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楽園・2(2004年7月)

04 29 *2009 | Category 二次::幻水2青赤

楽園・1の続き。

続き





 そう云われた瞬間、湖を背にしたカミューの背後で、星が一つ流れた。烈しく長く尾を引く、青白い星だった。マイクロトフは思わずその星の行方を目で追い、カミューの顔から目を逸らしてしまった。信じられないことを聞かされた衝撃で、こめかみや首筋に血が昇るのが分かった。自分の沈黙がカミューにどう思われるかはかり知れないが、言葉が出てこなかった。
「だが、誤解はしないでくれ」
 視線をようやく戻すと、目許を軽く押さえたカミューの指先を、幾つもの涙の滴が伝っていた。涙は涸れず、かつてなくあでやかな瞳の上を薄く覆う。
「憐れんで貰うつもりはない。充分幸福なんだ────お前が生きて、戦っている、それだけで充分だ。お前を見ているだけで、苦しいほど幸福になれる。自覚する前と今では……そうだな。楽園に住むのとそうでないほどの違いがあると云ってもいい」
 カミューは声をたてて笑った。
 彼は声も美しい。音楽のような響きがある、とマイクロトフは思った。そして確かに、彼ほど幸福そうに泣く者をマイクロトフは今までに見たことがなかった。
「返し刃は必ずしも、敵意だけに反応するものではないらしい。どうやら、わたしのお前への思い入れが強すぎたようだな。宿す紋章についても配慮すべきだった。お前に怪我を負わせたことには、心から詫びを云う」
 カミューは涙でかすかに赤らんだ瞼を伏せ、自らの紋章が傷つけたマイクロトフの右手を見つめた。それに感触があるとすれば、絹を連想させる柔らかな視線だった。マイクロトフのごつごつと荒れた手にはおよそふさわしくない、細い糸が巻き付いてくるようだった。
「傷が軽いものでよかった」
 ため息混じりのその言葉にまじったものが、ようやく、マイクロトフにその言葉の現実味を感じさせた。
 カミューの涙も声も柔和ながら、想いを告げるためのものというより、まるで鎧の中に閉じこもる為のもののように思えたからだ。カミューが、彼を愛していると云いながら、思いを返されることを求めていないのははっきりしていた。
 手に触れた瞬間、返し刃が作動してその指先を弾くように、カミューの言葉の客観を装った柔らかさや、自己完結した美しい涙が、マイクロトフの気持を拒んでいる。
 狼狽し、悩むことさえ許されていないことが飲み込めた。
 だが、傷の具合について気遣う言葉だけは、友人同士の言葉に似て、今まで彼等の間にあったものとほぼ等しかった。
「────どう答えればいいのか分からないが」
 マイクロトフがそう云いかけたところへ、カミューの声がやんわりと重なった。
「云ったはずだな。憐れみは必要ないと」
 短い吐息をつき、カミューはさばさばしたように夜空を振り仰いだ。
「お前は、ロックアックスに新しい旗を立てる日のことでも考えていればいいさ。わたしはわたしで好きな道を行く。こちらの都合で、その道がお前と重なることもあるかもしれないが」
 マイクロトフは飢えた目に、星の下で風に吹かれている男の、細く通った鼻梁や、まぶたや睫毛の線、くっきりと整った顎のラインが首筋に続いて行くさまを映した。彼の言葉への正しい答は分からないが、自分の云うべき言葉は既に見つかっていた。
「おれには何も話させないのか、カミュー」
 そう云うと、星の破片をつけたように髪を光らせるカミューは、マイクロトフを見つめて少し笑った。
「何を話す?」
「先ず、お前の言い分は勝手だ、ということか」
「そうかもしれない」
 マイクロトフの重い声と、なだらかな音律のカミューの声がいりまじる。
