「コン・グラツィア」と同じ、「鳩」というオリジナル設定を用いていますが、「コン・グラツィア」とは別の話です。そのほかの話とも続いていません。
禁欲の鋳型の中で、花は、いつでも咲く準備をしている。
目を醒ました瞬間は、自分がどこにいるのか分からなかった。
身じろぎすると熱く疼く痛みが、左側の背筋を中心に、蜘蛛の巣を張ったように広がるのを自覚した。マイクロトフは浅く息を吐き、痛みに慣れようとした。自身が背中に傷を負い、うつ伏せて眠っていたこと、ここがグリンヒル郊外に仮設した、広い天幕の寝床であることが、ゆっくりと思い出された。
そうだ。グリンヒル奪還作戦は成ったのだ。ビクトールの率いる部隊がミューズとグリンヒルの境で王国軍の反芻を引きつける一方、マイクロトフの騎馬大隊を含める残り全軍が、マチルダとグリンヒルの国境で、ユーバー将軍の部隊とカラヤ族を相手取って戦った。
有利とは云えない戦いだったが、同盟の軍師の作戦は成った。
王国軍に占領されたグリンヒルは一年ぶりに解放され、若き女性市長、テレーズ・ワイズメルの指揮下に戻ることになったのだった。
弓傷を負った背中の痛みは強かったが、マイクロトフは眩暈を伴った強烈な解放感を感じた。
この作戦の勝利によって、もう一歩ロックアックス城に近づいたことを実感する。同盟とハイランド王国のこの戦いがどんな形で集結するのか想像もつかないが(真の紋章の継承者同士の戦いが絡んだ時点で、この戦いは、国境を争う小競り合いとは状況を異にしたのだ)、マイクロトフにとっては、自分が捨て去ってきたあの石の城を取り戻さなければ、この戦いは意味を持ち得ない。
「マイクロトフ」
低くおだやかに呼ぶ声が耳に届き、マイクロトフは横たわる自分のすぐ傍に、思わぬ人が座っていることに気づいた。
彼は声の方へと振り向き、いつもよりも少し乱れた紅い前髪の下から覗き込む、琥珀の色の瞳を見つめ返した。傍らに灯された灯火に、既に日が暮れていることに気づく。
「目を覚ましたか」
「どうやら、そのようだ」
起き上がろうと一度試みたが、身体にうまく力が入らず、マイクロトフは再び敷布の上に伏せてしまった。
「暫くじっとしていろ」
ビクトールと行動を共にしていた筈のカミューは、起き上がろうとするマイクロトフをそう云って押しとどめた。
「ミューズとグリンヒルの国境からも、王国軍は退いた。マイクロトフ、どうやら天は我々に与することに決めたようだぞ」
天幕に寝かされた他の怪我人を気遣っているのか、カミューは低くささやくような、やわらかな声で云った。
「もう、ミューズ市に入れるのか?」
「ミューズ市の周辺では、皇王の連れてきたカラヤ族の残党がいまだに粘っているようだ。盟主殿が明朝兵を進める。だが、ミューズ市への妨げになるものはそれで最後だろう。事が無事に運べば、お前の見たミューズの怪物と、我々は初めて対峙することになる────それなのにお前は」
カミューは今日の作戦で、グリンヒルとミューズ市の境に兵を進め、ビクトールを補佐していた。早馬を駆けさせたのか、いつも整えられている髪は乱れ、兜やチェインメイルもつけていなかった。むろん今は、騎士の礼服も身に纏ってはいない。同盟の他の兵卒同様、草色の平服と肩当てや肘あてを身につけ、ただ、腰に愛剣ユーライアを帯びていた。横たわるマイクロトフの隣に、その簡素な格好で座っていたカミューは、言葉を切ってマイクロトフへ屈んだ。
「お前の正義がいよいよ証されるという今になって、何故こんな怪我を負って倒れた?」
ささやくような声が、動揺によるかすれを隠すためのものであること。おだやかに言葉を紡ぐ友人が、あかるく光をはなちそうな怒りの勢いを押し殺しているということに、マイクロトフはその時初めて気づいた。
「当然よけられた弓だったのだろう?」
その言葉に、傷の痛みがなければ肩をすくめてみせたいところだった。
「おれの背中に目はついていない」
「落馬した兵士を庇ったそうだな。お前を慕ってついてきた、下位の青騎士だったとか」
マイクロトフは低く笑った。自分が庇った相手が元マチルダ騎士だったということを、戦いが終るまで彼は知らなかった。途切れ途切れの記憶の中で、彼の傷に手当てを施す看護兵の後から、泣きながら見下ろしていた若い顔を思い起こした。
(「マイクロトフ大隊長殿、自分は、マチルダで青騎士のエンブレムを賜っていました」)
(「こんなことになって、────何と申し上げればいいのか……」)
(「マイクロトフ団長……」)
マイクロトフの方では、元青騎士だった彼の名を覚えてはいない。だが、その騎士の中ではまだ自分が青騎士団の長なのだと思うと奇妙な感じがした。
「カミュー。おれを諫めにマチルダ側まで馬を飛ばしてきたのか?」
ゆっくりと肘をつき、そろそろと上体を起こした。胸の奥から嫌な咳がこみあげてくる。瞬間的に、矢が背筋を突き抜け、肺に達したのかと疑った。だが、その咳は胸を圧迫する姿勢をとり続けていたためのようで、痛みはそこまで深いものではなかった。
痛みと、そしておそらく出血が寒気を沸き上がらせる。
彼の背中から胸にかけては厚く包帯が巻かれ、その下には濡れた感触がある。おそらく出血と痛みを止めるトゥルシを磨り潰して、軟膏と練り合わせたものが傷口に塗られているのだろう。背に刺さった矢尻に毒が塗られていなかったのは幸いだった。強い痛みはあるが、痺れはない。マイクロトフはほっと息を吐き出した。
「わたしは軍師殿からお前への伝言を携えてきたんだ。わたしにその役目を与えたのは、あの方々の温情と云うべきだろう」
カミューはなだらかな声音でそう云いながら、指先でするりとユーライアの鞘をなぞった。その静かな動きがむしろ彼の苛立ちを映しているようで、マイクロトフはかすかにひやりとした。
