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君が求めたら、全て差し出してしまう(2005年2月)

04 29 *2009 | Category 二次::幻水2青赤

他の話とは続いていません。
何度「初めて気持ちを確認する話」を書いても、飽きないのが青赤の素晴らしいところだと思います。

続き





 青銅の兜を跳ね上げると、そこから紅く濡れた髪が現れる。兜は戦いの最中自分を守るものでもあるが、同時に、自らの動きによって擦り傷を作り、頬や額に赤い鬱血を作る。稽古では舞うように軽々と動くカミューも、重い剣や怒号、仲間の死、血潮のとびかう戦場では身体中がぐっしょりと濡れるほどの汗をかくのだ。そして、彼の左頬には、頬当ての形の痣が出来ていた。左頬で剣を受け止めたのだろう。その剣が彼の耳や頭蓋を断ち切らなかったのは、カミューの腕と、そして何よりも神が定める運が彼に味方をしたということなのだろう。
「カミュー様」
 マチルダに居た頃、下位の赤騎士だった若い青年が、彼が鎧を脱ぐのを手伝おうとした。元マチルダ騎士全体の顔に苛立ちと解放感のいりまじった複雑な表情がある。彼等は今日、マチルダ騎士団の旗を、城から引き下ろし、同盟の旗を掲げた。
 しかし、幾ら離反したとはいえ、一度は誇りに胸をはちきれんばかりにして見上げた、その勇壮な旗を焼くことに、混じりけのない喜びを見出す者があるだろうか。革命の興奮や、憎しみでさえ、その複雑さをかき消すことはない。三騎士団の象徴の色を図案に、意匠をこらしたその旗は、常に石の城の上で高くひるがえり、それをあおぐ者のこころを慰め、忠誠という名の歓喜に縛り付けてきたのだ。解放と喪失は限りなく近い。信心と安寧とが、常に手を握り合った友人であるのと同じことだ。
「────いや、いい。自分でする」
 カミューは、青年の手を押しのけて、自分の身につけた鈍色の胴鎧のベルトを外し始めた。
「お前は、怪我人の世話をするといい」
 カミューは静かに青年に云った。カミューの腕にかけた手をはねのけられた青年は、困惑したように一瞬立ちすくんだが、すぐにカミューの言葉通り、城の奥へ駆けていった。
 その声を耳にしたマイクロトフは、カミューの声に鬱屈した低い響きを聞き取って、いぶかしい気分になった。カミューが親しい者以外に感情を見せることは少ない。怒りも、悲しみも、苛立ちも、およそ人が克服するべきだと自己に云い聞かせる類の思いは全て。彼が意識して表に出すのは喜びだけだろう。その喜びも、彼によって佳く統御されたものであることが多い。
 それはカミュー自身がそう望むからでもあり、望んだことを実現するだけの安定した力を持つからでもあった。
 カミューの目に表れた不可解な、瞬間的な苦痛は、マイクロトフ自身がマチルダの旗を燃やしたことに対して抱く、烈しい葛藤を僅かな間忘れさせる程だった。

 元マチルダ騎士カミューが、騎士団の長の地位を下り、同盟軍に下って半年経った。それと同じ日にマイクロトフは自らの青い礼服に止めつけた騎士のエンブレムをもぎ取り、ロックアックス城の大理石の床に叩きつけたのだ。二人は全く同じ日に騎士団から離反したことになる。
 だが、騎士マイクロトフとカミューが、自分達の頂点にいたことを忘れる騎士は稀だった。マチルダ騎士は同盟に下ってからも独自の部隊を持ち、騎兵として戦った。紋章を扱う力を持つ一部の者が、同盟の紋章師の一団に加わり、マイクロトフとカミューの指揮下を離れた。あるいは彼等であれば、対を為したような二人の騎士を重んじる心を忘れ得たかもしれない。
 だが、マチルダに生まれて、騎士団に加わろうという者は大抵忠義心にあつく、自らの信じる者を指導者として戴くことを望む者が多かった。ミューズ風の皮肉な云い方をするならば、大義に弱い市民である、と云ってもいいだろう。
 そして、マイクロトフとカミューは、赤、或いは青い宝玉として、彼等の冠の切っ先に輝くのにふさわしい男達だった。マチルダを離反して彼等にしたがった者たちのどれだけが、その時、自らが騎士団に反目した末にエンブレムを投げ捨てたのかは定かではない。
 おそらく、殆どがマイクロトフとカミューに心酔するが故に、自分等の指導者と同じ道を歩こうとした、というのが正解だろう。


 騎士マイクロトフが、ある種の非日常的な資質を持っていたのは、その生い立ちに由来するところが大きかった。
 彼の家族は、彼が幼かった頃、冤罪で騎士団に処刑されたのだった。ハイランド皇国に情報を流したという罪状からであった。その頃少年期にさしかかったばかりの彼の兄も、幼かった姉も処刑された。脚を焼かれ、聖木と呼ばれる、黒ずんだ紅い実のなる林檎の樹に吊るされたのだ。
 それをしたのは青騎士の長だった。青騎士数十人が『反逆者』の家に馬を駆り、病のためにその家にいなかった赤子一人を残して、全員が躯となるまで半時もかからなかった。
 その青騎士自身がハイランド皇国と通じていることが分かったのは三年以上経ってからのことであり、逃亡先から連れ戻されて処刑されたのは更に二年後のことになった。
 その青騎士が死んだとき、マイクロトフは七歳だった。
 心の臓の代わりに、怨念と、正義への執着をもって全身に血を送り出すような幼い子供に育っていた。その心の栄養素は愛国心だった。愛国心は剣の切っ先のようにとぎすまされ、常に彼を極端な行動や、怒りへと駆り立てていた。規則を厳守することや、理不尽な上級の官僚に耐えることもその一環だった。彼は忍耐という言葉の意味を取り違えていたとも云える。
 忍耐とは理不尽に耐えることではない。自分の心を管制し、或る状況において最善の備えをすることだ。だが、それをこの少年騎士に教える者は、長らく現れなかった。


