少しみじろぎするだけできしむ、宿屋の粗末な寝台の上で、夕暮れの月のようなランプを間に、青年達は向かい合って座っていた。
二つ並んだ寝台にそれぞれ座りながら、言葉を一旦とぎらせて思案するマイクロトフが、もう一度話し出すのをカミューは待っている。
マイクロトフの、鋭角で意志的な顎の形をカミューは見つめていた。神経質に剃られた顎は、夕刻になろうというのになめらかだ。あの顎の中で、マイクロトフが兵士に配られる硬い肉や、そして幾ばくかの葛藤をかみ砕いていることを彼は知っていた。マイクロトフの、上下ががっしりと組み合わさった歯列────それが彼の顎の形のよさをつくりだしている────の間から、静かな葛藤を破って、ようやく言葉を引き出す瞬間を、カミューはいつも最大限に楽しんでいた。
美麗な音楽や、婦人の心からの笑い声、草の上を渡る風の音のように、カミューの頭の中の、快楽の泉をたたえた場所に、マイクロトフの言葉はじかに訴えかけてくるのだ。
こんなことを思っていると知ったら、友人はどう思うだろう? カミューには想像がつかなかった。マイクロトフがどういう行動を取るかということなら、大抵予想がつく。短い付き合いではないからだ。だが、その行動の裏にどういうこころが隠れているかということは分からないのだ。
「いや────」
マイクロトフは口を切った。
「エルベルト城跡に母が暮らしていたというのは、正しくはないかもしれないな。城の地下に母が眠っていた、というのが父の云い分だ」
「地下に?」
マイクロトフは片手を軽く挙げて、カミューを押しとどめた。
「いや、すまない。エルベルト城の話は一度忘れてくれ。どこから話せばいいのかまだ分からない」
カミューは肯いた。
「そうしよう」
マイクロトフは、書物の記録を確かめながら話すように、膝の上に組んだ手に目を落とした。
「おれの記憶にある父は身体を壊しがちで、余り外にも出かけない男だったが、その父が若い頃旅に出て、妻を伴って帰った。父よりも更に若い娘で────それがおれの母だ。母もまた病弱な人で、おれが生まれて四年後に亡くなった。母の出自について父は話そうとしなかったし、母の親類とも一度も会ったことがない。執事の話では、母は外国人だったらしい。父と一緒にやってきてから暫くは、会話も出来ず、父が子供に教えるように言葉を教えていたとか」
「どこの国の方だったかも聞いていないのか?」
「おれの家に仕える執事は、共通語の他に、ハイランドやハルモニアの方言も────聞き取るだけならば、もっと北の国の言葉も分かるそうだが、父と結婚して間もない頃の母の言葉は、一度も聞いたことのない言葉だったと云っていた」
カミューは、そのように線の細い両親から生まれたとは思えない、健やかな長身の友人を眺めた。真っ黒な目も髪も、典型的なマチルダ貴族の血筋としか思えない。
「わたしは、お前こそ生粋のマチルダ人かと思っていた。外国の血が混じっているとは思わなかったよ」
「おれもそう思っていた。父はおれに母の話をしたくなかったと見えて、家の者にも口止めをしていた。だから昨今まで、母について自分が知らないのは、早くに妻を亡くした父の心の痛み故で、特別な理由はないと思っていた」
マイクロトフがそう云った時、扉を軽く叩く音が聞こえてきた。
「お客さん、お食事です」
扉の向こうから声が聞こえてきた。彼等をこの部屋まで案内した若い男の声だった。迷いがちな表情で話していたマイクロトフは、どこかほっとしたように立ちあがった。
「おれが受け取ってこよう」
彼はそう云って扉を開けた。
小柄な青年が、大きな平皿を二枚持って扉の向こうに立っていた。
「冬場のことでたいしたものはありませんが」
「いや、充分だ」
「今、飲み物をお持ちします」
宿の若者が急ぎ足に去って行くと、マイクロトフはきびすを返し、運ばれてきた料理を小さなテーブルの上に置いた。
「この小さな村で、急な客を充分にもてなすだけの準備をしておくのは、楽なことではないだろうな」
マイクロトフの漏らした生真面目な感想には、カミューは答えなかった。
「お前は、母上が外国の方だということを実のところ知っていたんじゃないか?」
「何?」
マイクロトフはいぶかしげに眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「何もお前が嘘をついていると云っているわけではないさ。だが、記憶に残らないほど幼かった頃に、ご両親の話を漏れ聞いたかもしれないだろう。お前の抱くデラシネはそこから来ているのではないか?」