カミューがここに駆けつけたのは、マイクロトフが傷を負って倒れたという報せを聞いた故のことだろう。グリンヒルの森を抜ければ、ミューズ市側からマチルダ側に抜けるのにさほど時間はかからない。とはいえ、盟主が明朝ミューズ入りするという今日、マイクロトフと同じく、騎馬大隊を束ねる身であるカミューが、盟主や軍師の命無くして、自らの持ち場を離れる身勝手は許されなかった筈だ。伝言にかこつけて親友を見舞うように配慮されたことを指して、カミューは温情と表現したに違いなかった。
マイクロトフはそれには応えず、ただ肯いた。
「軍師殿は何と?」
「お前は盟主殿と共にミューズの魔物を見た証人だ。当然ミューズ入りにあたっては盟主殿に同行して然るべきだが、今回は特別に同行を必要ないものとする」
カミューは平坦な声で続けた。
「ノースウィンドゥ城から、既にホウアン殿とジーン殿が、お前の傷の手当のためにグリンヒルへ向かっているそうだ。最高の医師と紋章師を、今この時にグリンヒルに送り込む由を理解し、疾く傷を癒し、ロックアックス城攻略に於いては先陣を相務めよ────との御命令だ」
「願ってもない!」
傷のせいで血色の褪めた頬に、かっと赤い血が昇るのが自分でも分かった。
勢い込んだ彼を、カミューは軽く手で制した。
「そう興奮するな。傷に障る。つまりは、ホウアン殿とジーン殿がグリンヒルに入るまで無茶をするなということだ。お二人は多忙な身だ。一流の医療と紋章力とで治療を受けられる幸運が、自分の特権なのだとお前は真実理解しているだろうな?」
畳みかけるようなカミューの言葉に、マイクロトフは自分の膝に視線を落とした。
無論分かっている。同盟の傷ついた戦士の全てが、紋章師による、奇跡のような治療で回復出来る訳ではない。矢に裂かれた筋をつなぎ、欠けた骨を埋め、傷が出来る前とほぼ同じ状態に、短時間でひとの肉体を回復させることを可能とする魔力。
マチルダ騎士団領では尊ばれなかった紋章の技術だが、グリンヒルやミューズでは、戦いのみならず、医療の面で大きな躍進を遂げていることを、マチルダを出て、彼等は改めて知ることになった。
「有難いことだ────出来ることなら、同盟軍全てがその恩恵を受けられればと思う。おれが、その恩恵を受けるからと云って度を越すことなく、身を慎むべきなのも分かっている」
そう応えると、友人は小さく息を吐いた。
「分かっているのならいい」
カミューのこころの表面を、輝く粉のように覆っていた、怒りの気配がふと静まったことにマイクロトフは気づいて、思わず安堵した。普段、言葉に出して自分をなじることなど殆ど無いこの友人を、本気で怒らせた。自分が大隊を任された将としてふさわしい行動を取らなかったことは、マイクロトフも重々承知していた。
「おれはどれだけ眠っていた?」
「わたしがここへついてからはおよそ半時」
カミューはそう答え、立ち上がった。マイクロトフはその立場を慮ってか、天幕の奥に寝かされていた。入り口近くには更に幾つかの寝台が作りつけられ、怪我人が横たわっている。その間を縫い、カミューは天幕の暗い入り口まで歩いて行った。すると、天幕の外の闇にじっと佇んでいる小柄な男の姿が見えた。
(『鳩』が来ているのか────……)
発熱でかすかにぼやけるマイクロトフの視界に、声をひそめて話す二人の姿が映った。
カミューをテントの外で待っていたのは、暗い色の髪の、目立たない青年だった。カミューがマチルダ時代から、伝令役として重宝している人物だ。彼は殆ど本名を呼ばれることなく、公然と『緋胸鳩』などと呼ばれている。
『ヒムネバト』とは、通常伝書鳩として飼い慣らされることのない稀少な鳩の名である。胸にひとふさ、血を濃くなすったようなまがまがしい斑紋を持つ小柄な種の鳩だ。
赤騎士カミューの為に夜昼となく伝令を運び続けてきたこの青年を、騎士達は、胸に赤いしるしを持った小さな鳩に喩えたという訳だ。
戦士達は最初、戦うことよりも情報を持ち歩くことに長けた青年に対して、軽侮に似た感情を抱いたようだった。だが、『鳩』が戦いに於いて重要な役割を果たす場面が増えるにつれ、その存在は、徐々に騎士達の意識の中で意味合いを変えた。軽蔑に、幾らかの恐れや憎しみが取って代わったのだ。胸の赤い伝書鳩が運ぶものが、味方に吉報をもたらす敵の情報だけではないことを理解し始めたからだ。
『鳩』は黙々と情報と伝令を運んだ。それは真っ当な司令であることもあり、敵の情報であることもあり、内部の汚穢を掘り下げる、内部監査の文書であることもあった。
マイクロトフについて云うなら、その男に、彼が何らかの感情を持っていた訳ではない。
カミューは右手に剣を取り、左手に策を隠して戦う。『鳩』はそのための優秀な手駒であり、親友にとって、なくてはならない存在だと知っていた。
『鳩』が天幕から姿を消すと、カミューは一人で戻ってきた。
木の枝を組んで作った簡易な寝台に座るマイクロトフの傍らに立つ。
天幕の中のランプが、友人の紅い髪に、虹色の陰影を作り出していた。陽光に出会えば橙色に透け、灯火の中では薔薇色に輝くカミューの髪だ。彼の華やかな美しさは人目を引きすぎる。たとえ能力があったとしても、カミューには、目立たぬように伝令役に徹する『鳩』の役目はとても務まらないだろうとマイクロトフは思った。
「鳩に何と伝えた?」
尋ねると、カミューの唇の片端がかすかに上がった。
「青騎士の意気や盛ん、と」
その言葉と、寝台に縛り付けられた現状とを引き比べて、マイクロトフは半ば苦笑した。
「そうか」
「明朝のミューズに間に合わなくとも、ロックアックス城の旗を下ろす役を、他の者に任せたくはないだろう?」
