ばすと、かすかに肩の左側に痺れを感じる。そこに紅くなめらかな髪が載った時の重みが、いまだに残っているようだった。マイクロトフは、自らの硬いてのひらを広げてみた。そこに触れたカミューの髪を、肌を覚えていた。身体を水で洗い流してしまった後も、生々しく溶け合ったカミューの汗の匂いを覚えている。
紅い火花が油の上に燃え落ち、一瞬で炎が広がるように、カミューの意味が変わったことに、彼は戸惑っていた。
昨晩まで自分達の間にこんな想いが介在していただろうか?
彼等二人は、共に騎士の誓いを立て、共に騎士団の中で上り詰めた。誓いの象徴を共に捨てた。同盟に下って故国に背いた。マチルダ騎士団領とは相容れなかったトラン共和国と、同盟が手を結ぶ様子を見届け、ハイランド王国に魔王のように君臨していたルカ・ブライトを暗殺した。その過程で、カミューと自分とは、益々わかちがたい戦友の絆を結んだ。そこに肉欲が入り込んでくることなど想像もしていなかった。少なくとも昨夜、暗い灯りの中で目を見交わすまでは。
酒さえ飲んでいなかった昨晩の二人に手を貸したものがあるとすれば、ルカ・ブライトの死がもたらした解放感だったかもしれない。殊にマイクロトフは、ルカ・ブライトに怨念に似た感情を抱いていた。あの男が死ぬまで、自分の気持は決して安んじることはないだろうと思っていた。それを彼等の盟主────十六歳の少年がこれほどに早く、これほど鮮やかにやってのけたのだ。
憎むべき敵を謀殺するという、独特の暗い高揚と達成感は、二人の青年の眠りを殺した。五感が冴え冴えとする異様な感覚の中で出会った視線には、何か特別な意味があるように思えた。
マイクロトフは、一晩たった今も、何かの合図のように双方の唇から、笑みが消えた瞬間をまざまざと思い出せる。
うなじを引き寄せたのはカミュー。
唇を合わせたのはマイクロトフだった。
お互いの唇に、頬に、顎に、耳元に唇を這わせた。息が荒れる。視線と世界とが回り、境界を失った二つの身体はぴったりと合わさったまま、もろともに寝台に転がり込んだ。
そして、マイクロトフはそれまで想像もしなかった快楽を、友人のしなやかで敏捷な身体から汲み出すことになったのだった。
彼は、立ちあがって窓の外を眺めた。昨夜から明け方にかけて降り続いていた優しい雨は止み、雲に生まれた大きな裂け目から光がさしていた。思わぬ巨きな勝利を得た古い城と、それを取り囲む森は洗い浄められてひっそりと光っている。ミューズ市をみはるかす湖は空と雲を映してかすかにさざ波立ち、やわらかな絹を貼ったようだった。
カミューは部屋に帰ったのだろうか。
そう考えて、マイクロトフは自分が完全には目覚めていないことに気づき、思わず苦笑した。
彼等が夜を共にしたこの部屋が、カミューのものであることを思い出したからだ。
カミューは闊達な反面、思惟に多くの時間を割く男だった。マチルダ騎士団領にいた頃も、ものも云わずに副官を従えて執務室に籠り、そののち会議に臨むのが常だった。
それ故に赤騎士団は、事実以上に権謀術数をもって事にあたる集団として、周囲の目に映ったようだった。しかし、赤騎士団の若き長とその幹部が謀に長けていることは確かだが、カミューは、理想や慈善、哲学についても常に深く内省した。無論、白騎士が知れば柔弱とそしるであろう思索に、充分な時間を費やすことができたのは、カミューの地位のもたらす恩恵だったと云える。のちに同盟に下ってからは、カミューの内省にあてる時間はますます贅沢品となった。
そのため、カミューが一人になれる場所を絶えず探していることを、マイクロトフは知っていた。カミューが姿を消しているのを周囲に気取られないようにして探しに行くのは、同盟にやってきてからの彼のひそかな楽しみでもあった。
カミューが姿を消す場所の幾つかをマイクロトフは思い浮かべた。
銀の粒のような滴をしたたらせる中庭の木々を眺めて、場所の見当をつける。
そして、湖を見晴らす丘への小道を上っていった。暑さに干上がっていた草花は全て厚く水気を孕み、瑞々しく夜明けの光に輝いている。湖からの風が吹きつけ、甘い花の香を運んで来た。そこここに紅い星を散らすのはクローバーの花だ。陽が高くなれば子供と女達のやってくる場所だが、早朝の人目のない時間は、母親達は湖の傍へ子供を近寄らせなかった。深い湖と、荒くれた兵士達。どちらが幼い子供たちに害を成しても、不思議ではなかったからだ。
濡れた草の道を登り切った時、早朝の光を受けて、さっとあかがね色の髪が輝くのが見えた。
マイクロトフは足を止めた。