「わたしの楽園に立ち入ろうとする者を、歓迎するつもりはないからな」
「それは納得した────つまり……」
 マイクロトフは正確な意味合いを求めて暫く沈黙した。
「つまり?」
 カミューがおだやかに彼の言葉を反復する。
「つまり、おれとお前の関係において、積極的なのはおれの方だという訳だな」
 晴れやかな涙を楽しんでいた確信犯の元赤騎士は、違和感を感じたように眉をひそめた。
 初めてカミューを、自分にまともに向き合わせた手応えを感じる。
「お前はおれを想っていると云うが────」
 喉を絡ませる狼狽を振り払おうと、マイクロトフは軽く咳払いをした。
「この数ヶ月、ろくに口もきけないままお前のことばかり考えていたおれの気持と、お前のその気持のどこが違うのか、まるで分からない」
「子供のようなことを云うな」
 カミューはあくまで微笑混じりだ。
「その違いが分からないはずはあるまい」
「違いがあるとは思えない、と云っているつもりだが?」
 マイクロトフは、カミューの腕に触れた。今度は拒む仕種はなく、昼のようにカミューの紋章がはたらく様子もなかった。マイクロトフは胸を撫で下ろす。いかに頑健な彼でも、一日に二度指を裂かれるのは御免被りたい。
(護符で封じているのだから、当然と云えば当然だが────)
 そもそも「烈火」を宿したカミューは、魔力にも人より秀でていた。
 柔らかな殻で覆った心の中に、触れがたい炎を隠しているのだ。グラスランドからマチルダに移住して騎士団に居場所を求め、身一つでのし上がった経歴も、彼の意志の硬さや情熱を顕わしている。無防備に触れられる相手ではなかった。だが、火に焼かれてでもカミューを得たいという者は多い筈だ。彼に恋い焦がれる余り、命を絶とうとした者もいた。
 自分が彼等の一人だったとしても不思議はない。
 彼は、自分自身も護符を巻き直したてのひらを広げ、カミューの肩を覆った。やはり少し痩せたようだ。そうさせたのがあるいは自分かもしれない、と思い至ると、瞬間的に震えが走った。もう片方のてのひらを肩に添え、自分の無骨な力の能う限り恭しく、年上の友人の身体を引き寄せた。
 抱きしめると、カミューの肌からかすかに甘い香がした。こうして抱きしめて、彼の身体が自分より一回り細いことを改めて知る。いつものように整えられていない髪が頬に触れ、髪からも何か花のような甘い香がした。男の身体を腕に抱いているというのに、嫌悪を感じさせる部分はまるでなかった。だからといって、女性を抱いているのとは違う、硬くしなやかな手応えがあった。
 マイクロトフ自身も薄い綿の私服を身につけている。薄い布越しに押しつけ合った胸の中で、自分の胸がどんな鼓動を打っているか、カミューが感じ取ればいい。こうでもしなければ、カミューの領域に踏み込んで行くことはとても出来ないだろう。
 カミューが平静なのか、動揺しているのか、抱きしめた身体からは感じ取ることが出来なかった。皮膚は熱くも冷たくもなく、鼓動も呼吸も静かだった。たった今まで、あふれ落ちるほど涙を流していた人の気配とは思えなかった。
 彼は、抵抗しない身体をそっと引き離し、暗い明りに照らされた男の顔を覗き込んだ。そうしてみて初めて、彼が目を閉じて自分に身を任せていたことを知る。
「カミュー?」
 自分の言葉の語尾がきついことを改めて自覚したばかりだ。意識して声を低めた。
 瞼が夢を見るように開き、マイクロトフを見つめ返す。だが、彼はまだ何も云おうとはしなかった。
「……おれが初めて婦人を誘った時、お前は随分と世話を焼いてくれたものだったな。お前が相手なら、どうするべきかもっとはっきり分かっているのだろう?」
