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楽園・1(2004年7月)

04 29 *2009 | Category 二次::幻水2青赤

カミューの、怒りに似て、怒りではないもの。

続き





「カミュー様は、湖を見てくると仰っておられました」
 元は青騎士だった青年にそう云われて、マイクロトフは旧友の姿を求めて、地下の船着き場に降りていった。岩盤を掘り下げて湖を見晴らす崖の中程に作られた船着き場には、船頭達の常駐する小屋が幾つもある。
 いつも賑やかなそこは、今夜は静まりかえっていた。ティントから帰ってきた将軍が倒れたのだ。
 どんな時も静かに笑って彼等の先頭に立っていた少年が暗殺者に襲われたこと、そして、その後に倒れたことは、一部の者しか知らない。だが、すぐにも決行される筈だったグリンヒル解放作戦が延期され、兵達に短い休息が与えられた。
 ただし将校であるカミューやマイクロトフにはそれほど余裕はない。意気盛んな軍師に招集され、元マチルダ騎士団の長であった彼等は、夜半まで軍議に加わっていた。グリンヒル攻略にあたっては、マチルダ勢と相対することもあるだろう。個人としてではなく、騎士団の半数を率いて同盟に下った意気を見せよかし、と求められているのだ。ゴルドーの意思に背いて飛び出したものの、マチルダ騎士団領そのものへの激しい執着が全て潰えたわけではない。マイクロトフの中に、マチルダ騎士団へ弓引く事への吐き気のするような嫌悪感はある。そして、それを乗り越えるよう要求されていることもわきまえていた。
 グリンヒルに出兵する前に、マイクロトフには確かめておかなければならないことがあった。
 そのためにカミューを探していた。
 北風、という意味の地名を与えられてはいるが、広々とした湖に面した城の夏は、兵士達をすっかり蒸し上げてしまうように暑かった。殊に、万年雪を頂く山に囲まれるロックアックスからやってきた、マチルダ出身の騎士達には厳しい気候だ。気力と節度を奪い、兵士達の傷口を膿ませ、貴重な眠りを殺す暑さだった。マイクロトフ自身は気候の変化に強いが、同行した下位の騎士達が大部屋で暑さに倦み疲れていることを知っていた。だが、夏の辛さに耐えているのはマチルダ騎士だけではない。全ての兵が耐え抜いて王国軍からグリンヒルを奪還し、そして、更にグリンヒルを拠点にしてロックアックス城を攻め落とす。
 そのことを考えると、マイクロトフの皮膚の上で体毛が逆立つような感覚がある。国の行く末を救った英雄になるか、逆賊になるのか────それは、まだこの日の自分たちには分からない。だが、この同盟には信じるべき新風が吹いている。そこに賭けた自分の気持を信じるよりない。
 もしこの戦いに勝っても、自分が将来マチルダ騎士団で、騎士道に背いた者として処刑されることもあるかもしれない。それもマイクロトフは覚悟している。
 だが、それらの運命に友を巻き込んだのではないか、という危惧を完全には捨てきれなかった。
 夜の湖を見渡す船着き場に佇んでいる彼の後ろ姿を、マイクロトフは見出した。
 船頭の小屋に小さな灯は灯されているが、食事のために魚を釣る者の姿も、水辺で酒に打ち興じる者の姿も見えない。いつも誰かしらに囲まれていることの多いカミューが、暗闇にとけ込むようにして一人きりで立っている姿をマイクロトフは見つめた。
 少し痩せたのではないだろうか。ふと彼はいぶかしんだ。元々カミューは、背は高いがそれほど柄の大きな男ではない。柔軟な筋肉をつけた身体はどちらかと云えば細身に見える方だった。だが、明らかに痩せた、という印象を受けるのは初めてだった。どこか病でやつれたような印象を受けた。だが、カミューが体調を崩しているというような話は聞かなかった。
(────だが、おれがカミューの何を知っているというのだ?)