マイクロトフは喉に刃を呑み込んだような思いで肯いた。
「それはおれの仕事だ」
力の入らない両の拳を握りしめる。
「誰にも渡せない」
「なら作戦まで自重することだな。上級将校の無謀は罪深いと云ってもいい」
マイクロトフはカミューに座るように顎をしゃくった。上から見下ろされて叩かれる一方では具合が悪くて敵わない。その動きに背筋が攣れるが、痛み止めが効き始めたのか、傷の痛みは先刻ほどではなかった。
「心配させたか?」
マイクロトフと少し離れて、寝台に腰を降ろしたカミューに向かって云うと、彼は無表情に見つめ返した。
「何だと?」
「今日はいつもより手厳しい」
すると、カミューはあきれたように目を細め、唇にかすかな笑みを掃いた。視線を逸らし、手櫛で髪を整え始めた。取り繕うようなその仕種は、滅多なことで動揺することのない友人の、冷静さがほころびたことの証のようでもあった。
「マイクロトフ。ロックアックス城を落とし、ルルノイエを押さえれば同盟が勝つ。ハイランドとの間に講和条約が結ばれるだろう。そうしたら」
彼は一旦そこで言葉を切った。マイクロトフは額の汗をぬぐって、自分と並んで座ったカミューを眺めた。カミューの唇にはまだほのかに笑みが生き残っている。だが、真実笑っているようには見えなかった。
「そうしたら?」
先を促すと、自分が沈黙したことに初めて気づいたようにカミューは目を上げた。
「すぐに、結婚しろ」
マイクロトフはぎくりと背中を揺らして、そのために走った痛みに顔を歪めた。
「戦場に出るとき、後に遺してゆけないような方がお前には必要だ。もしもお前に心当たりの婦人がいないなら、わたしが相手を探してやる。結婚して、なるべく早く子供を作れ」
カミューは、マイクロトフが汗を滲ませていることに気づいたようだった。六月のグリンヒルは風がなく、空気が雨の予感を孕ませひどく蒸した。外気の通らない天幕の中は、傷ついた男達の発熱した体臭や薬草の匂いが籠って、尚更暑く感じられる。カミューは傍らの手桶に汲んであった水に布を浸した。固く絞り、マイクロトフの額や首筋を静かに拭い始める。
「すまない」
よく腕の上がらないマイクロトフは、友人の心遣いに任せた。
濡れた布が肌の上を拭って行くのが快い。だが、傷はカミューに触れられる前よりも疼き始めたようだった。
「わたしが心配したか、とお前は聞くのか?」
泥でもついていたのか、頬骨の上を丁寧に拭いながら、カミューは忌々しげにささやいた。
「どんな思いで、自分の部下を置いて飛んで来たと思っているんだ。お前が大切な方を作って腰を落ちつけなければ、わたしはとても安心していられないぞ」
視線を合わせようとしなかったカミューが目を上げ、思わぬ近さで二人の目が出会った。
結婚のことを云い出されて、戸惑いと、もやがかったような怒り────それはあくまで、マイクロトフの事情ゆえの怒りだ────に支配されていたマイクロトフの中で、ことりと何かが崩れた。
自分のこころを覗かせるのを好まないカミュー。怒りでさえ、自分の内側に閉じこめて、滅多に外に表すことのないカミュー。常に、薔薇色の貴石に彫刻を施したような、頑なな微笑みで自分を守る友人の目の中に、かつて見出したことのないものが覗いていた。
マイクロトフは、傷のもたらす熱が、自分に甘い夢を見せているのかと思う。カミューの透き通った瞳はかすかに潤み、熱を宿して輝いていた。
カミューの瞳には、数条の不可思議な緑色の皹が入っている。かつて、彼と知り合ったばかりの自分が、何故そのあかるい茶の瞳を琥珀に似ていると思ったのか、マイクロトフはその理由を突然思い出した。
少年の頃、マチルダの有力貴族の家に招かれたことがある。そこで、彼は子供のてのひらほどもある、大きな琥珀をはめこんだ細工を披露されたのだった。
琥珀は旧い時代の樹脂が化石になって宝玉に変ったものだと云う。黄金の箱の蓋に、眠ることのない一つ目のようにはめこまれたその琥珀の中には、扇を広げたような植物が閉じこめられていた。化石化してもう生命を止めているのは分かっているが、だが、放射状に飴色の石の中に封じ込められた植物には、確かに生命の名残があった。かつて、みずみずしいみどり色だったものの姿が完全な形で残されている。琥珀をどの宝玉よりも尊ぶひとがいるが、少年時代のマイクロトフにも、その意味が分かったように思えた。
その石の中を覗き込むと、まるで悠久の時の彼方に連れ去られるような、既に触れようもない古代の植物に指先でそっと触れるような感覚があった。
友人の深い金色の目に、幾本かの細い緑色の皹が入り、彼の瞳の色を、金色とも、緑色ともつかない色に仕上げているのを見た時、マイクロトフは、ひとの顔の中に琥珀をはめこむことが出来るのなら、これがその形なのだろうと思ったのだ。
そして、カミューと初めて近く目を見合わせる機会を持った少年時代同様、美しく艶やかな瞳の中に、今までかいま見せたことのない新しい本心が覗いていた。
それは長い間マイクロトフの中にもまた隠していたものだ。自分の重く昏い色の目の中に、ともすれば読みとられそうなほど明瞭に表れているだろうと思っていた感情だ。
すなわち、友人同士で抱くには、濃密で甘い────時には苦い────想いだった。
カミューが、マイクロトフとあまりにも近づきすぎたことに気づいたように、かすかに身を退いた。暗い灯火から瞳が遠ざかり、彼の目の中に表れたと思ったものが光の輪の外に逃げて行くのに気づいて、マイクロトフは喪失感を味わった。
「カミュー、お前は……」
思わずそう口走って、しかしどう続けていいのか分からずに彼は云い淀んだ。
お前はおれを想っているのか?