マイクロトフは益々得心のいかない表情になった。
「デラシネとは?」
「わたしの郷里で使う言葉だが、故郷を喪ったような、自分の存在の原点を失ったような気持を抱くことだ」
マイクロトフは睨むようにカミューを見つめた。黒い瞳の中に、ほのかな焔のようなものが揺らめくのが見えた。
「そんな話をお前にしたことがあったか?」
「昔に一度。知り合ったばかりの頃だよ」
カミューは、マイクロトフがその感覚について話した時の情景をまざまざと思い出せる。マイクロトフがまだカミューをそれほど親しくは思っていなかった頃だ。カミューもまた、マイクロトフをよく知らなかった。自分の気持を打明けるというよりは、独り言のようなつもりで話したことを、カミューが重く受け止めていたのだろう。
「そうか」
やがてマイクロトフは表情を僅かになごませた。
「お前には話したのか」
その言葉で、自分がかつて聞かされた話が、そう頻繁に友人の口にするものではないということにカミューは気づいた。マイクロトフと親しくなってからも、自分と彼との間で、それに類する話題が出たことはない。カミューはひそかにその事実に満足した。友人が自分にしか心情を吐露していないということも、マイクロトフがそういった話題に多く時間を割く男でないことも、カミューの望み通りだった。
マイクロトフはため息をついた。彼の若々しい頬がかすかに歪む。
「会ったばかりの頃か。異国へ一人でやってきたお前にそんなことを話すとは」
カミューは首を振った。
「わたしは新天地のもたらす刺激を求めて、選んで国を出たんだ。やむにやまれず故郷を離れた訳じゃない」
マイクロトフは身じろぎし、ランプの火をその瞳が映して、夜の水面に金の粒を落とし込んだようにきらめいた。
「お前への尊敬の念がそのことで曇るわけではない」
少々ぶっきらぼうにマイクロトフは云い放った。
カミューは、ほのかな灯りの中に浮かぶ友人の顔を眺めた。自分の気持が表情に出たかどうかは分からないが、正直なところ不意を衝かれた気分だった。
悪意や作為で細工を施された言葉には、カミューは動じない。何の訓練をした訳でもなく、彼は生まれつき、負に対する免疫があるのだった。
心を統御することは、馬を走らせることに似ているとカミューは思っていた。手綱を無闇に引き絞ることなく、鞭をあてることなく、僅かに方向を示唆するだけで静かに走らせる。馬は疲れることなく、ゆったりとした二拍子で走り、最小限の危険で目的地にたどり着く。
だが、マイクロトフは時折、カミューの心を激しく鞭打つことがあった。常足でまっすぐ道を辿っていた心が、突然御者を振り落とすような襲歩で走り出す。その理由は幾つか思い当たるが、カミュー自身にも断定は出来なかった。マイクロトフにかき乱されると、カミューは自分の心の平静さを保つのに苦心し、普段は使わない精力をそれに費やすことになってしまう。それだけの変化を、信頼を顕わすほんの一言がもたらすのだ。
「どうやら、わたしが話を逸らしてしまったようだな」
彼は努力して微笑し、背筋を起こして座り直した。
「いや、おれの方こそすまない」
マイクロトフは首を振った。彼はおそらく話しあぐねているのだ。
「わたしたちは休暇中だ。急いではいない。────少なくともわたしは」
カミューは最後の言葉をつけ加えた。自分よりも、年下の友人が、より時間や規則に縛られる人間だということを思い出したからだった。
「別に一度に話さなくていい。話しやすいことから話してくれれば」
「ああ」
マイクロトフはかすかに安堵したように肯いた。
宿の青年が後で届けると云った飲み物を持って、扉を叩いたのはこの時だった。今度もマイクロトフがそれを受け取りに行った。自分の言葉に肯いたのとは裏腹に、マイクロトフの気持が急いているのをカミューは感じた。マイクロトフは常日頃から、する仕事がないことに恐怖心を感じる男だ。常に自分の為すべきことを探している。長靴を脱いで腰を降ろした、遠出の先の宿屋でさえそうなのだ。
宿の者が置いていった飲み物は、木製のゴブレットになみなみと注がれたホットワインだった。湯気と共に、蜜と香料の香がした。新年の客入りで上等なワインの在庫がなくなっているため、一工夫したのだろう。酔いはしないが身体が温まる。
手渡されたワインを啜ると、肉桂の香が楓蜜の甘さにまじりあってたちのぼってきた。
二人はささやかなテーブルにつき、温かい宿の食事に手を伸ばした。幾つかの雑談ののちに、マイクロトフはようやく、先の続きを話し出した。