 マイクロトフは少し離れた場所にとどまったまま、内心自嘲した。
 同盟に加わって以来、この数ヶ月の間、カミューと二人になる機会はまるでなかった。自分たちがマチルダに居た頃の親しさを思えば、それは自然ではなかった。顔を合わせることはあっても、それは必ず誰かをまじえてのことであり、個人的な話をする機会に恵まれなかった。
 おそらく偶然ではないだろう。それが、自分に対してのカミューの不満が蓄積した結果なのではないか、とマイクロトフは苦い感慨を抱いている。
 マチルダを飛び出した前後の身勝手な振る舞い、騎士団を束ねる者として後先を考えない自分の無謀さも、カミューが支えてくれたお陰で、同盟に加わるという形で面目を保ち、落ち着き先を得た。だが、身を委ねる先が出来たとしても、カミューの気持はどうだろうか。彼と自分の間に横たわった感情はどうなっているのだろうか? 友愛とは形のないものだ。立場が今まで通りでも、友として遇するに値しない、と遂にカミューに思われたとしても不思議ではなかった。
 このままカミューを失うことになるのか。そう思うと、そくそくと不快な寒さがこみ上げてきた。それは故郷を捨てて来た恐怖感や、後ろめたさとそのまま繋がっていた。
 自分は何か掛替えのない尊いものを、あの雪の降る街に置いてきてしまったのではないだろうか。
 しかし、そんな埒もないことを云い出す隙を、カミューは与えなかった。
 同盟に来て以降のカミューは、それまで以上に完璧であり、多忙であり、手順や格式の出来上っていた騎士団の中以上に、彼が必要とされていることを感じる。マイクロトフ自身も例外ではない。騎兵戦の技術に於いて、マチルダ騎士団出身の彼等以上に長けたものはこの同盟にいなかった。都市同盟にマチルダ騎士を加え、王国軍から投降した兵力を合わせておよそ二万。その騎馬大隊を指揮出来るのは、おそらく彼等しかいないだろう。それだけ都市同盟は、若い、寄せ集めの集団なのだった。
 騎士団にいる頃のカミューは、多忙の中を縫って仲間達としばしば酒を酌み交わし、女性と出かける姿も見られた。規則づめの忙しい時間の中でも日々を謳歌しているかに見えた。だが、同盟にやってきてから、彼は酒場にさえ姿を見せない。絶えず軍議に加わり、騎兵達の訓練に明け暮れていた。騎士団にいた頃、絶えずマイクロトフに働きすぎだ、と諫めたカミューらしくない姿だった。
 それが自分への忌避のためだ、と思うのは自惚れすぎというものだろう。実際、マイクロトフが彼に遠ざけられている訳ではなかった。
 彼に対しても、カミューは殊更に愛想がよかった。低く柔らかい声で話しかけ、色白の顔にはいつもかすかな微笑を浮かべていた。怒ったり、前にはあった小さな意地の悪い戯れを仕掛けてくることもない。しかし、余りにもカミューの当たりは柔らかく、隙がなさ過ぎた。微笑は柔らかくとも親しみは感じなかった。
 こうなってみて初めて、カミューが以前、自分とどれだけ親しかったのか実感する有様だ。
 マチルダに続いてカミューを失って、自分は平静でいられるのだろうか。

 こうして後から見つめていると、自分が彼の影になってしまったような気分になる。
 それはどこか、愚かだがマイクロトフを安らがせる空想だった。
 彼の影になりたい訳ではない。が、あの眩しい陽性の男に惹きつけられるとき、真昼のようなあかるさに触れる時、自分を、彼の世界に投げかけられた黒い染みのように思うことがある。その不可解な劣等感はマイクロトフに親しみ、カミューそのものの姿になった。金で作った聖像のような彼。その姿から滲み出すあわい光の中に影の姿で蹲る自分。色調は黒。
 そんな気分に自分を縛り付けておくのは彼だけだ。他の者にこんな感情を抱くことがないゆえに比べようがなかったが、男が、崇敬する年上の友人を持つというのは、おしなべてこんなものなのかもしれないとも思ったことがある。
 カミューの話を他の者としたことはない。他人と分かち合える感情なのかどうかは知らず、分かち合えずともよかった。カミューさえその光でいてくれるのなら、自分の心の正体を突き詰める必要は感じない。
 だが、同盟に下って以来、カミューがマイクロトフに向けてその支配力をふるうことはなくなっていた。彼の光と自分の間に鈍色の膜が張り渡されているようだ。
 不意にカミューが腕を上げた。白い柔らかい布の服に包まれた腕を上げ、軽く自身の頬に触れた。何か、そこに伝っているものを拭うように指が動いた。マイクロトフは息を殺した。
 涙だ。
「驚いたな……」
 カミューが低く独り言を云った。独り言も彼らしくない。そして、一人で涙を流す彼も、マイクロトフの知るカミューの姿とまた噛みあわなかった。
 マイクロトフは拳を握りしめた。ここで彼の気持を慮って立ち去れるような自分ならどんなによかっただろう。だが、必要以上には他人と干渉し合わないカミューの世界に、マイクロトフが完全に馴染むことはない。彼はここで去らず、彼の私的な時間に土足で足を踏み入れ、整地されたカミューの心にまた泥靴で足跡をつけるだろう。
「カミュー」
 マイクロトフは声を抑えてカミューを呼んだ。
 おそらく彼は話そうとしない。だが、自分はカミューの涙の理由を訊く。カミューは、マチルダにいた時には責めることの無かったこの食い違いを、今も許すだろうか?