 感情を読みづらいその瞳に向き合うと、それが今更、眩暈を覚えるほどまぶしいものに見えてくる。マイクロトフは一瞬奥歯を食いしばった。気後れして、引き下がるつもりはない。自分がカミューに感じていた喪失感が、カミューの想いと同じものなのか、それは知るところではない。だが、それがカミューの云うところの愛に劣っているものだとしても、これだけ厚くふりつもった彼への思いを、ただ黙殺することは出来なかった。
「お前に相手にして貰おうとするなら────先ず、どうすればいい。花を贈るのか? 共に星を見ればいいか?……それとも誓いのくちづけを?」
 包帯をぎっしりと巻かれたカミューの左手を持ち上げる。烈火ですら封じる必要がなかったカミューに、返し刃程度の紋章を制御不能にさせた原因が、よもや自分への想いだというのだろうか。
 忌避の感情を抱かれていた、という以上に信じがたいことだった。
 紋章を宿したなら、手の甲の丁度中心に痣が浮かぶ。
 マイクロトフはその部分に唇を押し当てた。
 手にくちづけて忠誠を誓った相手はこれで二人目だった。
 一人目は彼が捨てて来たものの象徴たる男だ。白の領主。瞼の左側に引きつれた戦いの痕を、殷々と響く深い声を、かつては代え難く崇拝していた。しかし、マイクロトフの捧げたくちづけはエンブレムと共に地に墜ちた。それゆえに、彼は、形のない理想に誓いを捧げることの危険を思い知ることになったのだった。
 だが、カミューは形なきものの象徴ではなかった。故郷の山河のように、動かずに時を待っていてくれる相手でもない。今捕らえなければおそらく、彼が再び隙を見せることはないだろう。
(捕らえるなどと────シュウ殿ではないが、物騒な話だ)
 マイクロトフは自分自身の内心の動きが好戦的であることに驚かされる。手の甲に何度かくちづけると、その布に濡れている部分があることに気づいた。先刻、カミューの涙を吸った部分だ。
「誓いなどと口にするな」
 カミューの言葉尻が僅かに掠れているのを、マイクロトフの耳は聞き逃さなかった。
「マイクロトフ……友情に篤いお前の気持は嬉しいが」
 そう云ってカミューは目を細めた。下りた前髪が、彼の額の上で、風の流れに沿って繰返し小さな波を寄せている。笑顔は作りものには見えなかった。マイクロトフの思いに無関心であるとも取れた。
「お前の気持がわたしと違うことは承知している。わたしなどの想いに、そう影響されるものじゃない」
 マイクロトフはかっと頭に血を昇らせた。
「お前にしては察しが悪いぞ、カミュー。いつおれの気持がお前の気持と等しいと云った────こちら側にも退引きならない事情があると云っているんだ。お前は慎ましく一人で想いに耽って満足らしいが、おれは違う。お前を巻き込むつもりだ」
 カミューの楽園にも太陽はあるだろう。太陽に照らされればどこかしらに影が落ちる。カミューが自分を排斥しようとするなら、黒く醜い染みとなって彼の中に居座ってやる。マイクロトフはそんなことを思った。そして、手がつけられないほど自分が高揚していることにようやく思い至った。
 カミューは驚いたように沈黙した。薄赤いその唇から一瞬表情が消える。頬に小さく、花片のような血色が散った。その一瞬の後には、あふれ出すような輝かしい微笑みが唇に戻ってきた。泣いていても笑っていても、自分の心に任せるカミューは、無数の星やファイアフライの金の灯でも縫いつけたように、そこここが小さく煌めいてまぶしかった。
「参った────」
 カミューは襟元のボタンを一つ外した。髪を軽く振り、風を入れるように胸元をくつろげる。目の表情は隠れたが、唇は笑っている。
「涙も乾くよ、お前にかかっては」
 マイクロトフは怒りが醒めやらず、息をついた。
「気分良く泣いていたところを邪魔したようだが?」
「嫌味はお前らしくない」
 絶えず吹いている風は、瞬く間にカミューが見せた感情の波を洗い去り、頬と瞳を乾かした。そうして風に吹かれている様子は、いっそ不自然なほどに平穏でいつも通りの友人の姿だった。
