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恋愛小説十年後

01 06 *2018 | Category オリジナル

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この後何かが始まるはず

続き










 関西空港から羽田まで一時間弱。狭いエコノミーシートに落ち着いた途端居眠りをして、ドリンクサービスを逃してしまった中垣旭は、喉の渇きを感じながら、空港の到着ロビーに至る通路を歩いていた。午後三時の羽田は、目が痛くなるような明るい晴天で、通路の窓から差し込む光は、まだ四月半ばだというのに、真夏のようだった。
 昔はそうでもなかったが、ここ最近中垣は気温の高い季節が好きだった。寒い日よりもよほどやる気が出る。今日は大阪出張明けの水曜日で、会社は定休日だったが、そうでなければ直帰せずに、社に戻って働きたいほどだった。
(帰ってもどうせ一人だしな……)
 到着ロビーで足を止めて、彼はネクタイを少しゆるめた。ロビーには適度な空調が効いているが、通路や搭乗口は暑く、中垣は汗ばんでいた。家に帰って着替えてから、誰か暇そうな奴を見繕って飲みに行こうか。ぼんやりとそう考える。
 中垣の住むマンションは、ファミリータイプの3LDKで、一人で過ごすには何とも広すぎた。誰かを連れ込むには重宝だとも云えるが、その誰かを見つけるのが面倒だった。自分は恋に関して、果てしなく走行できるだけの燃料を積んでいる、と思っていた中垣だが、三十歳を前に離婚した頃から、とみに新しい人間関係を作ることへの情熱が薄くなった。それは自分でも驚く変化だった。
 七年前、見合いで会った途端に意気投合し、ジェットコースターのような勢いで結婚した妻が、結婚生活四年目にして、当時三歳だった娘を連れて出て行ってしまったことは、中垣の中でまだ未消化な出来事だった。
 中垣は娘を愛していた。たぶん今まで恋人として付き合ったどんな相手にも、妻の友実でさえ、娘の小さな身体を抱き上げたときの、ふきこぼれるような愛しさに勝るものを感じたことはない。
 高校教師で才色兼備だった友実に、中垣はまだ複雑ながらも好意を持っているし、彼女が娘の若菜をこの世に送り出してくれたことに、何より感謝していた。若菜が生まれなかったら、中垣は自分がこれほど自分以外の存在に夢中になれるとは、知らないままだっただろう。
 友実と若菜が出て行って、口座から一人で住むマンションのローンが自動的に引き落とされてゆくのを見ると、何とも虚しい思いがあった。離婚に関して、中垣に問題がなかったとは云えない。だが、原因になった「もの」を、友実が笑い飛ばしてくれる女だったら、と勝手なことを思ってしまう。
 彼は飲み物を買って、すぐに空港を出るつもりだったが、気が変わって出発ロビーのある二階へ向かった。別に急ぐ必要はないのだ。
 彼が車を駐めてある民間の駐車場は、徒歩数分の至近距離だった。予約すれば送迎車も出してくれるが、中垣はたいてい駐車場まで歩いた。空港周辺の閑散とした広い道路を歩くのが好きだったからだ。
 コーヒーを飲んで一服したら、社の連中に、地方色のある土産でも買っていこう。羽田で買ったことはたぶんすぐばれるだろうが。
 エスカレーターを上って、幾つかあるカフェやスタンドを物色する。ここの飲食施設は価格設定が高めで、味はもう一歩だが、空港そのものを云えば、小洒落た女性向けの小物を置く店や、ブランドショップ、コンビニから書店まで入って、単なる旅行中の通過点ではなく、ある程度の長い時間を過ごせる空間になったと云える。
 中垣は書店で雑誌を一冊買った。表紙には黒煙と炎の上がるイラク戦争の写真が刷られており、大見出しは、赤い文字で「人質になった日本」とあった。だが、中垣はその記事を目的にその雑誌を買ったわけではなかった。ページをめくった時、「別れても夫婦 友達離婚」という見出しが目に入ったからだ。我ながらこんな記事に目を惹かれるとは情けない限りだった。だが、現実はあくまで現実としてあるのだから、雑誌を読むときくらい、記者の創り上げた夢の空間に浸るのも悪くないだろう。
 カウンタの前でコーヒーを飲める店を見つけて、彼はホットコーヒーをオーダーした。中垣がいるのと、一つ空いたスツールに男が座っているだけで、カフェスタンドは閑散としていた。
 座るとき、その客に見られたような気がして、中垣もその男をちらりと眺めた。ずっと暖かい日が続いているのに、顎まであるタートルネックのセーターを着て、黄色っぽいサングラスをかけていた。緩いウェーブのかかった髪を整えもせず、ラフに切りっぱなしにしている。会社員ではないだろう、と中垣は思った。しかし、中垣の興味はそこまでで、彼はコーヒーを受け取って雑誌を取り出した。紙袋の口を閉じたビニールテープを剥がしていると、隣の男が、はっきりと身体の向きを変えて、自分を見ているのに気づいた。
(何だ?)