 自分の不躾さに対して彼が何を云うのか、マイクロトフにはいつも想像がつかない。騎士の誓いを捨てて以来の、この空白の数月の後ならば尚更だ。
「ここで何をしている?」
 自分の声が警戒するような調子を帯びているのに気づいて、マイクロトフは辟易とする。いつも自分はこうして詰問調になる。カミューはそれをかわすこともあれば、諫めることもある。そんな時、大抵唇は、あのよそよそしく美麗な微笑みで彩られていた。
 マイクロトフの声に、白い背中が小さな雷に出逢ったようにびくりと震えるのが分かった。頬に触れた指がゆっくりと下がり、暗い明りの中でもあきらかに頬を濡らした友人が振り返った。
「ここに来て以来」
 カミューは口をひらいた。
「ろくに、夜の湖も観ていないのに気づいてね」
 彼は少年期をグラスランドで過ごしたというが、彼の言葉には、グラスランドのかろやかな方言も、マチルダの重く粘り着く訛りもなかった。神父のようになめらかな、ミューズ市風の発音をする。ミューズ市にはハイランド皇国からの古い移民が多く住んでおり、住民の間では、正確で標準的な言葉が話される。
「見ろ、星の海のようだ」
 湖をてのひらで差す。その指先が透明なもので濡れているのをマイクロトフは観た。その頬をもっと間近に見つめ、涙を含んでいる筈の目を確かめたい衝動をこらえ、静かな湖水の水面を見やった。風はあるが、黒い湖水の凪を乱すほどではない。磨かれた鏡のような水面は、てのひらですくい出せるほどおびただしい星をうつしていた。目を凝らせば、淡く輝く帯になって夜空を横切る、星の河まで見て取れるようだ。彼は息を吐き、湖水から、晴れ渡った月のない夜空を眺めた。空の鉢は黒々と鎮まり、星はどこまでもあかるい。
「ああ、見事な夜空だ」
 そう答えた。自分が何を云いたいのかカミューは知っている。カミューに答える気持がないことを、話し始める前からマイクロトフは悟った。彼が自分と似ていないからこそ好もしいと思いこそすれ、今までその雄弁の殻の奥の沈黙を、疎ましいと思ったことはなかった。湖畔の、湿度の高い微風と、おそらくは涙のせいで、髪が一筋頬にはりついている。船着き場の暗がりの中で、その髪はいつもより暗く見えた。髪に触れた経験は殆どないが、その髪が柔らかく、日差しに出逢えばその光を吸って、独特な色に輝くのをマイクロトフは見知っている。涙で頬を濡らした友人を、マイクロトフはあきれるほど美しいと思った。そして、自分を閉めだした世界で、一人きりで輝く彼の美しさに、かすかな憎しみを抱いた。
「傷の具合はどうだ?」
 カミューが静かにつぶやいた。マイクロトフは、彼にそのことを云われるまで、自分が右手に負った傷の痛みを忘れていたことに思い至った。


 昼のことだ。
 シュウが軍議を開くのは決まって二階の大広間だった。崩れかけた城を修復して使う彼等には、まだ城を完全に甦らせるだけの余力がない。素っ気ない石作りの広間には、未だ修復痕が至る所に残り、いかにも急ごしらえのこの同盟にふさわしい様相を呈していた。
 ざわつく城の階段を登り、二階の大広間に足を踏み入れた時、見慣れた後ろ姿を目前に見た。カミューがここへ彼より先に来ることは滅多にない。マイクロトフが席に着いた頃、静かに現われ、少し離れた席に着くのが最近の決まり事だった。
 彼と同じような髪、同じような姿の者は大勢いるが、マイクロトフが彼を見誤ることはなかった。久し振りに間近に友人の姿を見たことで、左胸を刺されたような喜びが広がった。
「カミュー、早いな」
 背中に声をかける。白い上着に包まれた後ろ姿が歩みを止め、カミューは振り返った。振り返りながら、反射のように唇が微笑を浮かべるのが見えた。それを見た途端、マイクロトフの中で正体の知れない、かすかな不快感が走り抜けた。
 ────他人と接するときのように微笑う。
 しかし、それでは自分は他人ではないのか。そう思えば答は出ない。友人であることを、他人でないことと思ってもいいのか。こんな時勢の中で、友人の心が見えないことにとらわれていることを、出来れば目の前にいる男に知られたくはなかった。