 この男が自分を愛していると云う。それ故に甘い涙を流したと云う。まさかそれを同胞愛や友人としての気持にすり替えることはしない。だが、彼にそんな想いを抱かせることが自分に出来るものだろうか。
 そして自分は何故、カミューの気持に思い悩むこともなく、まるでかねてからの願いが叶うきざしを見たように、胸を熱くしているのだろう。
(彼とおれの望みが似ている────か、限りなく同じものに近い、と考えるしかないだろう)
 カミューが一人で閉じようとする世界に、彼の望まない染みをつけてでも入り込みたい。殆ど閉じた扉の中に、細い蛇のようなものに姿を変えて入り込む心象が浮かんだ。元より彼との関係で、マイクロトフは自分を影のように思っていた。友人と愛人の位置を入れ替えてみたところで、今までと少し形が変るだけのことのように思えた。
 彼は、護符に巻かれたカミューの左手を握り込んだ。てのひらは、やはり幾ばくかの抵抗があるようにかすかに強張る。
「────おれの部屋でいいか?」
 そう尋ねると、カミューは片方の眉を僅かに上げてマイクロトフを見上げた。そして、握り込まれた自分の手に視線を落とす。
「何がだ?」
 いかにも儀礼上、といった答だったが、マイクロトフは諦めなかった。
「ナナオ殿はもうじき回復されるだろう。間もなくグリンヒルに出陣だ。今夜をおいて、おれたちがゆっくり考えている時間はあるか?」
 すると、カミューは半ばあきれたように笑った。
「お前の部屋で考え事を?」
 自分自身の頬を涙が伝った時も、彼はこんな顔をしていたのではないか、とマイクロトフは思う。
(────驚いたな)
 先刻のカミューの低いつぶやきには、真実、予期しなかったものに出逢った驚きが滲んでいた。
「お前が望むなら、そうしてもいい」
 マイクロトフはカミューの手を握り込んだまま歩き出した。強硬な力で握りしめていたおかげで、てのひらはマイクロトフから逃れられず、カミューは彼に引きずられるようにして数歩分歩いた。
 だが、気になっていたことを思い出して、マイクロトフは一刻も早く部屋に戻ろうとする足を止めた。思わず重いため息をつく。融通のきかない自分の性格が恨めしかった。名残惜しい気分で、赤く痕がつくほど強く握りしめていたカミューの手を離す。
「……忘れるところだった。番小屋に人の気配がないんだ。眠り込んでいるかもしれない────様子を見てくるから、先におれの部屋に行ってくれないか?」
 瞳に入り込みそうな位置で風に揺れる、カミューの前髪の一房を、彼は手を伸ばしてかき上げた。
「行くだろう?」
 自分のその仕種が馴れ馴れしく思えて、髪と額に触れた指を握り込む。灯から数歩遠ざかっただけで、そこにはもう呑み込むような暗闇が待っている。身体を半ば暗闇の勢力のなかに預けたカミューの表情は、マイクロトフの目には殆ど読めなくなっていた。だが、僅かな沈黙の後に答が返ってきた。
「分かった。行こう」
 そして、笑みの色調をまじえた溜め息が聞こえてきた。

 酒を片手に眠り込んだ歩哨を手荒く揺り起こし、嫌というほど云い聞かせたのちに、素面の者と交替させるのに、半時以上の時間を費やした。
 城の自分の部屋の扉の前で、マイクロトフは暫し迷った。自分の部屋の戸を叩くのも妙な気がしたが、結局叩いた。そして、いらえを待たずに戸を押し開けた。
 部屋の中は無人ではなかった。マイクロトフは、部屋の奥に置いた肘掛け椅子の背もたれに身体を沈めた友人の姿を見てほっとした。カミューは台に足を載せ、くつろいでいるようにさえ見えた。近くにテーブルが引き寄せられており、そこにグラスが二つと、酒瓶が載っていた。カミューが愛用する真鍮のカンテラが金色の光を放っていた。これはティント製のカンテラで、坑道を奥まで照らせる明るさを想定して作られたものだ。窓を開け放たれたマイクロトフの部屋に、あかるい光の輪が広がり、その中でカミューの姿が白金色に浮かび上がっていた。