 中垣は手を止めてもう一度彼を振り向いた。
「……旭?」
 何か喉の病気を患っているような掠れ声だ。聞き覚えのない声だった。中垣がまだ分からないでいるのを見てとった男は、口角を上げて、自分のかけたサングラスをずらした。ぱっと華やかな、切れの長い目が覗いていた。記憶と違うのは、その目が、まるでなつかしい友人に会うような、ものやわらかな色を浮かべている点だけだった。
「佳之……」
 信じられない気分で、八年ぶりに口にする名前を呼ぶ。月館佳之は、中垣がかつて恋愛の意味で関係を結んだ、ただ一人の男だった。大学生の頃、卒業するまで二年間一緒に暮らした。元は高校の同級生だった。中学時代に留年しているので、向こうの年は中垣より一つ上だった。元々月館は男が好きで、中垣の前にも男と経験があった。
 女に際限なくもてた二十代前半の中垣は、自分の生活に入り込んできた異色の花に夢中になった。月館は非常に整った容姿を持っていて、ゲイだと知らなければ、男としても充分に魅力的だった。その彼が、中垣の身体を受け入れ、痛みと快楽に耐える様子がたまらなく彼の欲望を誘った。
 その頃、立ち仕事だった月館は、間を置かずにセックスして、中垣の性器を受け入れるのがつらいようだった。男同士ならお互い愛撫して満足するという選択肢もあったのだ。だが、女としか恋愛して来なかった中垣は、どうしてもそこに至らなければ抱き合った気がしなかった。やんわりとした抵抗に構わず、身体の線を撫でていると、不意に月館が欲情にとろけて、中垣の背中を抱き返す瞬間は、何度味わっても飽きなかった。
 月館の、やや自虐的で皮肉な個性も好きだったが、その中にはひとすじ生真面目で純粋なところがあり、深く付き合えば付き合うほど、その部分が際だって見えるような気がした。
 もう少し中垣の精力か、あるいは道徳心が人並みだったら、月館とももっと続いただろう。
 月館は中垣との夜に疲労を見せるようになり、中垣は、自分の中でくすぶる衝動を、月館以外の相手で晴らすようになった。中垣の我が儘を聞く年上の女友達が何人もいた。それが月館に知れて、彼が出て行った時も、中垣はまだ月館を好きだった。勝手な話だが本当だった。
「お前、河上さんとアメリカに行ったんじゃなかった?」
 中垣の月館情報は、二人が別れた翌年に、月館の親しい友人である河上姿子が、サンフランシスコのユニオンスクウェアで働くことになり、それについて行った、というところで途切れている。
 二人の関係について、常に怒れる月館の守護天使のような存在だった河上姿子は、アメリカに転居する前に、住所を知らせてきたのだ。姿子もまたゲイであり、女性としか性的関係を結べない人だった。だが、年下の月館を弟のように可愛がり、同じベッドに下着姿で眠るほど親しかった。
「ああ、うん。今年に入って姿子が結婚したから、俺も一度日本に戻ろうかと思ってね」
 薄く睫毛を細めるようにして話す月館の声は、しゃがれていて、喘鳴のような音がかすかに混じっていた。
「河上さんが結婚?」
 驚きが声に出る。すると月館はかすかに首を振った。
「女性とだよ。向こうに行って知り合ったロシア系の年上の人。二人が正式に結婚するまで、何年か三人で、シスコのアパートで暮らしてた」
「お前と河上さんの関係もつくづく不思議だな」
 中垣は笑って、無意識に煙草を探した。二階の一隅であるここが、禁煙かどうかを確かめようとして、ふと月館の声の調子が悪そうなことを思った。
「その声どうしたの。風邪?」
「いや。ちょっと怪我してて」
 中垣はそれを聞いて、不謹慎だが吹き出した。月館は怪我の多い男だった。昔髪を伸ばしていたのは、うなじに傷を負ったのがきっかけだそうだし、中垣と親しくなった頃も、恋人でもない女性をかばって、暴力団の男に腕を折られたことがあるのだ。
「お前、どれだけ怪我ばっかりしてるんだよ。どうしたの、怪我って喉?」