 何故その時、手を伸ばして、彼の腕に触れようと思ったのか、その理由は定かではなかった。騎士団を出てもまだ、彼に気安く触れられる程度の関係であることを再確認したかったのかもしれない。
 マイクロトフは手袋をはめたままの手を伸ばして、カミューの手に軽く触れた。マイクロトフの手は、騎士の紋章の加熱反応で、手の甲が、巨きな蜘蛛を這わせたような火傷に覆われていた。今は治療薬と共に、紋章を制御するための護符を巻き、上から手袋をはめていた。微細な疼きはあるが、火傷は殆ど痛まなかった。ただし、今度の戦いまで護符を外すことがないように、とその護符を作ったラウラからきつく云い渡されていた。
 紋章の加熱反応は、紋章を宿した者ならば一度は経験することだ。自分の気力いっぱいに紋章を使いすぎると、紋章酔いを起こしたり、紋章を宿した部位が爛れることもある。額に紋章を宿せる者は元より魔力が並はずれて高いため、滅多に加熱反応を見ることはないが、手の甲に火傷を負う者は多かった。
 マイクロトフの手が、カミューの左手に触れた瞬間、強く何かを打ち合わせたような、不穏な破裂音が起こった。
 マイクロトフは呆気に取られ、茫然とした気分で、自分の手を眺めた。
 手袋の布が小さく裂け、血が滲み出していた。
「マイクロトフ」
 同じように愕然とした様子のカミューの声が聞こえてきて、彼は顔を上げた。その場に集まった何人かの視線が全て自分たちに集まっているのを知った。鼓膜を裂くようなその不快音が何なのか、知っている者も多いだろう。
「返し刃」だ。
 カミューが同盟に下ってから左手に宿した紋章だった。敵の攻撃を受けたとき、それに最大限敏感に反応出来るよう、精神にはたらきかけることの出来る、追加効果の紋章だ。精神と繋がって、戦いの最中、自分を傷つける者から身を守るためにはたらく、平時は使われることのない紋章だった。
 使った瞬間に術者の利き腕に共鳴する、その紋章効果は、風の呪文を使ったときとよく似た不安な風斬り音をたてる。
 返し刃は自分の意思で使うものではない。あくまで敵の存在が有るときのみに作動する。それが期せずしてはたらいたため、広間中に響き渡るような轟音をたて、人々を驚かせ、その紋章に触れたマイクロトフの指に傷を負わせたのだ。
 カミューの返し刃が自分に反応した。
 マイクロトフは氷のような感覚を呑み込んだ。本来、紋章はそんな過ちをおかすものではない。皮膚を通して神経につながり、その者の精神と直結しているのだ。それ故にどんな紋章を宿せるのか、精神力が正常にはたらいているのか、紋章師が見極めてからでなければ、紋章の装着は許されない。
 カミューは、紋章のもたらす衝動を中和しようとするように、自分の右手を、返し刃を宿した左手で掴んだ。返し刃が作用するのはむしろそれを宿した手ではなく、紋章効果の共振を受け取った利き手だからだ。返し刃がカミューの右手に剣を握るように促している。その切っ先の前に立つべきなのはこの場合はマイクロトフだった。
「すまない。大丈夫か」
 カミューの頬から血の気が引いていた。なめらかな頬が粟立っている。
「ああ。────大丈夫だ」
 傷はたいしたことはない。おそらく小さな傷だ。人差し指の付け根に小さく裂けた感覚があるが、火傷の上を覆った護符が破れていないのなら問題はなかった。
「おい、何をしてる?」
 立ちあがって近づいてきたのは青雷のフリックだった。彼は、同盟の将軍が、ハイランドの陣営から脱走した少年兵だった頃から懇意にしていた剣士だった。三年前のトラン共和国での戦いでも中心的人物だったと聞いている。マイクロトフと同世代でまだ若いが、同盟の中枢にいる男だ。軍議に将校達が招集されるときには、必ず彼の姿もある。
「返し刃が誤作動したのです」
 カミューは珍しく意気を失った口調でそう答え、視線を落とした。
「物騒な話だな」