「お帰り。ご苦労だったな」
 カミューのグラスには、底に少し酒が残っている。少ししか注いでいないのか、もういい加減飲んだ後なのかは分からない。だが、今はグラスに触れていなかった。
 テーブルの真ん中にあるものを見て、マイクロトフは眉をひそめた。
「それは?」
「わたしが買ったわけじゃない。安心しろ」
 カミューは腕を伸ばし、それに指先で触れた。テーブルの上に大ぶりの鉢が据えられて、そこに、いっぱいに星を散らしたような花がいけられていた。
「女性達の好意で、グリンヒルに出陣する者の部屋に花を届けているようだ。エミリア殿とアンネリー殿が二人で持ってこられた。わたしが代わりに受け取っておいたぞ────役得だな」
 そう云って笑った。
「ここではそんな風習はないと思っていたよ」
 マイクロトフは彼の隣に立って、カンテラの光の中に群れ咲く花を眺めた。一本一本の茎に、細かい小花がついて花房になっている。青紫や桃色の小花がいりまじって、テーブルの上に青みがかった花の靄を作り出していた。花房の間に白い花弁がまじって咲いているせいで、星が散っているように見えるのだ。彼はその花の名を知らないが、マチルダにいた頃女性に贈り物の返礼を欠かさず、花を選ぶことの多かったカミューなら知っているかもしれない。
「飲んでいたのか?」
 そう尋ねると、カミューは花に触れていた指先を引き、膝の上に落とした。
「飲んででもいなければやりきれないね」
 首を振ってみせる。
「お前は突然やってきてわたしにすっかり白状しろと云う。話してみれば、今度は自分を閉め出すなと云う。次は、用事があるから先に部屋に行って待っていろ、と、こうだ」
「……すまない」
 マイクロトフは思わず顔を赤らめた。
 並べられると、自分が酷く身勝手なことを云っているのが分かる。
「まあ────いいさ」
 彼は、一向に座ろうとせず、自分を見おろしたマイクロトフを見上げた。
「それで? 大隊長殿。この後は如何なさるおつもりですか?」
 酒の瓶を引き寄せて、もう一つのグラスに注ごうとするのを、マイクロトフは押しとどめた。カミューがせめて好きな酒を飲んで自分を待っていたことにほっとする。彼が気に入りのカンテラをこの部屋の中で灯していてくれたこともマイクロトフには嬉しかった。
「せっかくだが、今日は酒は飲まない」
「そうか?」
 カミューは意外そうな声を出した。この数ヶ月は彼等の間で途絶えていた交流だが、楽しみの少ない城の中で、夜に顔を合わせれば共に酒を飲むことが多かった。どちらが強いということもなく、彼等は際限なく飲んだ。指先一つ意識的に触れ合ったわけではないが、酔って同じ寝床で眠ったことも数え切れないほどあった。
「お前に求愛するなら、素面でいるべきだと思うからな」
 自分のグラスに口をつけたカミューは、マイクロトフのその言葉を聞いて、苦いものを呑み込んだように軽く噎せた。カンテラの灯をきらきらと弾きながら、咳込むカミューの栗色の髪が輝くのをマイクロトフは見おろしている。
「それほど驚くことでもないだろう?」
 彼は思わず苦笑した。
「お前は、おれが何をしようとしていると思っていたんだ?」
「……さあ」
 カミューは目を上げた。噎せたせいでその目に涙が滲んでいる。それだけのことだが、先刻とめどもなく涙を流した彼の顔を思い出して、マイクロトフの胸の中で心臓が大きな音をたてた。
「だが、いずれにせよ、わたしはお前を利用しているような気分だよ」
「利用?」
 カミューは立ちあがった。何かに耳を澄ませるようにかすかに顔を傾けた。