 その時中垣はふと、月館のやや長めの前髪の中、眉のあたりの皮膚に違和感があるような気がした。彼はそこで言葉を切って、ひとつ間が空いていた椅子を移り、月館の隣に座った。避けるように身じろぎするのを追いかけて、上半身を乗り出す。左側の額にふわりとかかった月館の前髪をかきあげると、そこには、直径一センチくらいの、何の痕ともつかない、皮膚がいびつによじれた傷跡があった。何かをつきあてて力を入れてえぐったように見える。それが、鼻筋の綺麗に通った、三十歳を越えても驚くほど若々しい月館の顔の中に、一カ所だけ奇妙なアクセントになっていた。
 中垣はゆっくりと指を前髪から放し、タートルネックの襟の内側に目をやった。喉仏のすぐ下に、色の褪せようから、ある程度古いものだと分かる、太さ五ミリほどの傷が二条、セーターの中に向かって下に伸びている。
「……」
 中垣は眉をひそめて、月館との間がひとつ空いた席に戻った。少し距離を置いて相手の全身をじっと見つめる。月館は厚着をしているし、ゆったりと店のパーテーションに寄りかかって座った細長い身体の、どこに異状があるともしれなかった。月館は、自分の姿を眺める中垣に、少し困ったような顔をした。
 以前の彼との間違い探しをするように、月館をじっくり観察した中垣は、彼の足下に外科用の前腕固定型杖が立てかけられているのを見つけた。握りの上の方まで杖が伸びていて、前腕を固定できるようになっているものだ。
 ジーンズやセーターの内側の身体がひどく痩せているのも、服の皺から見て取れた。
「交通事故にでも遭った?」
 中垣はそう尋ねたが、おそらく違うだろうと思った。交通事故で額を怪我したなら、もっと傷が広範囲に渡っているだろうし、喉についた傷は、どう見ても刃物のようなもので切り裂いた傷だ。月館は、一度付き合って別れた自分にそうそう身の上話をしたくはないだろうが、だが、しつこく聞けば云うだろうとも思っていた。
「旭のその顔、覚えがあるな……」
 月館は苦笑して前髪をいじった。傷が隠れるように前髪を梳き下ろし、そして元通りにサングラスをかけた。薄い色のついたそのサングラスが、髪と一緒にうまく傷を隠しているのに中垣は気づく。
「絶対聞き出してやると思ってるだろ」
「何だ、話が早いな」
 中垣は自分の右手が探っていた煙草への欲求を断ち切った。こんな弱々しい声を出している相手に、副流煙を吸わせる気にはなれなかった。
「俺はお前のただの友達じゃないんだし、知りたいと思っても不思議じゃないだろう」
「ただの友達以下とも云えるけどな」
 その掠れ声は、記憶にある月館とそっくり同じ喋り方をした。彼がさほど変わっていないと思うと少しほっとした。
 月館は、左手に握っていたカップから一口飲み物をすすった。
 口を開くと、かすかにオレンジの香がした。
「姿子と結婚したソフィヤは、以前は別の相手と結婚してたんだ。ソフィヤが男性と人生を共に出来ないことに気がついた時、彼はそれを受け入れられなかった。ソフィヤの恋人が姿子だっていうのも信じなかった。相手が離婚になかなか応じないから、ソフィヤは仕方なく先に家を出て、俺と姿子のアパートに引っ越してきた。彼はしばらく俺たちの様子を調べたらしい。俺がソフィヤの新しい恋人だと思ったんだろうな。探偵でも雇ってくれれば、それが間違いだってことは、彼にも判った筈なんだけど」
 月館は非常に簡潔に説明した。それは、彼の口で複数回繰り返された話なのが分かった。妙にきっちりと人称代名詞が入っているところに、この数年の英語圏での生活が表れていた。
「彼は、狩猟用のスキナーナイフと大型のバールを持って、夜中にやってきた。ソフィヤはお母さんの家に行っていて留守で、姿子は寝てて、俺は裏口に近いキッチンで何か食べてた。そこに、裏口の錠をバールで壊して、彼が入ってきた」
 月館は淡々と落ち着いた様子で、話を続けた。