それを軽々しく問えるものなら、自分自身の想いをとうに打明けていただろう。
────おれと同じく。
「……どうした?」
カミューは、再びなだらかさを取り戻した声で聞き返した。
「いや、……明朝のミューズ攻略に、お前は同行するのではないか?」
カミューは、天幕の外の月をあおぐように視線を上げた。彼の本心を映し出した鏡のような、その瞳がはっきりと逸れて、マイクロトフはそれを惜しみ、同時に解放されたような気分になった。
「ああ。夜明けには戻る」
「こんな夜に、時ならぬ遠乗りをさせたな」
「いや」
カミューはちらりと微笑した。
「月を見ながら戻るさ」
「月は出ているのか」
カミューは肯いた。
「昼のように明るい月が」
マイクロトフは眉をひそめた。月の明るい夜は必ずしも、人目を忍んで行動する者にとって、望ましいものとは限らない。
「供の者はいるのだろうな」
「お前とは違う。単騎で行動はしないよ」
カミューはくどかったと思ったのか、ゆっくりと打ち消すように首を振った。
「話はいい。横になっていろ、マイクロトフ」
そう云って立ち上がろうとする。マイクロトフは思わずその右手首に手をかけた。明朝に新たな作戦を控えたカミューを引き止めるような真似をするつもりではなかった。傷のために気弱さが表れたのかもしれない。自分のこころよりも正直な指を、重ねた手の上からにわかにどけることが出来ず、マイクロトフは今夜何度目かの苦笑を唇に刻んだ。
「もう行くのか」
いぶかしげなカミューに、仕方なく本音を口に出す。
「お前になら、諫められるのも悪くはない。もう少し話を聞いていたかった」
カミューはいささか驚いたように、マイクロトフの顔を見つめた。時折暴走することを覗いては、概ね規律や約束事を優先するマイクロトフの言葉としては、その甘えが珍しかったのだろう。
カミューはすべるように身体をずらした。触れ合った指を邪険に取り戻すことはせずに、それを静かにマイクロトフの肩に載せた。
「とにかく、横になれ」
マイクロトフは、彼に云われた通り、もう一度そろそろと寝台に伏せた。ほんの少しの間起き上がっていただけだが、もうぐったりと疲れていた。自分の中から、大分血が出ていったことを意識する。ジーンとホウアンの力を借りなければ、ロックアックス攻めで先陣を切ることはとても不可能だろう。
「戻るのはもう少し先だ。同行させた者も今頃は身体を休めている頃合いだからな。────それでは、少し話をしよう」
カミューはマイクロトフの横たわった寝台のすぐ傍に腰を降ろした。
「昔話だ。返事をしなくても構わない。眠れるようならそのまま眠れ」
そう云えばカミューは過去の話をしない。身体を押し包む微熱の中でマイクロトフは思った。彼は常に未来の話を好んだ。それ故に、マイクロトフはカミューの未来への展望は窺い知ることが出来ても、その明日への夢が、どういった過去によって導き出されたものなのか、それを知らなかった。
「まだわたしが生まれたばかりの頃の話だ。グラスランドには幾つもの部族がある。他国からすればまとまっているように見えても、部族同士の間では争いが絶えない。わたしが生まれた頃は、殊に血なまぐさい戦いが幾つもあったようだ。わたしの父は、そんな小さな部族の一つを継いだばかりの族長だった」
マイクロトフは黙って続きを待った。カミューの父の話を聞くのは正真正銘初めてだった。少年時代に、自由騎士団の紹介でマチルダにやってきたカミューに、両親は故郷で存命だ、と聞いたことがあるのみだ。
「父は若く、妻であるわたしの母も若く、二人は、族長の住まいとは云っても、ロックアックスやノースウィンドゥとは比べものにならない、小さな四階建ての城に、僅かな城住みの騎士と共に暮らしていた。騎士と云っても馬の数が揃わず、戦いがあっても大部分の者は歩兵として出陣するしかないのが実情だったようだ。豪農の娘だった母は、城の果樹園の傍らに小さなマグノリアの庭園を造り、そこで咲いた花を市場で売って、城での暮らしの助けにしていたらしい。豊かではなかったようだが、両親は二人の幼い子────兄とわたしだ────と共に、幸福に暮らしていた。
親しくしていた近隣の領主が殺され、その首謀者が父だと疑われたのは、わたしがようやく一人で歩けるようになったばかりの春だったそうだ」
カミューは天幕に敷かれた敷物の上で、ゆるゆると姿勢を変え、片膝を立てて、そこに頬杖をついた。短く瞬きをする。歩き始めたばかり、ということは、今話しているのは両親に聞かされた話であって、彼自身が記憶していることではないのだろう。伝聞調のカミューの話は、いつもに増して慎重な口調であり、声色は冷静だった。
「死んだ領主の息子達が逸り立って、父をさらったのは寒い雨の続く日曜で、父は教会に行った帰りだった。母は難しい流行病を引き込んで、息子二人と共に城に残っていたために難を逃れた。さらわれた父を散々打った後、男達は自分の城の地下牢の穴に父を閉じこめて、入り口を土で塗り込めてしまったのだ。自害出来るよう、短刀一つと水一瓶を与えて、まったく光の射さない暗闇の中に父を置き去りにしたんだ」
マイクロトフは軽く頬をそそけ立たせた。そういった復讐劇は、自分達の間でもよく聞くことだ。粗末な地下牢の中に、四肢を折って死ぬまで放置しておく、というのは、しばしば捕虜相手に行われる残虐な刑罰だった。
「長々とこの話をしても仕方がない。結論から云えば父は死ななかった。領主を殺害した犯人が誰なのかが息子達の知るところになり、それは父ではなかったのだ。泥で塗り込められた地下牢の蓋が開いたのは三日後だったが、折られた腕で瓶の水を少しずつ飲み、静かに息をして、父は生きながらえていた。父はひどく若く、身体も丈夫ではなかったが、決して自ら死を選ぶつもりはなかった。汚名がすすがれて生きて帰れることを信じていたからだろう」
カミューはおだやかに続けた。
「残していけない者があったことが父の力になった。父が攫われたのはマグノリアの花の季節だ。歌を歌いながら城の女達と共にマグノリアの枝を切る母と、母にまつわりつく二人の息子たちの姿が父の胸の中にあった。黴と死の匂いのする地下牢の中で、マグノリアの甘い香、城の南の斜面を埋めた白い花を思い浮かべると、闇と孤独に耐えられた────と父は云った。その話を聞いたせいか、春の雨の中で咲くマグノリアは、わたしにとっても命の象徴のように思える」