 フリックの近くにいたシュウが呟く。彼自身は剣を握らない男であり、紋章をつけることもない。それが本当の話かどうかは分からないが、紋章否定論者と聞いたことがある。だが、彼は真の紋章の継承者である少年将軍に傾倒している。少年の宿す紋章の力に何万の軍が支えられている以上、紋章否定論を表向きには出来ないだろう。
「返し刃の誤作動だって? そんな話聞いたこともないぜ」
 フリックは、端整な顔を翳らせて自分の手を眺めた。彼も返し刃を宿しているのだ。紋章を宿す者は、無条件にその力を信じる他はない。云い変えれば、紋章を信じるということは、とりもなおさず自分を信じるということだ。それが誤作動するとあっては、紋章を宿して戦う者全ての士気に関わるだろう。
「たいした怪我ではありません。穏当に対応願いたい」
 重い気分でマイクロトフが口をひらくと、シュウは難しい表情で首を振った。
「怪我が軽かったのは幸いだが、問題はそこではないだろう。ジーン殿と話す必要があるようだな」
「それではわたしと、会議の後にご一緒しましょう」
 顔色を無くしたカミューが静かに云った。
「必要があれば、わたしは『烈火』以外の全ての紋章を外します」
「────そうか」
 シュウは肯いた。その必要があると思っているのか、思っていないのか。いずれにせよ、この場では口にしないだろう。
 カミューの「烈火」はマチルダにやってくるよりも早く、グラスランドで宿した紋章だということだった。彼の烈火は彼と同化して、もう外せなくなっている。マイクロトフを加熱で悩ませる騎士の紋章も、このまま使い続ければいずれはそうなるだろうと紋章師に云われていた。稀にそういうことがある。紋章に選ばれたようにそれと同化し、加熱反応や紋章酔いを繰返しながらも、宿命のように離れられなくなってしまう。
 そもそも紋章の正体はまだ、紋章を使い始めて一世紀にも満たない彼等には分かっていない。人間が魔力を持つことがあきらかになったのもこの数十年のこと。身体の部位に魔法を宿すと、そこに百合の花によく似た痣が浮かび上がる。剣や矛先にも、花弁にも見えるその痣にちなんで、人々はいつからか自分の意思で身体に魔力を宿すことを、紋章を宿すと云い習わすようになった。紋章を外せば、その痣は数日で薄れて行く。だが、カミューの烈火のように、もはや身体と同化してしまった紋章は、骨にまで色が侵食する。手の甲の薄い皮膚を透かしてそれが見て取れるのだ。
 紋章が誤作動したことよりも、カミューの返し刃が自分に反応したことにこだわるのは、おそらく賢明ではないのだろう。
 押し黙ったマイクロトフはそう思う。
「マイクロトフ殿は手当を」
 いまだ険しい表情のシュウにそう云われて、マイクロトフは自分の右手を染めた血を見遣った。血の染みは白い手袋に広がり、護符にも侵食しているのが見て取れる。護符に、そこに描かれた文字以外の色を加えることは望ましくない。彼は短く息をついた。
「分かりました。失礼します」
 カミューの顔をこれ以上見ないよう、彼もまた目を伏せる。
「お騒がせした」
 軍議の為に集った一同に短い挨拶をして、彼はその場を一旦辞した。ホウアン医師の治療を受け、ジーンに紋章を見せ、再び護符を巻き直すためにラウラの許へ赴かなければならない。自分が将校である故にこれほどの手間をかけ、時間を割くことが許されるのだ。下位の兵士達は、拒否反応が出ても、紋章を外せずに戦いに赴く者も多い。紋章を宿し直すのは金のかかることであり、紋章を外した後にも、思ったように闘えない空白の時間が生まれるからだ。
 騎士の地位を捨てても、自分が公平な立場に立ったとは思い難い。
 ────返し刃が。
 自分に牙を剥いた。
 それが果たして誤作動だったのか、マイクロトフに知る術はなかった。
 ただ、カミューの世界で自分が黒い染みであることの証をつきつけられたように思った。

 会議が終った後、実際にカミューはシュウと連れだってジーンのところへ出かけていった筈だ。ジーンと、紋章師数人と共に会議が開かれたのも知っている。それから更に時間を見計らって、カミューを探しに出たのだった。