「俺は抵抗するどころじゃなくて、最初に額をがつんとやられた時、壁に頭をぶつけてぼんやりしちゃってね。でも、姿子がすぐに起きて助けを呼んでくれたし、武器が銃じゃなかったのもよかった。裏口のロックを壊した時、バールだけで足りなくてナイフも使ったから、ナイフの刃がこぼれてたのも、幸運と云えるかもしれない。救急車は奇跡的にすごく早く来てくれて、俺は何カ所も刺されて心肺停止状態だったけど、助かった」
 中垣はてのひらの中に冷たい汗をためながら、月館の話を聞いていた。ポケットの中からハンカチを取りだして、自分の汗を拭いた。
 そして、カウンタの上にゆるく握って置かれていた、月館の右手を探った。指を開いててのひらを返す。そこにも、治ってから時間のたった防禦創が幾筋か袖口から覗いていた。
 中垣はうまく言葉に出来ず、両手でその右手を包み込んだ。他人からどう見えようと構わなかった。昔から、彼よりもゲイの月館の方がずっと人目を気にした。
「旭」
 月館は中垣に手を握らせたままにしていたが、なだめるような声を出した。
「ここでお前に云わないと怒られそうだから話したけど、もう四年も前の話だから」
「その杖は?」
「脚力がまだちょっとな。でもリハビリを気長にしていけば、いずれもう少しよくなるし、俺が一人でやっていけるようになったから、姿子とソフィヤも結婚したんだし」
 中垣は身をかがめて、握った月館のてのひらにそっと額をつけた。少し低めの体温と、手首から安定した鼓動が伝わってくる。
「こんなところで、やめろよ」
 月館の右手が動揺したように揺れる。だが、中垣は放さなかった。
 四年前。月館が心臓停止に至るほどの傷を負ったその頃、自分はどんな風に過ごしていただろう? たぶん若菜の成長で幸福の絶頂にあって、出来る限りの仕事を飛ぶようにこなしていた時期だ。その後に、青天の霹靂のように降ってきた離婚は、中垣を傷つけたが、生き甲斐や、若菜への愛情まで奪ったわけではなかった。
 今でも思い出すが、若菜が歩き始めた頃、友実と二人で、子供用ベッドに寝ている若菜の顔を覗き込んだ。若菜のすこやかな額や丸い頬を見ていると、胸が痛むように幸福だった。月館の怪我の理由を聞いて、それでも彼が死ななかったこと、偶然にここに居合わせて、なごやかな表情で自分にそれを話していることを思うと、胸の中が細い針で傷ついて、血で濡れるようだった。それは痛みには違いないのだが、ある特定の方向を向いたときにだけ、幸福に近い感情にシフトするのだ。
「気長にリハビリか……」
 中垣は顔を上げてつぶやいた。片手で月館の手を握ったまま、少しぬるくなったコーヒーを一気に飲んだ。口の中がからからになっていた。そして、このままここで月館に手を振って別れるという選択肢は、もはや有り得ないと思った。
「お前、これからどこに行くの。飛行機待ち?」
 月館に自分ともう一度接点を結ぶよう、どう口説けばいいのか、考えを巡らせながら中垣は尋ねた。月館がどこをどういう風に傷つけられて、今どんな状態なのか、服を脱がせて一つずつ確かめたかった。自分にはそれが出来る。月館には聞かれたくない心の声がそう云った。
「いや、姿子達のハネムーンに付き合って、長崎に行って来たところ。品川にホテル取ってるんだけど、ちょっとばてたから休憩してた」
 そう云って月館はオレンジジュースの氷をかすかに揺らした。
「河上さん達は?」
「姿子とソフィヤは夕方の便で成田から帰国するよ。二人とも生活基盤はシスコにあるから」
「お前は何でホテル? 家に帰らないのか?」
 そう訊くと、月館はかすかに顔を背けた。
「両親には、帰国予定をまだ話してないんだ。怪我した時すごく負担をかけたから、これ以上世話になる気になれなくてね。弟もまだ小さくて大変な時期だろうし」