「秋に、父が肺病で死にかけたのは先に話した通りだ。おれたちが国境にいた頃だな。家にも無論戦況は伝わっていた────父は、自分の病について前線に手紙を寄越そうとはしなかった。おれをわずらわせまいと思ったのだろう。手紙は、おれが帰城した頃に届くよう、ロックアックスの父の知人の手に預けられていた。国境守備隊が結成されることになって、おれたちがロックアックスに帰って間もなく、その婦人がおれの手に父の手紙を届けてくれた。母の遺品もそこに入っていた。一つは、お前に見せた万華鏡だ。もう一つは、母が死ぬまで身につけて、決して外そうとしなかった指輪だ。指輪そのものは貴石のはまった、ありふれた白金の細工だが、少々変ったところがある」
マイクロトフはそう云いながら、荷の中から、厚く柔らかい布でくるまれたものを取り出した。
「これだ」
黒い厚織の布の中からは、白く染めた小さな革袋が出てきた。袋を縛っていた赤い絹紐をほどき、マイクロトフは小さな女物の指輪を取り出した。彼の手元を覗き込んだカミューのてのひらの中に、指輪を落とし込む。
カミューはその指輪を火にかざした。古い品物だということだが、色あせずに輝いているのは、マイクロトフの母が亡くなった後も手入れをされていたのだろう。白くなめらかな輪の上に、模様を刻み込んだ台が載せられ、天辺に薔薇色と緑色の二層に成るトルマリンがはめこまれていた。
「台に継ぎ目があるな。蓋になっているようだが?」
「開けてみてくれ」
カミューは、そろそろと指輪と台を隔てる継ぎ目に爪をかけ、繊細な蔓草の彫られた小さな台を持ち上げた。すると、そこは空洞になっており、丸い縁に台がかぶさるように作られているのが分かる。世が動乱の時期には、貴族はしばしばこのような細工に毒の粉を仕込んで持ち歩く。
「何か入っているな」
カミューは中に目を凝らした。小指の先ほどの大きさの、灰色の板のようなようなものが中に入れられているのが見える。焦げた木片のようにも見えた。
「出してみてもいいか?」
「ああ」
マイクロトフは、自分のてのひらを差し出した。カミューは指輪を傾け、マイクロトフのてのひらのくぼみの中に、その小さなものを落とし込んだ。マイクロトフがランプを手に取り、それで自分のてのひらの中にあるものを照らした。
「これが何だか分かるか?」
「見当もつかないな」
それは、灯りで照らしてみると木製ではなく、堅い金属で出来た精巧な作り物であるのが分かる。すべすべした黒い表面は輝きを放っており、銀色の細い針金のようなものが表面に何本かうねって取り付けられていた。それは余りにも繊細で小さく、人の手によって作られたものだということが信じられないほどだった。
マイクロトフは親指と人差し指の先で、それを慎重につまみあげて、自分達の目の位置まで持ち上げた。
「父が母にこれは何か、と尋ねたところ、母は『これは子供の持つ迷子札のようなものだ』と答えたらしい」
「迷子札?」
青年二人は顔を見合わせた。
「マイクロトフ。もしもお前が話し出したこの物語に結末があるなら、先に聞かせて欲しい気分になってきたよ。お前の母上が異国の方だとしても、およそわたしたちの知らない、遠い国から来た方としか思えないな」
「父もそう思っていたようだ」
マイクロトフはにこりともせずに肯いた。そして、傍らの荷物から、何度も読んだと知れる、少しくたびれた手紙を一通取り出した。
「いずれにせよ、お前にはこの手紙を見せるつもりだった。だが、万華鏡や指輪を見せてからでなければ、この手紙は余りにも荒唐無稽に過ぎると思ってな」
「これは前置きだったという訳か」
カミューは、マイクロトフの指先から小さな金属片を受け取り、指輪の元の位置に落とし込んで、蓋を閉めた。
「ああ。最初に手紙を読んだときは父の正気を疑ったのだが……」
マイクロトフは眉をひそめた。
「指輪も、装飾品も、思えば子供の頃に見たことのあるものだが、父が厳しく保管していたので、手にとって見たことはなかった。その品がどんなに────異国的なものなのか、おれにも理解出来ていなかったのだ。だが、この度手紙と一緒に改めて眺める機会を得て、信じられないことではあるが、おれは父の言葉に耳を傾けてみるつもりになった」
彼は自分より少し小さい、カミューのてのひらに自分の手をかぶせるようにして、その手紙を押し込んだ。
「読んでくれるか?」
黒い目に真っ直ぐに見つめられて、カミューは思わず怯んだ。彼の暗い、寂しげな瞳の中に、およそ自分への無防備な信頼を見出した為だった。そして、それを快く思うのと同時に面映ゆく感じる、自分のこころの動きを不可解に思った。こうしてマイクロトフと二人で旅に出ることで、何か彼と自分の間で、特別なことが起こっているような錯覚を覚えた。