カミューは、傷を負って寝床に伏せたマイクロトフの姿を見下ろした。
「わたしがお前に望んでいるのはそういうことだ、マイクロトフ。戦いに出ても必ず生きて帰るための、強い心のよりどころを持つべきだ。城でお前を待つ方がいれば、自分の命をもっと惜しむようになるだろう?」
「よりどころは────」
マイクロトフはカミューの話の一つ一つを、傷の痛みと熱で霞のかかったような頭の中で噛みしめて聞いていた。カミューに存在もしない婦人との婚礼を薦められたことへの衝撃と不快感が静かにやわらぎ、彼の本心がようやく見えてきたように思える。思わず口走った言葉の続きを待つようにカミューは沈黙した。
「よりどころは、作るものではなく、出来るものなのではないか?」
「むろん、時と場合によるだろうな」
マイクロトフの、彼にしては弱々しい反論を、カミューは否定しなかった。
「だが、心のよりどころが騎士の誇りのみでは、その道の先にあるのは生還よりも名誉ある死ということになりかねない。それは望ましいこととは云えないよ、マイクロトフ」
マイクロトフは自分の身体が眠りを欲していることに気づいた。
まぶたが重くなる。
身体も敷布に沈み込んでしまいそうだ。しかし、傷の痛みはだんだんに薄らぎ始め、友人が傍にいることも手伝って、彼は奇妙なほど安らかな気分になった。ロックアックス城を攻め落とすまで一瞬もくつろげないと思っていたが、至上の目的を達する前でも、暫時の安らぎを手に入れられることが分かった。
マグノリアの花と共に微笑む婦人でなくとも、マイクロトフを安らかな眠りに誘う人は存在する。その人の唇から、マイクロトフ自身は望んでいない婚礼を口に出されたことを、今回は許してもいいと思った。
「おれの無謀さは確かに、罪に値するが、それはよりどころがないためというわけではない」
彼は、眠りの波と戦いながら、つぶやいた。
「残していけないと思うものはある」
「そうか?」
カミューは、彼が眠りそうになっていることに気づいたようだ。マイクロトフの身体の上に薄い掛け布を引き上げる。優しい指が、マイクロトフの硬い髪を素早く一撫でするのを感じる。その感触は無性に甘く、マイクロトフは自分の身体が夢と暗黒に引き込まれて行こうとしているのを歯がゆく思った。
「……おれがいなくなった後、お前はマグノリアの似合う婦人と家庭を持つのだろう?」
ほぼ眠っているのも同然の状態で、マイクロトフはささやいた。
「それがお前の幸福だとしても、おれは」
それを望んでいない。
こころの最後の一かけらは口に出されることなく、マイクロトフの喉の奥でわだかまったまま消えた。苦しい戦いの小休止、そして傷と失血のもたらす眠りはそれだけ圧倒的だった。
中途で途切れた言葉を聞いたカミューが、どんな表情になったのか、厚い闇のような眠りの中に落ち込んでいったマイクロトフは知らなかった。
血のような夕暮れがノースウィンドゥの上空に横たわっている。グリンヒル奪還からミューズ入りまで重くたれ込める曇天が続き、霧雨は兵士達の士気を鈍らせ、昼夜の厳しい寒暖差によって体力を奪っていた。しかし、ロックアックス攻めを控えて、空は己の所業を悔いるように、一面に朱墨を流したような赤い晴れ模様を見せていた。
夕映えにとけ込んでいるようだ。
探していた友人の後姿を、城の最上階の庭園に見出したマイクロトフは、彼の髪に夕陽が跳ね返るのを見て目を細めた。この城に来てからというもの、カミューの姿は彼にとって尚更にまぶしく映るようになった。
正確には、この城に来てからではないのかもしれない。彼は、カミューの捨てたエンブレムが、ロックアックス城の床に敷かれた絨毯の上で弾むのを、自分が茫然と見守ったことを思い出す。
あの時、カミューと視線が出会った。裏切り者を見る目を予期していた自分に、カミューは微笑んでみせた。優美さの中に、一抹の陽気さをひそませた、いつもの彼の瞳だった。カミューは自分を背反者と見なさなかったのだ。その途端に噴き上げてきた熱い感情を思い出す。領主ゴルドーへの陰湿で烈しい怒りと共に、その喜びは複雑に混じりあい、マイクロトフを異常に昂揚させた。
あの秋からもうこれほどの時間が経ってしまった。夏ももう間近だった。
彼等は明朝、ロックアックス城を攻める。あれほど美しいと思っていた三色の旗を引き下ろし、まだ馴染みきれもしない同盟の旗を掲げる。
マイクロトフは、マチルダの旗が自分に与えてくれた胸の昂揚を、今もまざまざと思い出せる。そしてマチルダ騎士団の旗の許に、ミューズからの流民を見殺しにした、夏の名残を残した秋の午後の苦しみをも同時に思い起こす。苦痛は誇りが高かったのと同じだけ強く、彼の内側を灼いた。今日、彼はマチルダ騎士団の旗を焼くはずだが、先にマイクロトフに火をかけたのはあの旗の方なのだ。
彼は息を吐き、逸り立つ気持ちを落ちつけようとした。自分の抱く、かつての理想への復讐心が、ともすれば行き過ぎになることに恐れがあった。
「カミュー」
呼ぶのと同時に、彼は、友人が若緑の葉をつけた、一本の樹の幹に手を触れているのに気づいた。植樹されて間もない、まだ儚いようなその樹の前で、カミューはどうやら祈るような格好で頭を垂れていた。
「どうかしたのか?」
やや堅苦しく尋ねると、カミューは婦人に触れるようにそっと、樹を指で辿った。
「なつかしい樹を見かけたのでね」
「その樹が?」
「マグノリアだよ。マグノリアとは云っても品種が多い。正確な名は分からないが、この葉、この樹皮……覚えがある」
姿は典雅に見えても、カミューの手は剣を握る男の手であり、指は灰色の樹皮に包まれた若木を回り込んで包めそうに長い。マイクロトフは、思い出深い樹の前に立つ友人の顔を見た途端に、明日の作戦を前に煮えていたこころが、すっと落ち着いたように思った。胸の引き出しの中で、為すべきことがおさまるところにおさまった感覚だった。
自分にとっていつの間にカミューはこれほど、なくてはならない存在になったのだろう。
「お前の母上の樹だな」
そう云うと、カミューは少し驚いたように目を瞬かせた。
「覚えていたのか」
「何故忘れていると?」
心外だという気持ちを声に含ませる。
「あの話をした時、お前はもう眠りかけているように見えたからな。傷を負って熱もあった。なのに、わたしはお前が前線で傷ついたことに腹を立てて、いたわるより責めてしまった」