「お前は孤独だったのだろう? 故郷を出て、親類は全て散り散りになった。まだどんな道を行くか分からない都市同盟に自分の身柄を預けた。道を共にしたと思っていた朋友はよそよそしい。お前はずっと孤独を味わってはいなかったか? わたしはそこにつけこんで、錯覚を起こさせて、さもお前の勢いに流されたような顔で、逆に────」
「カミュー!」
 彼は腹の底に力を込めて彼の言葉を遮った。友人がひどく機嫌が悪いとき、こういう話し方をすることを彼は知っていた。彼自身がカミューの矛先を向けられたことは、今までは幸いなかった。その言葉に乗せられて水掛け論になったら、目の前でドアを閉められて万事休す、ということになる。
「わたしは成就を望んでいるわけではない。だからといってお前を傷つけたいわけでもないんだ。もし、お前がわたしの気持を思うなら放っておいてくれないか?」
「断ると云ったら?」
「それは卑怯というものじゃないか。わたしがお前を想っているということが、お前の気まぐれに付き合う理由になるのか?」
 彼は拳を握りしめた。カミューに、奇妙にねじれた方向へ誘導されようとしているのを感じる。こんなことは初めてだった。思うような言葉の出てこないもどかしさを噛みしめて、彼は自分の額を押さえた。てのひらに触れた自分の髪の感触は硬く、カミューの絹糸のような髪とまるで違っていた。だが、カミューは自分を想っていると確かに云った。彼がその結論に辿り着くまで、どれだけの葛藤を乗り越えたものかと思う。
「気まぐれのつもりはない。だが、不意打ちをするつもりがあったのは認める」
「……?」
 カミューが訝しげに目を細める。彼が導こうとする方向に進んでいくまいとするには、思った以上に努力が必要だった。彼は、細い橋の上を渡るような気分でそろそろと口に出した。
「不意打ちを狙うか、何年でも粘る覚悟をしなければ、お前が手に入るなどということはない。それは、もう一度経験している。……友人として」
 やはり、彼を自分の部屋に引き込んだのは正解だった、とマイクロトフは思う。誰が通りがかるかも分からない桟橋で、こんなことをいつまでも話し続けられるものではない。
「お前はおれが孤独だったと云ったが、そんなことには耐えられた。お前がおれを許さないなら、同じ場所で闘えるだけでもよしとしようと思っていた。だが、『返し刃』がおれに反応して────おれはまだ、お前の中に自分がいることを知ったんだ」
 彼は混乱しながら言葉を継いだ。自分と彼と、二人同時に欺かないように話すのは困難だった。
「何年か粘るのはいい。……だが、今は時間がない。だから今回は不意打ちを狙った」 
 カミューが数度瞬いた。その優美な形をえがいた目を覗き込むと、自分の味わっているものがとても錯覚だとは思えなかった。
「俺の云いたいことは伝わっているだろうか?」
 カミューの口元に漂っていた、鉄のように強固な微笑が静かに消えた。
 銀色に輝く雷雲のように、目前にまで迫っていたカミューの静かな怒りがふと行く先を逸れたのを感じる。やがて、僅かに眉が和んだ。
「お前を悩ませるつもりはなかった」
 そう囁かれて、マイクロトフは肯いた。
「分かっているつもりだ」
 護符と手袋のせいで、どこか外界の感覚と切り離されているように感じる右手が汗ばんで疼いた。
「少し、お前に触れてもいいか?────それとも、もう一度誓いの口づけから始めるべきか?」
 カミューのうなじが傾いた。空気が動いて、体温が近づいた。