「謹んで拝見しよう」
マイクロトフといて、今までこういった気詰まりを覚えたことのなかったカミューは、冗談めかした口をきくことで、自分を落ち着かせようとした。
手紙は長かった。薄く家紋を透かし入れた便箋に、少し震える字で書かれた手紙の厚みを目で確かめて、カミューはランプを引き寄せた。
親愛なるマイクロトフ
この度の、国境を守る戦線から我が息子が無事に戻り、またその働きが報われたことを心から神に感謝している。故国の為の戦いとは云え、疲れて戻ったことだろう。存分に疲れを癒し、また次の務めに力を発揮出来るよう、鋭気を養ってくれるよう望んでいる。
おそらく、私が秋に肺熱を患ったことを────夫人から伺ったことと思うが、今は回復の途を辿っている故、殊更に見舞う必要などはないので、そう心得て欲しい。ただ、帰城して落ち着いたなら、お前の様子を手紙で書き送って欲しい。お前が健やかに過ごしているのか、働きを取り立てて頂いているか、逆に武勲を焦って周囲の方々に迷惑をかけていないか、気にかけている者がここにいることを思い出して欲しい。
私がこの手紙を書いているのは、お前に便りを無心するのみならず、頼みたいことがあるのだと率直に云わねばなるまい。ただし、お前が日々騎士団の務めを精一杯に果たしていることは承知しているので、この頼みは不要不急のものだと思って貰いたい。しかし、今から話すことは、お前にも多少の関わりのあることなのだ。
お前が家を離れ、騎士団に入ることを願い出る前、お前の母、────の故郷について尋ね、私が答えられなかったことを覚えているだろうか? おそらく覚えているだろう。お前は子供の頃から、よくよく知りたいと思い、考え抜いたこと以外を尋ねる習慣はなかった。父親の立場にあってもこう云うことを許されるなら、お前のそういった思慮深い部分は誰に似たのだろう? 私ではなく、余り長い時間を一緒に過ごすことの叶わなかった────に似ているような気がしてならない。
この手紙は────について私の知り得たことを、お前に話そうと思って書き始めたのでもある。私の書くことがとても信じられない、空想じみたことに思えるかもしれないが、この老人の記憶が薄れぬ内に耳を傾けて欲しい。
私がエルベルト城跡に、アルノーを伴って出かけたのは二十六年前の夏だ。アルノーはその頃まだ我が家の執事ではなく使用人の一人だったが、私とは年も近く、旅行に出かける際には必ず彼を伴って行った。私がエルベルト城で見た事は、全てアルノーも共に見た事だと云えば、お前もそれが信頼に足ると思うことだろう。
今も恐らくそうだろうが、エルベルト城を訪ねる事は多くの若者の気持を惹きつける事だった。私にも昔は、怖ろしげな話の伝わる古い城を訪ねてみようという好奇心があったのだ。それは涼しい夏で、殊の外身体の具合もよかった。
だが、数日を費やして訪ねたエルベルト城と麓の村は、噂に聞いていたような怖ろしい場所ではなく、私もアルノーも拍子抜けしたような気持だった。城の外観だけを見て帰るつもりが、城の中に入り、降りられる限り地下への階段を下ろうなどと思いついたのは、楽天的な気分があったからに他ならない。
エルベルト城の地下は深かった。裕福な城主ならば誰でも城を深く掘り下げるものだが、思うに、あの城の地下は元々そこにあった深い洞窟をそのまま補強して城の一部としたものであり、おそろしく入り組んでいて、安全なものとは云えなかったのだ。道を下る途中で、危険な場所もあった。狭い階段はやがて急な下りの道になり、その道もところどころが崩れていた。辿るにつれて細くなる道を、何故私が降りていこうという気になったのか、慎重なアルノーが私を止めなかったのか、今となっては分からない。まるで魅入られるようにして、私達はエルベルト城の地下に分け入って行ったのだ。
大分長い時間歩いたのち、私達は狭く湿った道を抜けて、突然、天井の高い広間のような場所に出た。そこがどんな場所だったか、とても一言では説明出来ない。天井からは様々な長さの鍾乳石が下がって白く輝いていた。わたしたちの歩いていた細い道はついに行き止まりになり、その向こうには深く澄んだ、丸い地底湖があった。そこは私達の手に持った松明ではとても照らし切れない広さだったが、光はあった。地底湖の手前の広場に何か、硝子で作られた巨大な豆のさやのようなものが横たわっていて、光はその中から輝き出ていたのだ。