マイクロトフは首を振った。
「責められて当然だった。それに、あの時伝えたかどうか記憶が定かではないが────不謹慎なことだが、おれを気遣ってお前がマチルダ側に馬を飛ばしてくれたことが嬉しかった」
マイクロトフは自分の言葉に半ばは恥じ、半ばは居直っていた。それを叱責されようとも彼の率直な気持だった。自分がこの数ヶ月で変ったことを意識する。マチルダ騎士団に居た頃のマイクロトフはいわば剛直であるだけが取り柄のような人柄だった。融通がきかず、心身の双方を決まり事に縛られていた。規律を何よりも重んじ、私情で動くことを嫌っていた。
「お前の言葉とは思えないな」
思った通り、カミューからはマイクロトフの普段の生真面目さを揶揄するような言葉が返ってきた。
「いちいち混ぜ返すな」
「今日は?」
カミューはピアノの鍵盤を辿るようにマグノリアの若木の枝に触れ、手を離した。
「わたしを探していたのか? 明日の作戦に変更でも?」
「いや、おれはお前と『前夜』を共有出来ないかと思ってやってきたまでだ。お前がここにいることは鳩に聞いた。あの勤勉な鳩は今にも飛び立ちそうな気配だったぞ。お前はこんな日も、情報収集に余念がないようだな────いや、こんな日だからこそか?」
「ロックアックスは我々には馴染んだ場所だが、馴れが足許を危うくすることもある。何本でも命綱を用意して足場を固めるのはわたしの務めだ」
「ああ、分かっている」
カミューはロックアックス城の内通者と、『鳩』を介して連絡を取っている。またそのために彼は、信頼出来る部下を数人、マチルダ騎士団に残して来たのだ。カミューの手蔓は赤騎士のみならず、白騎士の中にも存在する。彼等は、巨大な樹を根元から食い荒らす白蟻のように、深く静かに、白の玉座の下の土台を蝕んでいる筈だった。そうして根回ししてきたカミューの意志は全て明日実を結ぶだろう。マチルダを象徴してきた老木は火をかけられ、地に倒れるのだ。
同盟の若い軍師は、マイクロトフの離反が、赤騎士合流のきっかけになったことに、殊のほか満足そうだった。
(「貴君が同盟に身を投じたことは、三倍にもなって報いられるべきだな」)
整った顔に厳しい色を浮かべることの多い軍師は、そんな風に云って、珍しく気安い仕種でマイクロトフの肩を叩いた。カミューの知略が余程彼を喜ばせたと見える。
「共に『前夜』を過ごそうという誘いは光栄だが、酒場で他の者をまじえて乾杯でもするか? それとも部屋に二人きりで?」
カミューがマイクロトフを困らせようとしているのが分かった。だが、マイクロトフは彼のその言葉遊びには応じなかった。
「静かな方がいい。おれの部屋へ行こう」
生真面目に応じると、カミューは肯いた。
「分かった。────なら、行こうか」
二人は連れだって歩き始めた。カミューが名残惜しげにマグノリアに最後の視線を投げたのをマイクロトフは見逃さなかった。それがカミューの母の思い出であることに、マイクロトフはひそかに感謝する。それが、カミューを知る婦人の中の、誰か一人のものだとすれば、マグノリアを見つめるカミューをこんなにこころおだやかには見つめられないだろう。
庭園を抜けながらカミューは薄く笑った。
「それにしても、わたしの鳩は口が軽い。尋ねられて易々と居場所を明かすとは」
「おれを相手ならいいだろう」
「それは、本気で云っているのか?」
「本気で云っている。お前の居場所を明かして、最も安全な相手がおれだということを、お前の鳩であるからこそ知っているべきだ」
「……なるほど」
カミューは珍しく、不意をつかれたようにマイクロトフへ視線を投げた。
「逆の立場でもわたしは同じことを思うだろうな」
「そうだろう」
マイクロトフは、とりあえずその答に満足した。階段を降りようと壁に手をかけた時、紋章で既に癒された、グリンヒル作戦の折の矢傷がかすかに疼いた。
そういえば、カミューは偉丈夫とは云えない姿かたちをしてはいるが、傷を負わない男だった。それは決して、戦場における彼の戦い方を象徴したものではなかった。平位の騎士だった頃からカミューは最前線でも戦った。敵の槍と弓の中にまっしぐらに駆け込んで行く一番駆けの役割を担ったことも数々ある。だが、彼は何故か殆ど傷ついたことがない。傷を勲章のように思う男達のなかで、カミューがそれを気にかける様子はなかった。
いつかカミューはマイクロトフにひそやかに漏らしたことがある。
(「────わたしはマチルダ騎士団の一ふりの剣だ。刃こぼれのある剣とない剣では、どちらがよりよく敵を斬ると思う? 何故、ものものしく身体に傷を負う必要がある?」)
その言葉の通り、カミューは研ぎ上げて油を塗った刃のように淡く輝いて、騎士団の中で己の力を最大限に発揮し続けてきたのだった。
傷を負わず、なめらかな心身のままでここまでやってきた。
彼らは、歩哨の間を通り抜けてマイクロトフに与えられた部屋に向かった。東向きの大窓のある広い部屋だった。カミューは同じ階の近く、遠方に風の洞窟を見晴らす部屋を与えられていた。朝日を浴びることの好きなマイクロトフは、自分の部屋の解放感が目新しかった。彼はロックアックスでは半地下の部屋に暮らしていたのだ。朝の光は射さなかった。それ故に彼は、部屋を抜け出して早朝の光を全身に浴びることを特に好んだのだ。
朝日のいっぱいに入る部屋の印象は、とりもなおさず同盟の持つ自由さと重なるところがあった。
部屋の戸を押し開けながら、マイクロトフは口を開いた。
「グリンヒルでお前に諫められたことはいちいち尤もなことばかりだったが、あれはいただけなかった」
「あれ、とは?」
部屋に足を踏み入れようとしたカミューが顔を見上げる。石の廊下は既に暗い。扉の向こうのマイクロトフの部屋も暗かった。だが、あのグリンヒルでの晩と同じように、カミューの目が静かに光っているのを見て取ることが出来た。
「お前の折角の忠告だが、結婚するつもりは今はない。想っている相手がいる」
「……それは初耳だな」
カミューの肩が、何かの感情をうつしたようにかすかに揺れた。だが、その感情が何であったにしろマイクロトフはその正体を読みとることは出来なかった。