 中垣は一応同意を顕して頷いた。月館は昔、母と結婚した義父を想っていた時期がある。その感情に苦しめられたために、家を出たのだった。その後義父と母の間に男の子が誕生し、月館の感情はますますこじれた。両親は彼のそんな思いに気づいているのかどうか、実家と月館の関係はいつも、どことなくぎくしゃくしていた記憶がある。月館の実家は裕福なので、生活や治療費の面倒を見ることを、むしろ両親は望んでいるのではないか、という気がしたが、月館はいまだ義父と、その家庭への屈託を捨てきれないのだろう。
「で、どうするの」
「昔、店で一緒に働いてた友達が置いてくれるって話になってる。会社員の家に週半ばに押しかけるのも悪いから、週末までホテルにいようと思ってさ」
「友達って、ただの友達? 男? 女?」
 中垣は、不躾な明確さで尋ねた。月館と一緒にいると、この数年間で身につけた社会人としての体裁がはげ落ちて、学生時代の短気で傍若無人だった自分が戻ってくるのを感じた。月館も同じように感じたようだった。
「ちょっと怖いくらい変わってないな、お前」
 月館はあきれたようだった。
「ただの友達で、女性だけど」
「お前こそ、ほんとに、どうしてそう」
 ホモのくせに女が身の周りから絶えないのか。
 そう云いかけてやめる。余り穏健な切り出し方ではなかったからだ。
「荷物は?」
 尋ねると、月館はいぶかしむような表情で、小型の黒いカートを指さした。中垣は月館の右手を離して立ち上がり、カートの持ち手を下に引き降ろして腕に提げた。荷物があるというのは好都合だった。多分この中にパスポートや貴重品が入っているのだろう。これを持って出てしまえば月館をここに拘束しておける。
「すぐ近くに車駐めてるから回してくる。ホテルなんかキャンセルして俺のうちに来い」
「は?」
 月館は腰を浮かせた。右手が杖を探しているのが分かる。
 中垣は彼の肩を押さえて、元のように座らせた。
「俺のところに落ち着いてから友達に連絡すればいいだろう」
「あの、お前、結婚して子供がいるって聞いたけど」
 月館も慌てているのか、話が端的になってくる。
「二年前までな。元の嫁さんは無理だけど、娘は今度紹介してやる」
「旭」
 ついに月館は、中垣の腕を掴んだ。サングラスのせいで表情が分かりにくい。
「俺、お前の相手が出来るような状態じゃないんだよ?」
 中垣は、月館のサングラスをはずした。抗議するように見開かれた、睫毛の長い目があらわれる。カウンタ近くにいる店員がずっと彼らの様子を伺っているので、ここで待つ月館には少し気の毒だと思う。どこをどう怪我しているのか分からないので、なるべく負荷がかからないように、月館の頭を抱え寄せた。髪が昔より柔らかい。短く切っているせいで傷まないのかもしれない。
 女のようにしなやかな月館の髪と、形のいい頭骨の丸みをてのひらで味わいながら、月館の唇にキスした。柑橘類の香がする歯列の奥に忍び込んで、舌にそっと触れる。柔らかい。舌と唇をほんの少し吸って離した。
「二十分で戻るから。逃げるなよ」
 そう云って、武士の情けだ、と思いながらサングラスをかけてやる。月館は茫然としたように中垣を見つめて座っていた。そういえば昔、やはり月館を降参させるために、渋谷の雑踏の中で彼にキスしたことを、中垣は思い出した。あの時の月館の表情もこんな風だった気がする。
 自分のアタッシュケースと小さな旅行鞄、月館のカートを三つ提げて、彼はさっさと店を離れた。エスカレーターを慌ただしく降りる。買った雑誌をカウンタに置き忘れたことに気づいたが、それはもういい、と思った。そう思うのが何故なのか、自分でも分かっていた。
 胸が高鳴っていた。飛行機を降りたときに感じた、一瞬世界に取り残されたような虚しい感覚はなくなっていた。
 自分の離婚の原因が、月館を最後に抱いた晩に隠して撮ったビデオを、友実に見られたせいなのだということは、当分黙っていよう、と中垣は思った。

                     了

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