引き返すべきだ、とアルノーが云ったのはその時が初めてだった。
だが、虹のように様々な光が漏れだしてくる、硝子のさやの中を覗き込まずに、私はとても帰れなかった。私は今も昔も勇気があるとはとても云えないが、その臆病さを脇に押しやってしまうような、魔力のような力がその場に働いていたのだ。
今にも逃げ出しそうな足で、私はそろそろとそれに近づいた。硝子のさやの傍に立って初めて、そのさやが凍り付いていることを知った。中は空洞になっていて、内にも外にもびっしりと霜がついている。白く曇った硝子の向こうから光が漏れだしているのだ。近づいてみると、辺りが暗いので非常に明るく見えていたが、実際はそれ程大きな灯りではなかった。それは、丸い奇妙な形の棺のようなものであるのが分かった。私の想像を裏付けるように、直ぐ傍に跪いて覗き込むと、その中に人が横たわっているのが見えた。
今もって私はその硝子の容れものが誰によって作られたものなのか、何のために作られたものなのかをはっきりとは理解していない。自分が如何にして、また、何故その凍り付いた棺を開けたものかも分からない。蓋が開いて中に眠っている婦人の顔を見るまで、私はそこにあるものが亡骸だと信じて疑わなかったし、何か忌まわしいものを目にするのではないかと恐れてもいたからだ。
しかし恐れにも拘らず、私はその棺の仕掛けをどうやってか解き、白く凍り付いていた蓋は大きく開いた。凍るような冷たい風が中から吹き出して、覗き込んだ私の目に染みた。
硝子の棺の中には、唇や髪に白く霜をつけた若い婦人が横たわり、枕元を不思議な光を放つ何枚もの板が取り囲んでいた。光は七色に輝いて、婦人の顔や、そこを覗き込んだ私を照らし出していた。それは美しく不可解な光景だった。アルノーも私も長い間動けずに、その美しい亡骸と奇妙な仕掛けを見つめていた。
凍って紫色になった唇と、まぶたがかすかに動いた時、私達がどれだけ驚き恐れたか。そこから逃げ出さなかったのは、もしもその婦人が生きているのなら、どうしてもこの城から連れ帰りたいという望みが、心中で火のように燃え上がったからだった。
もうお前は、この話の先を察した事だろう。エルベルト城の地下で、凍った硝子の箱の中に眠っていたのは、────、つまりお前の母だったのだ。
私は────を先ずは近隣の村に連れ出し、一月後、家に連れ帰って妻にした。話す言葉は分からなかったが、徐々に言葉を教えた。お前が生まれたのは共に暮らすようになって二年後だった。
不自由な言葉を教えながらの短い六年間では、────の身に起こったことを全て理解することは出来なかったが、────は、あの棺を「舟」だと云った。また、指輪に入った小さな鋼の欠片のようなものは、「子供の迷子札のようなもの」と云った。「舟」が誤った岸辺に漕ぎ寄せた故に帰れなくなったが、もしも────を迎えに来る者が、あの「舟」を見出したなら、指輪の細工と呼び合って、────の今の居場所を探り当てることが出来るだろうと。
────は我々の土地では長く生きられない。それ故に病を避け、舟の中で何年も眠って、ようやく命を永らえて来たのだ。この「岸」に辿り着いたのは、その言葉を信じるならば数十年も前であり、最後の城主のエルベルト公が、数年に一度ずつ、湖まで「舟」の様子を見に降りてきたのだと云うのだ。
だが、エルベルト公が「舟」の許に降りてこられなくなったのは、お前も知っての通りだ。エルベルト城の周りで魔物が出るという噂が立ち、実際に城や村の者がおびただしく死んだからだ。エルベルト公は逃げるように城を捨てたが、「舟」とその住民を連れ出すことは出来なかったのだろう。いや、むしろ私は、公は「舟」が魔物を呼び寄せていると思ったのではないかと考えている。そうでなければあの地底に────を置き去りにするなどということは有り得ないと思えるからだ。
私はアルノーにさえ、自分が何をしたのかを打明けたことはない。だが、今はお前に打明けなければならない。私は妻を失うのが怖かった。いつまでも迎えを待つ妻を恨めしく思った。あれが────を元の世界に返す「舟」なのだと聞いた後、私はひそかに湖までもう一度赴き、硝子の棺を湖に沈めてしまったのだ。
この手紙を読んで、お前は私の気が狂ったと思うだろうか。
「舟」を沈めて数年も経たずに────が亡くなって以来、苦しまなかった日はない。
────はあの透き通った舟を「ランテルナ・マジカ」と呼んでいた。お前の母の元いた国では、人や世界を映し出す光の仕掛けをそう呼んだのだそうだ。