丘に繁る、老いた花茨の茂みの傍に佇む人の、髪の輝きを見つめた。
柔らかく押し包む湿気の中で髪はゆるやかに流れ、背中の中程まで届く優美な波を生み出していた。人並み外れた、すらりとした長身と、その赤みがかった黄金の髪ゆえに、背中を向けたその女が誰なのか、マイクロトフにもすぐに分かった。
トラン共和国からの客人。女ながらに六将軍の地位についた、剣士バレリアだった。
バレリアは一人ではなかった。マイクロトフの尋ね人と向かい合って、熱心に何かを語り合っていた。
簡素な黒い衣装を身につけ、踵の高いブーツを履いたバレリアは、向かい合ったカミューの額ほども背丈がある。華やかな髪や白い皮膚の色がよく似通った二人は、年の近い姉弟のように見えた。
親密に身を寄せ合う二人は、夜明けの逢瀬を楽しむ恋人同士にも見える。昨日、カミューを抱いたのでなければ、何の抵抗もなくマイクロトフはそう思ったことだろう。
不意に、鋭い嫉妬の刃に胸を刺されて、彼は丘に至る道の中程で立ちすくんだ。今までは、カミューがどれだけ頻々と愛人との時間を楽しんでも、マイクロトフは一度も嫉妬を覚えたことはなかった。踏み込んでゆけない線をそこに見いだす淋しさはあった。だがそれはあくまで鷹揚な色調の、友人としての感情であり、このように胸に食い入る嫉妬とは根本的に違った。
自分の中で何かが変わってしまったのだろう。たった一度の行為で心の色を変えるとは、余りにも浅ましいのではないだろうか。
歩みを凍り付かせて見上げるマイクロトフを余所に、二輪の薔薇のような男女は話し続けている。
ふとカミューが一歩後に退き、バレリアの左手をすくいあげた。低く身をかがめ、その手の甲に軽く唇を押しつける。
嫉妬の刃がもたらす、ほぼ物理的な痛みを感じて、マイクロトフは思わず胸に手をやった。血がおそろしく早くめぐり始め、こめかみで拍動した。
バレリアはカミューのくちづけに驚いたように目を瞠ったが、すぐにそれをなごませた。男勝りに切れの長い目は、細めるとようやく甘さがにじむ。やんわりと左手をカミューから取り戻すと、バレリアはその手を軽く掲げて挨拶し、マイクロトフのいる方へ足早に丘を下ってきた。
密会に居合わせたのではないか。そんな気まずさを覚えたのはどうやらマイクロトフだけであったようだ。バレリアは彼を見出して足を止め、軽く肯いた。そしてぐっと肩の骨をひらくように胸をはり、マイクロトフとすれ違って、大きな歩幅で城の方へ歩み去って行った。
「マイクロトフ!」
カミューが、ようやく彼に気づいて、明朗な声で彼の名を呼んだ。余り大声を出すことのない彼には珍しい、晴れやかな高い声だった。こころが浮き立っていることをはっきりと表した、そのカミューの声のあかるさは、マイクロトフを一瞬前に傷つけた嫉妬が、無意味であることを語っているようだった。
「カミュー」
自分の大きな身体を、その場から消し去ってしまいたい思いをしていたマイクロトフは、息をついて彼の名を呼んだ。マイクロトフの口から出た己の名を聞いた瞬間に、カミューの表情が変わった。花が開いたようだった。マイクロトフをまぶしそうに見つめ、照りきらめくような微笑を浮かべた。
「探しに来てくれたのか」
「────ああ」
マイクロトフは躊躇いながら肯いた。
「……こんな時間に出て行くとは、何かあったのかと思ってな」
「悪かった。どうしても外を歩きたい気分になってね」
カミューは花を咲かせた野薔薇の茂みを離れ、マイクロトフの方へ下りてきた。マイクロトフが小道を上って行く歩みと合わせて、双方から距離が縮まった。道を下るカミューは笑いながら云い出した。
「お前には覚えがないか? じっとしていられないほど浮かれている時、とにもかくにも外を歩き回らずにいられない思いをしたことは? 夜明けだろうと、夜中だろうと、昼日中でもとにかくお構いなしに」
マイクロトフは足を止めた。カミューはすっかり身なりを整えていつも通りの彼に戻っている。だが、その中には自分を迎え入れるための、あかるい扉が一枚開いているように見えた。
「今朝がそうだったのか?」
そう尋ねると、カミューのヘイゼルの瞳はもの云いたげにきらめいた。
日の高くなり始めた城の外にいるにも拘らず、マイクロトフは彼の髪を撫で、その瞳を間近に覗き込みたいと思った。その不可思議な衝動は昨日まではなかったものだったが、今や最初から動かずそこにあったように思えるほどだった。
「バレリア殿と約束があったという訳ではなさそうだな?」
先刻生まれた嫉妬の欠片が思わずそう云わせたが、カミューはそれを問題にもしなかった。