 カンテラの光がゆらめいた。カミューは、馴染みがたいもの同士を近づけるように、マイクロトフの身体に自分の胸を添わせた。背中に静かな力がかかり、カミューの腕が自分を引き寄せているのを感じた。その左手から包帯が取り去られていることに、不意に気づく。剣の切っ先に似た「返し刃」の文様が彼の手の甲に浮かんでいる。剣を使うことと共に彼等の生活に入り込んできた異質な魔法の世界が、その皮膚の上に宿っていた。だが、ものを思い、毎日を生きて暮らすということは、常に何か異質な魔力を受け入れることなのだ。カミューの告白を通して突然生まれた感情を味わう今は、それが実感される。
「何も誓わなくてもいい。……お前の誓いは重い」
 肩の上に額を伏せたカミューはささやいた。彼が動くと、甘い香が立ち上った。
「時間がないなどと云わずに────猶予をくれ」
 マイクロトフは、彼の頬に手を添えて、顔を覗き込んだ。手袋に邪魔されない左手で額の際から柔らかな髪をかきあげる。今度は馴れ馴れしさも気後れも感じなかった。今までこうしなかったことが不思議に思えるほどだった。
 逸る熱を押し殺しながら、カミューの冷たい唇に、大義名分のないくちづけをした。
 そして、どうやら自分が、彼の楽園に足を踏み入れるのを許されたことを知った。

 マイクロトフが手袋を外し、護符や、消炎の為の貼り薬を取り去ってしまうのを見た時、そのてのひらの上に這った火傷の跡を眺めて、カミューは痛ましそうに眉をひそめた。騎士の紋章の加熱は、今までに見なかったひどい様相をあらわしていた。紋章の痣の形の上から、一塊りの赤い水しぶきをあびせたように腫れが広がり、傷口が破れている部分もあった。もう半ば治りかけているとはいえ、火傷によく似たその傷が、まだ無惨な様子であるのには変らない。
 だが、その傷がてのひらに出来るものでなくてよかった。痛みがあっても剣を握れるなら構わない。
 それに、指先とてのひらさえ無事なら、触れたいものに素手で触れることも出来るだろう。
 手袋を外した手で、彼は真っ先にカミューの頬に触れた。桟橋で、この頬に光る涙の筋を見つめていた時、自分の指でそれをすくい取りたかった。自分の指で、唇で、涙の温度に触れたかった。
 カミューが護符を外した気持の中にも、少しは自分と同じような意味合いがあるといい。
 頬や首筋、髪に触れ、襟元のボタンを弾くと、カミューは狼狽したように身動いだ。
 彼が痩せたと思ったのはマイクロトフの誤解ではなかったようだ。鎖骨の下の翳りが以前に見たときよりも深くなっているのを目で確かめた。鎖骨の上に唇で触れる。そして、肩まで続く、その真っ直ぐに伸びた骨の感触を、腕の付け根までなぞった。
 マイクロトフの重い身体に敷き込まれたカミューは、居心地が悪そうに背中をよじらせた。こんな風に人の身体の下に横たわって、愛撫を受け取る経験はなかったのではないだろうか。マイクロトフの髪に指が伸びる。その器用な指が彼の髪からうなじへ、今にも主導権を取り戻そうというように柔らかく動くのを、マイクロトフは左手で押さえ付けた。今夜も遅く暮れ、朝にはまた何事もなかったように軍議に出かけなければならない。長い間触れ合っている時間はお互いになかった。そうなれば、この場を譲る気持にはなれない。まして、カミューは自分たちの間にある関係から、マイクロトフを切り落とそうとしていたのだ。
 ボタンを外した胸の中に手を差し入れると、そのまま指が溶けてしまいそうになめらかな肌が触れた。マイクロトフの傷だらけの指で触れただけで、淡い金に光るその肌にかき傷を作ってしまいそうだった。だが、友人が柔らかで美しい外観に似合わず、その皮膚も髪も、手足も頑強なのだとマイクロトフは知っている。
 てのひらで胸の薄い筋肉の隆起を包むように撫でる。
 どんな感覚があったものか、カミューが浅い息を吐くのが聞こえた。胸元にかがんでいた彼はてのひらをそこに残したまま伸び上がり、カミューの顔を見つめた。下瞼のふちが赤らみ、彼の、見事なヘイゼルの瞳がうるんでいるのが見えた。