「舟」で見知らぬ国の間を漕ぎ回る間に目にする情景は、その仕掛けの中に見る情景に等しい。それ故に「舟」を作った者は、光の仕掛けと同じ名前を、「舟」に与えたのだそうだ。
もしも────があの「舟」の中でこれまで通り眠り続けていれば、また、迎えに来た者があの「舟」に出会っていたなら、あのように無惨に病み衰え、若くして命を落とす事はなかったかもしれない。そう思うと、私は自分の身勝手さに焼かれる思いだ。
昨秋に肺熱に苦しめられ、死を覚悟した時、私はどうしても今一度「舟」の在処を確かめなければならないと思った。だが、今の私にエルベルト城へ出向くだけの力は残っていない。
もしもお前がこの話に耳を貸してくれるならば、城跡に出向き、まだ地下室からあの湖に行けるかどうかを確かめて欲しい。そして、お前の母の乗って来たという「舟」がまだそこにあるのか、まだあるとすれば、それがもう壊れてしまったのか、お前の母を探しに来る者の目印に未だ成り得るのかどうか。
それを確かめて欲しいのだ。
カミューは、友人の、病んだ父親の書いた手紙から顔を上げた。
その後の数行はエルベルト城の話から逸れ、息子の近況を気遣う言葉で締めくくられていた。自身の具合については殆ど語られておらず、彼の苦しみが主に肉体的なものよりも、若くして亡くなった妻への自責の念によって生まれる、精神的な苦しみであることを物語っていた。
「エルベルト城にそんな地下があるとすれば、騎士団が今までそれを知らないでいるとは思えないが」
カミューは、先ず一番無難なことから口にした。
「ああ。おれもそのことは考えた」
マイクロトフは感情の籠らない淡々とした声で答えた。
「この手紙に書いてあることを額面通りに受け取るならば、嘗てのエルベルト公は、地下の湖を誰の目にも触れないように細工をしていたとも考えられる。保安の仕掛けが経年と共に壊れ、おれの父が訪ねていた頃に通れるようになっていたのかもしれない。騎士団がエルベルト城の見回りをやめてからもう何十年にもなる。もしも騎士団が見回っていたなら、物見遊山にやってきた父が城に入ることなど出来なかったことだろう」
カミューは肯いた。
「マイクロトフ、お前は父上の手紙を信じたのか?」
彼がその手紙を何度となく読んだことは、紙の折皺からも明らかだった。中身も覚え込んでしまったのか、彼はその手紙をカミューと一緒になって覗こうとはせず、むしろそれをランプの光の元で読むカミューの表情に見入っていた。
マイクロトフは曖昧に首を振った。
「信じたか、と云われれば全て信じているわけではない。だが、嘘だとも云いきれない」
「お前の父上は、こういう夢を見るような方だと思うか?」
カミューは手紙をかざして見せた。
「そうは思えないとしか、云いようがない」
「確かにこの話は、あの場では出来ないような話だったようだな」
カミューは椅子の背もたれによりかかった。ロックアックス城で、マイクロトフが口にしたランテルナ・マジカ、という言葉を聞きとがめた晩のことを思い出していた。ほぼ燃え尽きようとする暖炉の周りには、したたかに酒を飲んで酔いつぶれた若い騎士達が大勢眠っており、マイクロトフはあの場所でこの手紙を取り出したくなかった筈だ。
────それは、ここで話せるようなものではない。
ためらいながらも、はっきりとマイクロトフはそう云った。
「わたしがあの日、お前の言葉を聞かなければ、お前はエルベルト城に一人で行くつもりだったのか?」
そう尋ねると、マイクロトフはあっさりと肯いた。
「おれ自身にも夢物語に思えるものを、お前に信じてくれとは云えない」
「しかし、こんな話をお前だけの胸にしまっておくのは狡い事じゃないか」
カミューは笑った。
「ここまで出かけてきたということは、或いは父上の仰る『舟』がそこにあるかもしれないと思ってのことだろう?」
「……ああ」
マイクロトフは仕方なげに肯いた。
「そんな舟があるなら、わたしもこの目で見てみたい。この手紙だけでは、それが一体どんな形なのか、どんな力で動くものなのか、思い描くことも容易でないからな。だが、もしもその舟が今もエルベルト城の地下にあるとすれば……つまらないことを云うようだが、その異国の舟は今やマチルダ騎士団のものということになるんじゃないか?」
「そういうことになる」
マイクロトフは肯いた。カミューはその素直さに、笑って自分の言葉を打ち消した。
「とはいえそれはお前の母上の遺品だ。騎士団よりも、マイクロトフ、お前のものと考える方が先だろうな」