 騎士団を出る前は白い衣服を身につけようとしなかったカミューが、よく白い服を着ているのにマイクロトフは気づいていた。カミューが白い服を着ないのは単に好みの問題かと思っていたが、そこに何らかの理由があったのかもしれない。マイクロトフが爆発する前に、ゴルドーに対してのカミューなりの確執があったのかもしれない、と思うようになっていた。ゴルドーに忠誠を誓ったものはしばしば、好んで白を身につけた。カミューがマチルダで白い衣装を着ているところを、おそらくマイクロトフは一度も見かけたことがない。
 同盟に下ってからは、白い服に袖を通している姿も見かける機会が多くなった。
 しかし、好きで着る服の中でも、友人の身体が痩せてゆくとすれば気分のいいものではなかった。カミューはおそらく、新たな葛藤を背負い込むことになっているに違いない。
 それを確かめるために、彼は今夜ここへやってきた。グリンヒル奪還作戦の前に、彼の屈託について尋ねておきたかった。グリンヒルを奪還すれば、次には確実に王国軍の結集するマチルダを攻めることになるだろう。マイクロトフの中の迷いを一つでも多く断っておきたかった。どのように耳に痛い言葉でも、何か友人に思うところがあるのなら聞いておきたかった。もしも話し合って、カミューの迷いも多少解ければ、それ以上のことはない。
「……『返し刃』を外したのか?」
「その必要はないと云われたよ」
「シュウ殿にか」
「ジーン殿にもな」
 カミューは平静な声音で答えた。
「今回、『返し刃』がはたらいたことには理由があるようだ。それさえわきまえていれば、またこうした事故が起こることはないだろうと」
「理由?」
 マチルダで生まれ育ったマイクロトフの言葉には、誰が聞いても誤りようのないマチルダの威嚇的な訛りがあった。撥音が強く、舌を巻くときに重い粘りがある。同じ言葉を話しているのに自分の言葉は重く、カミューの言葉は教え諭すようにもの優しい。それをマイクロトフはいつも不思議に思う。その優しさがカミューの気質と、必ずしも一致するものではない、と知っていれば尚更のことだ。
「ああ……」
 抑えようとしたのだろうが、カミューがため息をついたのが語尾で分かった。
 自分は意地になりすぎているだろうか?
「もう少し明るい場所へ行かないか」
 答を得られないまま、マイクロトフは更に云った。
「ここでは、お前がどんな顔をしているのかも分からない」
「星が見えるだけでは不足か?」
 ゆるやかな声が返ってきた。乾きかけた涙が、彼の頬に筋を作っているのをかすかに見いだすことが出来る。だが、明るい場所でさえ、カミューが自分のこころをさらけ出すことは少ない。このような薄暗い場所に立っていては、きっとその声の抑揚、抑制した言葉にごまかされて、子供のようにいなされてしまうだろう。
「不足だな」
 そう答えると、カミューは肩をすくめて、桟橋の中程へ歩き始めた。そこには小さな灯が点されている。桟橋の上は多少の涼風が吹いていた。番小屋が静まりかえっているのが気になった。崖の中程をくぼませるようにして作られた目立たない桟橋だが、充分に外敵を招き寄せる可能性のある場所だ。この暑さで疲れて眠り込んでいるなら、後で様子を見回らなければならないだろう。
 そう思いながら、頭の片隅では、彼等の話を聞く第三者がこの場にいないことをマイクロトフはひそかに感謝していた。相手がそれを望んでいないとき、誰かと二人きりになるというのがこれほど難しいと初めて知った。
「傷の具合は?」
 カミューは繰返した。
「あの時にも云ったが、たいした傷ではない。おれはこんな傷より、『理由』が気になるが────それを今尋ねるのは、傷を逆手に取るようで気が引ける」
 カミューの顔を、桟橋の柱に取り付けられた灯が照らした。黒く見えていた彼の髪が、本来の赤みがかった色彩を取り戻してはっとするほどあかるく輝いた。それと共に頬を涙が伝った後があきらかに照らし出される。それでもいっそ強情なほど、その筋は拭われることなく、そこに捨て置かれていた。火屋から漏れる光の中に、あかるい色の瞳が覗く。その目は濡れているようには見えなかった。