マイクロトフは、自分自身のその衝動をも不可解だと思った。自分は今まで隠してきたことを打明けようとしている。それが今でなければならなかった理由は何なのだろう。今まで機会は幾らでもあった筈だ。二人きりになる機会もあった。たとえば、殆ど人気のなかったあの屋上の庭園の夕暮れの光の中でもよかった筈だ。
そうすれば、カミューから返ってくる答がどういったものであれ、話が望まぬ方向へ流れたなら、礼儀正しく立ち去ることも出来たはずだ。
扉を半ば開けたまま、角を曲がればすぐに歩哨の兵士が灯りの傍に立っている。今夜、こんな場所で云い出さなくともよかったのだ。
「あの時も云ったが、残していけないものがある」
マイクロトフは、二人の身体を飲み込み、閉じ去ろうとする扉を自分の肩で支えた。
「よりどころは、城でおれを待つ婦人である必要はない」
胸の中で言葉を手探りして、一息に云った。
「おれがもう一度死を目前にしたときは、この城の庭園で、花をつけないマグノリアの若木を前に、故郷の面影を見るお前を思い出すだろう」
マイクロトフが扉を押さえているせいで、蝶番は跳ね返ることを許されず、カミューはまだ完全にはマイクロトフの部屋に入っていなかった。彼は丁度、部屋と廊下の境目に立つような格好になっている。
「ロックアックス城でも、ルルノイエでも討ち死にするつもりはない」
マイクロトフは一語一語区切って、明瞭に口にした。
「おれは、お前と、お前のマグノリアの許に還る」
その瞬間、カミューのしっかりとした指に腕を掴まれて、マイクロトフは自身の部屋の中に引きずり込まれた。それは常のカミューらしくない荒々しい所作で、マイクロトフは突発的な春の嵐のようなその力を、自分の腕の上に陶然と味わった。
「それを口にするからには、何が起こってもいいと思っているのだろうな?」
威嚇的な口調、それでいてなめらかな喉声。友人から、花びらのいりまじった吹き降りのようにそそいでくる感情────それらは決して穏やかなものではなかったが、マイクロトフは快いとしか感じなかった。
扉はカミューが閉じ、その荒々しさに反して冷静な指が、そこにかんぬきをかけた。灯りを点さない部屋の中はもう真っ暗だった。西の空を紅くにじませていた夕映えもこの東向きの部屋へは届かず、ただ、窓の外に漠然と闇を広げてみせるのみだった。
「何が起こる?」
絡んだ声でささやき返したマイクロトフは、自分を引き寄せて抱きしめる腕の長さを意識する。おそらく数え切れないほどの婦人を抱いた筈の腕だ。自分よりも高く広いマイクロトフの背中を相手に、勝手が違うようにさまよい、かき寄せて、胸と胸の間に空いた隙間を殺そうと抱擁する。
マイクロトフの顎にするりと柔らかいものが触れ、それはやがて唇に重なった。深く重なるために、うなじをぐいと抱え寄せられる。カミューに誘い込まれるままに身をかがめ、唇の内側の肉と溶け合った瞬間に、マイクロトフの腕の中で、小さな星のような力が弾けた。
彼は、自分を戒めた腕のなだらかな輪の下から、自身の鋼鉄のような手を伸ばして、カミューのうなじの柔らかな髪を掴んだ。うなじのあたたかさと同時に髪の冷たさがマイクロトフのてのひらに染みこんでくる。その髪の感触はひどく繊細で優しく、自分と熱い身体を寄せ合っている男のものと一致しなかった。その髪に触れていると、必要以上に優しく振舞いたいような、乱暴になりそうな、相矛盾した感覚がマイクロトフの四肢に駆けめぐった。
彼は、髪を掴む指に僅かに力を込め、浅い息を吐くカミューを自分から引き離した。絡んでいた肉が離れた瞬間、透明な糸が両者をつないでいるのを薄闇に透かし見て、マイクロトフは背中をぞくりとふるわせた。
グリンヒルで負った傷跡────それはあくまで跡であって、もはや傷ではない────が再び疼き、しかしそれは抑止力になるどころか、彼をますます駆り立てるばかりだった。
「こんな衝迫を隠し持っているのに、結婚しろと云ったのか?」
自分の息も荒れていることを自覚する。
うなじの上で髪を掴んだマイクロトフの指はそのままに、カミューの腕が彼の身体に絡みついてくる。再び、乱れた息と息がつながった。
「手を離せ」
くちづけの合間に、カミューがささやいた。云われるままに、髪に絡めていた指を解く。
手を離した途端、片足の足首をすくわれて、マイクロトフは身体の均衡を崩した。思わず膝を折りかけたところに、両肩を掴んで床に押さえ付けられた。
石の床の上に、熱く霞がかった目を見ひらいたまま、カミューに組み敷かれたマイクロトフは、自分の鼓動を鼓膜が跳ね返す音を聞いた。心の臓が四肢に烈しく血を送り出している。マイクロトフの本能と経験が征服を求めて、身体の関節を今にも跳ね上げそうだった。自分を覗き込む者を身体の下に敷き込め、と命ずる力は余りにも強く、圧倒的で、彼は自分自身の欲求に向き合うだけで息を上げそうになった。
だが、マイクロトフは動かなかった。
自分に今まで無理を強いたことのない友人が、今何を求めているのか知りたかった。カミューを抱きしめたいと望むのと同じほど、彼の望みの形を感覚で充分に味わいたかった。
カミューは、彼の上にゆっくりと乗り上げ、マイクロトフの丈夫な顎から首筋にかけての線を、そしてまた肩にかけて、指先でやわらかくなぞった。カミューもまた力を抑制しているのがマイクロトフに伝わってきた。
友人として触れ合ったことなら幾らでもある。ごつごつと遠慮のないその触れ合いは、それ自体何の意味も持ち得ないものだった。だが、マイクロトフの身体の線をたどるカミューの、その抑制こそが、愛撫の色合いを強めていた。
彼の目は大分闇に慣れ、自分を見下ろすカミューのほの白い顔と、すっきりとした線を描いた頬の周りにまつわる髪を、時折またたきながら自分を見下ろす瞳をはっきりと見分けた。
だが、この青い闇の中では、彼の琥珀色の瞳も、贅沢な光沢を持つ髪の色も見分けることは出来ない。マイクロトフはそれを惜しんだ。彼を照らす光のもたらす驚くべき効果を、今まで何度も見守ってきたからだ。友人以上の距離を持てない以上、その美しさはマイクロトフに苦しみさえ与えてきた。
「正直でなかったのはわたしだけか?」
カミューはささやいた。
マイクロトフの肩を優しくなぞったのと同じてのひらを、カミューは互いの身体の間に這い込ませた。こんなぎこちない接触だけで驚くほど力を持ったマイクロトフの熱が、そこでこごっていた。器用な長い指を備えたてのひらがそれをなぞって握りしめ、マイクロトフは思わず眉をひそめた。