「それはどうか……」
マイクロトフは困ったような顔で、ランプの光の輪の中に浮かび上がった、手紙の文字を指でなぞった。
「母の遺品と云われても……顔も覚えていない人だ。まして、こんなことを聞かされれば尚更遠くなったように思える」
「だが、何かを見つければ、近しく思えるようになるかもしれない」
マイクロトフは杯の底に残っていたワインを飲み干して、少し顔を顰めた。どうやら甘すぎたようだ。底に蜜が凝っていたのだろう。
「出来れば夏に行きたかったが、夏に休暇を頂けるものかどうか分からないのでな」
「夏に?」
「湖を見つけることが出来れば、中に潜ってみたい。地底湖は冬でも水が温かいものだが、それでも新年に地下の湖に入るのは余り気が進まない。……実際、お前がいてくれてよかった、カミュー。エルベルト城でおれに何かあった場合、一人きりで行ったのでは、騎士団と父に消息を伝える術がないからな」
「滅多なことを云うものじゃない」
カミューは形ばかりたしなめたが、それが友人の本音であることは分かっていた。
「父の話はおれには半分も分からないが、取りあえず願いは叶えてやりたいと思う。だが、自分が莫迦げたことをしているのかもしれないとも────思う。お前がこの手紙を読んで、まともに受け止めてくれて感謝している」
気持がはりつめていたのか、マイクロトフはテーブルの上で強く握りしめていた拳をほどいた。てのひらのくぼみの中に、軽く爪の跡がついているのをカミューは眺めた。
「それはわたしも同じだ」
そっと云うと、マイクロトフはいぶかしげな表情になった。
「……いや」
カミューは首を振った。
彼もまた、マイクロトフが自分をこの旅に同行させる気になったことに感謝していた。もしもマイクロトフが他の者と連れだってエルベルト城へ行ったとして、後にそれを知ったなら、恐らく自分は妬むだろうと思う。彼とマイクロトフは、普段からそれほど行動を共に出来る訳ではないが、この旅のような特別な場合には関わっていたかった。
「明日、村で必要なものを揃えよう」
カミューは窓の外を見遣った。すっかり暗くなった窓の外に、粉雪が降っているのがぼんやりと見えた。
「この天気では恐らく、エルベルト城までの道を行くのに馬を借りることは出来ないだろう。長丁場になった時、夏ならともかく、この寒さの中で馬を外につないで待たせる訳にはいかないからな」
「歩けば一日かかると云ったが、雪道でも一日で城につくだろうか?」
「わたしとお前の足なら大丈夫だろう。道に迷わなければ、の話だが。手入れをする者もないのでは、麓の村までの道も残っているかどうかは分からない」
「後で、宿の主人に尋ねてみよう」
マイクロトフは、ほっとしたように立ちあがり、窓の傍に近寄って行った。大きな黒い獣のように伸びをする。懸案だった父の手紙をカミューに見せたことで、気持が楽になったのだろう。確かにあの手紙を人に見せるのは勇気が要った筈だ。
「だが、カミュー。お前のように責任ある立場の者をこんな旅に誘うのは軽率だったかも知れない」
窓辺によりかかって、暗い夜の中にふりしきる雪を眺めながら、マイクロトフはそう呟いた。
「おれはお前が銀のエンブレムをつけたことを時々忘れてしまう。エルベルト城に同行して欲しいと頼んだのも、ただお前と一緒に行きたいという私情なのだが、本当はこれほど気軽に誘える相手ではなくなっているのだろうな」
「待ってくれ」
カミューは笑った。
「わたしが赤騎士の銀のエンブレムを戴いたことで、お前に誘われなくなることも、誘わなくなるようなお前も、わたしにとって望ましいとは云えないよ」
「無論、お前はそう云うだろう」
マイクロトフはカミューの笑い声に答えるように、ちらりと微笑を見せた。
「だが、赤の副団長殿の身にもしものことがあっては、騎士団に申し訳がたたないばかりか、おれにも一生の後悔の種になる」
「事をそう大仰に構えるな」
カミューがいささか閉口して笑い流そうとすると、マイクロトフは首を振った。
「人が突然、思いも寄らない後悔を背負い込むことがあることを、おれの父の手紙が証していると思うが」
「それでは、青騎士殿」
カミューはてのひらの中でもてあそんでいた空の杯を置いた。片手を、今はつけていないエンブレムの位置に軽くあてる。
「この旅は、わたしの意思によって出かけてきたものだと誓おう。もしもお互いに何かがあっても、自分の被ったことだけを背負うことにすればいい」
マイクロトフは驚いたような顔でカミューを眺めたが、挑むような口調で云い出した。
「それは、何にかけて誓う?」