「だが、それでも俺は尋ねたい」
 沈黙に覆い被さるようにマイクロトフは云った。この夜はマイクロトフにとっては、訪れるべくして訪れたものだ。何を尋ねたいのかははっきり分かっていた。
「お前が、マチルダに居たときと同じようにはおれと接するまいと想っているのを、理解しているつもりだ。おれはそうされても仕方がないことをしてきたと思う。だが、お前の信頼を失ったと思うと────」
 喉が一瞬つまって、マイクロトフは言葉を切った。間近に見える華やかな友人の美貌に、胸がいっぱいになった。自分が激しく彼の視線に乾いていたことを自覚する。少年期から、この美しい友人はどんな時でも彼の指導者であり、国を思って痛む胸の鎮痛剤であり、最上級の酒だった。家族に等しい存在でさえあった。
 マイクロトフの父は早くに亡くなった。彼が騎士団に反旗を翻した首謀者であるが故に、家族に累が及ぶ可能性もあったが、マイクロトフの母を、ひそかにハルモニアに脱出させる手筈を整えてくれたのはカミューだった。
「お前の信頼を失ったとすれば、おれは自分を責めるしかない。無意識にお前の『返し刃』が反応するほど忌まれているとしたら、おれはどうすればいい? もうどうすることも出来ないのか?」
 カミューは数度目をしばたたいた。長い睫毛が彼の目にあきらかな影を落としている。カミューの沈黙はまるで、銀で作った鎧の中に自ら閉じこもっているように見えた。
 だが、カミューも何か吐き出したいと思っているのではないか。
 充足した者が夜、一人きりで涙を流すだろうか。
 その自分の涙に驚いて独り言を云うだろうか。
「せめて要求してくれ。これはおれの我が侭だ。────だが、改める機会を与えてくれないか」
 マイクロトフは必死に言葉を探した。
「頼む────カミュー」
 今までカミューは彼にこの類の努力をまるでさせたことはなかった。いつもマイクロトフ自身より早く彼のこころを読み、先に立ち回って道を切り開いてくれた。彼に切り捨てられる可能性を、同盟に来るまで、彼はまったく考えずにやってこられたのだ。
「……決して、俺に免じてとは云えない。但し、おれを今まで助けてくれたお前自身の度量の広さに免じて、もう一度機会を与えてくれ。それで駄目なら、今度こそお前に見捨てられても仕方がない。だが、おれは……」
「待て」
 カミューの唇が、あきらかな苦笑にほころんだ。一抹の苦みを残しながらもその微笑は、胸を冷たくして云い募る青年の胸に安堵をもたらさないではいられなかった。
「策士だな、お前は」
 カミューは大きく息をつき、微風になぶられる髪をかき上げた。
「策など弄した覚えはない」
 憮然と云い返すと、彼は苦笑を浮かべたままで首を振った。
「策でないのなら、尚更たちが悪い」
 彼は、自分の胸の前にそっと左腕を挙げ、手を握りしめた。その左手に、厚く包帯が巻かれている。それが自分と同じ処置を施されたのだということに、マイクロトフは気づいた。紋章の発現を制御するための護符を巻き、その上から包帯を巻いているのだ。カミューの宿した返し刃の威力を危険だと判断されたのか、さもなければカミュー自身が希望したのか。
 おそらく後者だろう。危険だと思えば紋章師がそれを放ってはおかないはずだった。
「お前の云う通り、あんなことになって……どんな小さな傷でも、お前のその身体を傷つけて、わたしが沈黙を守っていられると思うのか?」
 カミューの言葉はおだやかだったが、彼の唇はほんのわずか、皮肉な形に歪んだ。だが、マイクロトフを驚かせたのはカミューの微笑ではなかった。異質な道筋を示したように頬の上に流れていた涙に、新たな一筋が加わった。透明な酒を満たした杯を傾けたように、カミューの淡い色の瞳の上に、光る涙があふれた。黄昏と同じ色の灯をうつした涙は、ほの白い頬の上を金色に染まってすべり落ちてゆく。それでもカミューの唇には微笑が刻まれていた。
 友人が涙を流しているにも拘らず、マイクロトフは、今までこれほど彼が美しく見えたことはないと思った。カミューと間近に接する機会が暫くなかったせいか、彼の全てが不謹慎なほど快いことに戸惑った。