「ああ。あの方はわたしと違って、この時間にはいつも外に出ておられるそうだよ。朝が苦手だと云ったら叱られてしまった。わたしよりもお前と気が合いそうだな」
マイクロトフは首を振った。
「そうは見えなかったが」
腕を挙げ、顔を傾けて、手の甲へのくちづけを真似てみせる。
「見ていたのか」
カミューはそれでも悪びれるようではなかった。
「バレリア殿は左手に烈火を宿されたのだそうだ。わたしのように、右手に宿しているものと違って、左に宿す烈火は難物だ。紋章酔いも強い。あのように剣に秀でた方が、同時に紋章を使いこなす力もあるというのは驚くべきことだな。ましてや婦人の身体の中で、相反する二つの力を飼い慣らすのは容易ではない」
「それは────実に」
マイクロトフは自分の手に視線を落とした。何の紋章も宿さない左手の甲が目に入る。
右手に宿した、融通のきかない騎士の紋章を補うため、彼は同盟に下った後、他の紋章を左手に宿そうと思いたった。幾つもの紋章を試したが、そのたびに彼の右手は手痛い拒否反応を起こし、当分は諦めるように、と紋章師に云い渡されたのだった。バレリアの話を聞けば、自分のそのことと比べて見ずにはいられない。
「大きな力を持つ者でさえ、安穏とは宿しておけないのが、烈火のような紋章の困ったところだ。左手の手袋の下を、バレリア殿は傷だらけにしておられたよ。あれは────」
カミューはバレリアにしたのと全く同じように、マイクロトフの左手を握った。
そして同じく、くちづけを落とす仕種をしてみせる。
「役得と云うべきものだが、ささやかな祈りを捧げたのさ。無粋な火が、これ以上あの美しい手を傷つけないように、とな」
彼は満ち足りた顔をして笑った。
「何しろ今日のわたしは、世界中を祝福したい気分なんだ」
マイクロトフは、美しいとは世辞にも云えない、自らの無骨な手を彼に預けたまま、ため息をついた。
「その祝福におれも肖りたいものだ」
彼としては精一杯の秀句のつもりで冗談めかせると、カミューはやんわりとマイクロトフの手を押し戻して、今度は彼の頬に触れた。頬骨の上を、形よく整った爪がかすめて、マイクロトフは瞬間的に目をすがめた。
ただ一瞬まぶたを閉ざした彼の隙をつくように、唇に柔らかな感触が押しつけられた。押し当てられたものは柔らかくマイクロトフの乾いた唇を吸い、小さな音をたてて離れた。
「お前は当事者だ。他人事のような顔をするな」
警告めいた声に目を開けると、案に相違しておだやかな表情の美しい顔があった。
マイクロトフは何と返すべきかを迷った。彼に触れるのが怖いような、離れた唇に再びくちづけたいような、相反する感情に悩んだ。
だが、カミューは彼に即答を要求しなかった。
マイクロトフの目を見上げたその目はゆっくりと逸れて上へ向かい、次第に青さを見せる空を映した。
「今日は晴れるな」
あたかも、それがひどく大切なことであるかのように、ゆるやかに丁寧な発音でカミューはそうつぶやいた。
カミューの声の中に、新しい関係を歓迎するおおらかさと、今までの関係を安全に保護する力強さが同居していることに、マイクロトフは不意に気づいた。
先ほど寝床を抜け出したとき、自分が彼を今までのように友人として遇することができなくなるようで、不安になったことが思い出された。
それはおそらく杞憂だったのだ。
口づけは必ずしも友情を追放する手段ではなく、そこに違った感慨を加味するにとどまることもある。
そして、マイクロトフは同時に、自分の不安の源を覗き込んだ思いだった。彼はカミューを失うことを恐れていた。失うかもしれない、と思ってみれば、カミューの友情はマイクロトフにとって甘美なものであり、衝動や欲望と引き替えにするには、余りにも貴重だった。
「カミュー」
マイクロトフは自らの硬質な声に、カミューが易々とやってのけるように感情を込めようと努めた。言葉がうまく出てこないことを、彼が許すように、と祈った。
「お前の友情を受け取るのに足りないことはもどかしいが────だが今朝は、お前の寛容さに感謝する」
野薔薇とクローバーの香が彼等を取り巻き、雨に濡れた草地に徐々に暑さが戻ってきた。
無骨な言葉に、カミューは微笑して、逸らした視線をマイクロトフへと戻した。
「感謝の気持を示す気はないのか?」
からかうようにそう云われる。誘い込むような言葉の魔力に抗うのをやめ、マイクロトフは腕を広げて彼を引き寄せた。
今度は躊躇いは感じない。
花の香ごとカミューのしなやかな背中を抱え寄せ、彼の示唆に答えるべく目を閉じた。