そんな言葉の遊びに食い下がるマイクロトフが、さほど深刻でないのを知って、カミューは安堵した。ここで追い返されでもしたら災難だ。
「それでは、誰もがいずれ還るべき、風と土に」
グラスランドの若者の使うお定まりの大袈裟な云い回しで応じた。するとマイクロトフもまた、襟元のエンブレムの位置に軽く握った拳を当てた。
「ならおれは、お前にとって異国の楽しみである聖典に誓うべきなのだろうな?」
いつかマイクロトフに、聖国教会の聖典を娯楽だと答えたことがあるのをカミューは思い出した。どうやマイクロトフはその時のことを云っているらしい。
二人は目を合わせて笑った。気苦労のないたわむれのその誓いを、不謹慎だと云って咎める者もなかった。
はからずもマイクロトフが自分自身の属する処を異国と云いあらわしたことで、カミューはふと思いに沈んだ。雪と黒い森、長い夜に閉じこめられるマチルダ騎士団領は、カミューにとってはまさしく異国だった。そこに暮らす人々の、暗い色の髪と瞳もまた、故郷を遠く離れたことを思わせた。
故郷を離れたことに寂寥感はない。マイクロトフにそう云った通り、彼は夢と、暮らしの変化を望んでここへやってきた。自由騎士団に、神聖国として名高いハルモニアではなく、このマチルダ騎士団領への推薦状を貰ったのは、よりグラスランドとかけ離れた暮らしの中に入ってみたかったからだ。
そんなカミューも一度、懐郷病にかかったことがある。もっともそれは瞬間的なもので、病というほど長くわずらったわけではない。
マチルダに来て間もなかった頃の事だ。ロックアックスに大雪の降った日、城下町の奥で道に迷ったのだった。
大粒の雪片が天地を灰色に塗り込め、街には突然人気がなくなった。誰に道を尋ねようにも家々の扉は堅く閉められ、あたりは雪に音を吸われて、不気味なほど静まりかえっていた。
左右の分からないほどの雪吹雪の中で、ゆっくりと日が沈んで行く。雲の上で弱々しく光を送っていた太陽の名残が消えると、広い石の街は、よそよそしい銀細工の作り物のようになった。家々の窓から見える灯りにさえ、なつかしさを覚えなかった。
見覚えのない橋を渡りながら凍り始めた川を見下ろしたカミューは、雪つぶての中で、グラスランドのむせるような夏草の匂いを突然思い出した。その草は冬には枯れ、なお遠く広々と地平線を望めるようになる。雪に四方を取り囲まれた息詰まるようなこの閉塞感を、彼は一度も味わったことがなかったのだ。
その時、暗い路地からマイクロトフが現れたのだった。
まだ彼とはさほど親しくなっていなかったが、マイクロトフとは騎士団にやってきた日に模擬戦で夕暮れまで剣をまじえた仲だった。真っ白な闇の中に姿を現した、厚い外套姿のマイクロトフにカミューはほっとした。マイクロトフはその日、城下町の父の知人の許を訪ねたところだったと云う。
────助かった。右も左も分からなくなっていたところなんだ。
────雪の中を歩くつもりではなかったようだな。
マイクロトフは、カミューの薄い外套や、雪に濡れた髪を見てそう云った。
────ああ、まだ馴れていないんだ。グラスランドでは雪が降らないのでね。
カミューは、前髪を後ろに払った。睫毛に雪が凍り付きそうになっているのに気づいて、目を擦る。
────この雪のおかげで、マチルダにとって、自分が歓迎されざる客だという気分になっていたところだ。
ようやく朗らかな気分になってそう云うと、先に立って歩いていたマイクロトフの歩みがふと止った。彼は振り返ってカミューの顔を見つめた。
まだ少年の面影を残した真っ黒な瞳が彼をじっと見ている。
────おれもだ。
────何だって?
聞き返すと、マイクロトフは考え込むようにゆっくりと云った。
────おれは大抵いつも、ここに自分はいるべきでないという気がしている。雪の日はそれが強まる。だからお前の気持も分かるように思う。
カミューは少し驚かされて、由緒ある地方貴族の息子だと云うマイクロトフの、鋭く、繊細な顔を見守った。
────……いや、……すまない。
マイクロトフは自分の言葉を悔いるように低い声になった。黒い髪と瞳、黒の外套を身につけたその姿が、降りしきる雪の中で突然頼りなげに見えた。
お前の気持も分かるように思う。
何年も前のことだが、少年だったマイクロトフの声の、心許なさと素っ気ない優しさを、いまだにカミューは思い出す。
彼以外の口から出たなら、信じられないような空想的な話にでも、耳を傾ける気になれるのは、あの日の記憶があるせいなのかもしれなかった。
(続く。)