 涙の珠は一つ、また一つと転がり落ちた。カミューは、包帯を巻いた左手を挙げ、目元を押さえた。
「わたしは今まで一度だって、こんな風に泣いたことはなかったんだ」
 カミューは、物憂くささやいた。
「ああ、……知っている」
 迷って、一言付け加える。
「……おそらく」
「誰かを想って泣くのが、こんなに甘いものだとは思わなかった。涙など何の意味もないものだと思っていた」
 マイクロトフは眉をひそめた。話の流れを読みとることが出来なかった。今は自分とカミューの話をしているのではないのか。返し刃が作動するほどの怒りというものが、どれほどのものなのか分からない。カミューをそんな風に淀ませたのが自分なら受け止めようと思っていた。
 だが、カミューが誰かを「想っている」と告げられれば、もうそれはマイクロトフの手の届かない話題になる。マイクロトフが機微を聞き違えたのでなければ、それは恋についての話だ。自分が立ち入ることを許されない、カミューの胸の中に咲く花についての話だった。
「訳が分からないという顔だな」
 頬に流れた涙を指先で拭ってカミューは笑う。
「わたしはお前のそういうところが好きだよ」
「カミュー」
 困惑して呼び掛けたマイクロトフの言葉を、カミューは手で制して遮った。
「鋭敏かと思えば酷く鈍感で、人の心を傷つけるところがあるな……お前には。だが、わたしはお前にそうであって欲しいと思っているんだ」
 風が起こると、湖中に散らばった星がかき消えて、湖水が鎮まると同時にまたちらちらと瞬き始める。今夜は全てが息を飲むほど美しかった。夜気が、暑さに熱をはらんだ皮膚を徐々に冷やし、身体中を包み込んで夢心地にした。この夜が何故これほど美しく思えるのか、マイクロトフは理解し始めていた。目の前にカミューがいるからだ。誰からも干渉を受けず、二人きりで言葉を交わしていられるからだ。自分よりも幾らか低い位置でゆっくりと瞬く、友人の濡れた瞳を見つめる。そこに感情は見えなかった。
「お前が騎士のエンブレムを捨てた時、わたしは裏切られたと思った。お前の判断に、自分の存在が微塵も影響を与えないのだからな」
 カミューは一言一言、丁寧に発音した。聞き違えようもなくはっきりと、裏切り、と口にした。
「わたしはどこかで自惚れていたようだ。お前を管制し得ると────わたしの忠告を求めもせずに、道を違えるようなことはないと……だが、それは当然違った」
 マイクロトフは無言のまま視線を伏せた。この話は、ここに出向くよりも前に、既に予測の出来た話だった。カミューがそれについて思うところがない方がおかしい。口に出してくれればいっそ気が晴れるほどだった。
 裏切りという言葉の重さは彼の胸に刺さった。関所を無断で越えてミューズに渡ろうとした時、既にそこに待ち受けていたカミューの配慮を思うと、喉が干上がる思いだ。
「裏切るつもりではなかった。今更遅い弁明かもしれないが」
「いいんだ、マイクロトフ」
 カミューは平常の声を取り戻しつつあった。だが、涙は止まっていない。また一筋、彼の頬を透明なものが流れ落ちるのを、収拾のつかない思いでマイクロトフは眺めた。自分の無配慮を責められるのは仕方がない。だがそれは、カミューの想いについて語られた言葉とは食い違うばかりだ。
 彼が何を云おうとしているのか、マイクロトフには未だに理解出来なかった。
「お前はそれでいい。ずっとそうであって欲しい────去られることを知った時、どれだけ自分の中でお前の存在が大きいのかを知ったよ。自分がどんなに想っているのか、思い知らされた」
 涙に濡れた顔を上げ、カミューは眩しいものに出逢ったような目をしてマイクロトフを見上げた。
 そして、煌めくような微笑を見せた。
 正確無比であるゆえに彼を特徴づけるその声で、やわらかくささやいた。
「自分が、お前を愛していることを理解したんだ」

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