「お前はどうだ? マイクロトフ」
形を顕示するように輪郭をなぞられて、彼は息をつめる。
「急に正直になったのを、わたしのせいだと云うのか?」
「……いや」
マイクロトフはようやく否定した。
「確かにきっかけはお前だが……おれはそれまで沈黙を守ろうと思っていた。沈黙が嘘よりも、時には卑怯になり得ることを、心得ているつもりだ」
カミューは覆い被さるように胸と胸を合わせ、マイクロトフの耳元に唇を近づけた。
「それで、どうする? お前はそんな風に天井を眺めたままわたしの好きにさせておくのか?」
挑むようなささやきが耳元を擽った。マイクロトフは大きく息を吐き出した。身体の力を抜いて相手に任せる、というだけのことがこれだけ難しいとは思わなかった。傷を負って医師の手に身を任せたことを思い起こさせる。
「天井など眺めてはいなかったさ」
彼は手をついて起きあがり、その動きに添って身を起こしたカミューと向かい合った。床の冷たさが、火照った体に快い。静かに唇を近づける。力に任せて髪を掴むのではなく、彼の素直な髪の流れを指で梳きながら、触れあったやわらかな感触を吸った。濡れた唇と舌は彼の身体の熱さになじみ、とろけそうな感触を伝えた。
「望みを云ってもいいか?」
マイクロトフが問うと、目を閉じていたカミューの睫毛が上がった。こうして間近に眺めると、彼の目の色をこの暗がりの中でも見分けられるような気がした。
「内容による」
その答も尤もだと思ったマイクロトフは続けた。
「小さくてもいい。灯りを点したい」
カミューの唇が笑みの形を作るのを、彼は信じられないほど間近に見た。
「いいだろう」
「そして、お前がおれをどう思っているのか、聞かせて欲しい。これは今日でなくてもいい」
答を聞く前に、一言付け加える。
「むしろ今日でない方がいい。お前の理屈で云えば、出陣する前にはこころ残りがあった方がいいということになる」
「……考えておこう」
カミューは鷹揚に答えた。
「そして」
「まだあるのか?」
あきれたように声に微笑を含ませるカミューの肩に、マイクロトフはそっと額を押し当てた。広くのびやかな肩の骨の感触を額に感じて、それが間違いなく友人のものだということを実感した。
「触れさせてくれ。沈黙していた非は認めるが、おれは今まで随分耐えた」
するとカミューの指が上がり、先刻よりも大分おだやかに、マイクロトフの髪に触れた。
「この件に関してわたしたちは同罪だ。非など認めなくてもいい」
マイクロトフはそれについてどう答えようと思ったのか後に思い出せなかった。その言葉の後の感覚はカミューの巧みな口づけに押し流され、取り去った服を床に敷いて、素肌で触れ合うことに夢中になったからだ。
中途でカミューが笑ったのを覚えている。マイクロトフの背中の筋にたまった汗を指で拭い取った彼は、上着を敷きこんだ石の床の上で、ゆるく身をよじるようにした。低く喉を鳴らすようなその笑い声は、鋼で作られた頑なな壁の隙間に、柔軟な羽毛が入り込むように、欲望に凝り固まったマイクロトフの耳に滑り込んできた。
「……何だ?」
軽く膝を開いて、マイクロトフの身体の下にあおのいていたカミューは、自らの手の甲で、薄く整った鼻梁の横に流れ落ちた汗を拭い取った。
「お前もわたしも必死だ。それが可笑しかった」
カミューは一度、大きな呼気に胸を波打たせた後、そう云った。
先刻、マイクロトフが身体の力を抜いて主導権を明け渡すことに感じたような抵抗は、カミューにはないのだろうか? 彼は今までも多くの場面でマイクロトフに譲ってきた。しかも、それはさもカミュー自身の望みであるようなさりげない顔で、マイクロトフの望みを叶えてきたのだ。
マイクロトフはカミューに絡めていた指を離した。そこは幾らか体液に濡れ、カミューの高まりを示していた。
カミューが、衝動や抵抗があるにも拘らず自分に譲っているのだとすれば、せめて快楽で返したかった。
マイクロトフは身体をずらし、薄く血の筋を透かしたカミューの足の付け根に口づけした。
「……っ」
驚いたように彼が息を呑み込む音が聞こえてくる。
マイクロトフのそれよりもやや柔軟な体毛の間から、高まって形を変えたカミューをそっと起こし、横から唇で銜えた。軽く曲げて立てられていたカミューの片膝が、彼等の下敷きになった服を蹴るように大きく伸び、ついで、引きつれるようにもう一度曲がった。
指を添え、筋に添って舌を這わせる。カミューはもう何も云わなかった。笑いもしなかった。
押さえられないような吐息が、彼の唇を出入りして、それが浅いこと、そしてその間隔の短さが、カミューの味わっているものを物語っていた。
明朝、ロックアックスへ攻め入ることを双方が思い出せたことは幸いだった。
カミューに無理を強いることなく、その数刻を触れるだけで、自制によって締めくくることが出来た。
息を調えた後は簡単な挨拶だけで離れ、自らの為すべきことへ戻れる。
それは、愛慕よりも先に、友人である形が確立していたことから受ける恩寵だった。
カミューはおやすみ、と云って彼の部屋を去ったが、マイクロトフはその日、結局は眠らなかった。
自分が与えられた部屋の窓が、刺すようにまぶしい朝日を迎える様子に目を奪われていた。夜明けは、いつにも増してマイクロトフを強く惹きつけた。
その雨期の合間の太陽が、自分を目がけて光の矢を射た瞬間を忘れないだろうと思う。それは彼にとっては平凡な一日の始まりではなかった。彼の肌は昨日まで知らなかったあたたかくなめらかな皮膚の感触をはっきりと覚えている。同時に、想像の中で作り上げたマグノリアの香気を感じ、自分の肉体が自分のためだけのものでなくなる感覚を味わっていた。
同じようにカミューが思っているのか、それは彼には分からない。マイクロトフの言葉通り、カミューは想いを口にはしなかったからだ。
だが、今日は自分の想いだけ明らかならそれでいい。
マイクロトフは優しさのない、完全に清潔な夜明けの中で立ち上がった。光と幾ばくかの冷水で火照りは冷めるだろう。彼を駆り立てる大義の蹄の音に耳を澄ませる。なじみ深いその幻の音が、カミューに与えられた新しい感覚と同居し得ることを確かめた。そして、剣を携えて故郷に足を踏み入れる日を、生きて過ごす勇気をつちかうため、深い息を吐いた。