 胸を辿り、体毛に薄く包まれた下腹に指を這わせる。カミューの服のふちで手の甲の火傷が擦れたが、痛みなど気にならなかった。ゆっくりと握りしめる。圧迫感に、数度浅い呼吸を繰返し、カミューはまた息を殺す。また、たまらないような、小さな呻きが喉元でわだかまる。手探りに愛撫しながら、マイクロトフはどうしてもカミューの瞼から目が離せなかった。
 閉じた上下の睫毛の間に、光る涙の筋が薄く盛り上がるのが見えた。
 今日三度目の涙だ。
 今、そうして閉じた睫毛の間に覗く銀色の涙滴は、マイクロトフが今までに見たどんな涙より甘美だった。

「────夜になっても、気温が思ったほど下がらないな」
 マイクロトフは、水で絞った布を手に、カミューの元に戻った。服の前をはだけて寝台にあおのいていたカミューは、起き上がって布を受け取った。この城の上下水道の設備は素晴らしかった。井戸から水を引いて、大部屋でも、個室でも水が使えるようになっているのだ。
「グラスランドもこうだったか?」
 顔や胸元の汗を拭うカミューに尋ねると、彼は首を振った。
「湿気がないから、夜は気温が下がって冷える。ただし、昼ははるかに暑い」
「そうか……」
 気配を感づかれることをおそれた彼等が閉め切った窓は、開け放しても、殆ど風らしきものを運んではくれなかった。だが、その代わり深夜にさしかかっても相変らず星は美しかった。曇天の多かったロックアックス城付近では、真冬の一時期を覗いては、これほどの星空を見られる機会は滅多にない。
「騎兵の訓練ももう終りだな。休ませてやる時期になっている」
 そう一人ごちると、カミューが髪を撫で上げながら、閉口したように答えた。
「同感だ。これ以上働かせると、グリンヒルへの移動中に参ってしまうぞ」
「グリンヒルを取れると思うか?」
「取れなければ、ロックアックスを攻めるのは無理だな」
「────ああ」
 マイクロトフは溜め息をついた。猶予をくれ、とカミューは云った。それは同時に自分にも猶予が与えられたのだろうと思う。カミューとかすかに食い違ったままぶつけた気持に、ふさわしい名前を与えるまでの猶予を。最初、復讐心のように彼の世界の黒い染みであろうとした。だが、いつまでもそんな気持でいたなら、カミューはきっとその違和感に気づくだろう。今度はマイクロトフを許さないかもしれない。自分も、今とは違う答を出さなければならないのが分かっていた。
 闇の中を見晴らしても、星と、遠いサウスウィンドの灯が目に入るばかりだ。マチルダでは、上空を眺めても天が全て闇に包まれ、天地の間にあるものは自分と闇と灰色の雪のみの、漠々とした晩が長く続く。見ようによっては、星を無数に輝かせたこの夜は、あの吸い込まれるような雪の夜に似ていると思えないこともない。
「雪にも見えるな」
 振り返って、マイクロトフは椅子に身体を投げ出した。テーブルの上に、心づくしの花が咲き乱れている様子を眺める。夜でも花弁を閉じることのないその花は、カンテラの燃料が燃え尽き、暗くなった部屋の一角に、更に小さな星空を作り出している。
「そう思えばマチルダが忍べるか?」
 カミューのまだ気怠さを残した声が聞こえてくる。彼は思わず顔を上げた。友人の姿が白く透けて見える。表情は分からないが、声はいつもの彼だった。マイクロトフの親しんだ、おおらかなカミューだ。
「マチルダを思うのは少しの間やめる。……考えるべきことが他にあって忙しい」
 聞きようによっては不遜なその言葉に含ませた意味に、カミューは気づいたようだった。顔を拭っていた動きを止め、マイクロトフを見る。細かな表情までは分からない。
 だが、おだやかな息づかいが聞こえた。
 おそらく、笑ったようだった。

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