 カミューが赤騎士の長になることが決まった五月のことを、マイクロトフは二年以上経った今も未だに忘れることがない。
 赤い礼服を着たおびただしい若者達の前で、カミューは自らが彼等の上に立つことになったことについて、短い挨拶を述べた。
 二十五歳の若々しい長は、城の白い石の照り返す光の中で、まぶしそうに目を細めて彼等の顔を眺めた。緊張した様子はなく、唇には微笑が浮かんでいた。
(「────諸君等は既に知っていることと思うが、我が赤騎士団は、マチルダ騎士団領随一の、外国人の多い騎士団である。諸君等は赤騎士五千の中に、マチルダ出身でない者が何人混じっているかを知っているか?」)
 声を上げる者はなく、しんとした静けさが返ってきた。
(「マチルダ出身でない者は二百人いる」)
 赤の礼服に、しなやかに輝く紫色の絹の肩掛けをつけたカミューは、その数について全ての者にもの思わせるよう一瞬の間を置いた。
 その時マイクロトフは、青騎士の礼服を身につけていることをいささか後ろめたく思いながら、彼等の最後尾を見晴らす、薔薇の蔦の絡んだ柱の影に立っていた。友人が赤騎士達に何を話すのか興味があったのだ。
(「青騎士団に外国人は四人。白騎士に取り立てられた者は零だ。この違いが何なのか考えてみるのは、諸君等にとって無益ではないだろう。これは、我々赤騎士が、最も自律した意志の許に編成された集団であることを示している。
 諸君等の隣に立つ者の顔を見て欲しい。赤騎士になることを選んだ彼は、家柄故でなく、騎士になるよう育てられたのではなく、ただ自分の力と勇気、また自由意志の許にここに集った頼もしい仲間だ。いずれ諸君の同郷の者以上の同胞となるだろう。わたしは君たちに誇り故に死ねとは云わない。唯、知略と勇気で戦い抜き、己の務めを全うし、戦場から戻って、再びこの門をくぐることを要求したい。その積み重ねが武勲に名を変え、やがて赤騎士全体の誇りとなることだろう」)
 五月の風は、栗色の髪に橙色の光沢を滲ませた騎士の髪をなぶり、男達の間に初夏の花の香りを届けた。ハルモニア、グラスランド、嘗ての赤月帝国からの移民、肌や髪の色の不揃いな戦士達の肺一杯に林檎の花の香がふくらみ、彼等は型破りな騎士団長に向かって、熱狂の叫びを上げた。
 長として叙任された第一日目の挨拶で、騎士としての死を否定した男は、今まで一人もいなかった筈だ。カミューの智恵は、男のそれと云うよりも、むしろ女の信念に近い。だが兵士達がそれを気にする様子はなかった。彼等は叫んだ。それは祭りの最中の陽気さのようでさえあった。白騎士が、あるいはマイクロトフの属する青騎士達が、騎士団と自己を巧みに切り離し、騎士としての一部であることに熱狂するのとは、あきらかに違って見えた。
 家族の死から二十年近く経った今も、林檎の花の甘い香を忌まわしく思いながら、長身の青騎士は静かにその場を離れた。
 友人の指導者的資質が、むしろ異国であればこそ発揮出来るのだということを感じる。南国の赤い花のようなカミューの存在は、癖のある赤騎士達にとってまたとない旗になるだろう。
 そのあかるさが、白く凍てついたこのロックアックス城では、なおさらまぶしいものであることをマイクロトフも痛感せずにはいられなかった。赤騎士にとってだけではない。彼等と競うべき青騎士の自分にとっても、また友人である個人としても、カミューはまばゆかった。
 だが、自分の家族を惨殺した青騎士団にあえて身を投じた青年は、自分の中の、飢えた狼のような正義感が、友人の明るさとは対極的な、指導者的資質を備えていることには、そのころ思い至ることはなかった。

 夜半、ノースウィンドゥ城中程の、木製の扉を叩いたのはマイクロトフの方だった。
 ロックアックスの旗を焼き、同盟の旗をかかげて十日近く経とうとしていた。その間、マチルダ騎士団を知り抜いた元騎士団の長の二人は、ノースウィンドゥに帰城するゆとりを持てなかったのだ。この城に数日とどまったのちに、おそらく再びマチルダに帰り、ハイランドの国境を越え、ルルノイエを攻め落とすまでの時を待つことになるだろう。
 ロックアックス城を攻め落とすのに、彼等はたった半日を要したのみだった。朝、ミューズに進軍する別働隊の喇叭が吹き鳴らされ、侵入者によってマチルダの美しい旗が燃やされたのは夕刻だった。
 騎士達や、下働きの男達が染み一つなく磨きあげたロックアックス城は、かつての仲間をまじえた同盟軍の軍靴に踏み荒らされ、血に汚れて、文字通りに斜陽の城となった。
 それが自分をどれ程傷つけるのか、マイクロトフはそこに自らの足で立つまで知らなかったのだ。以来十日間、夕陽は毎日のようにこの過敏な青年の胸を感傷に灼いた。何が恋しいのか、マイクロトフには分かっていた。ロックアックス城が権威を失わず、ゴルドーの正義を信じ、カミューや自分が体制の上で安んじていられた日々が恋しいのだ。それを思うと彼の胸は己への怒りで煮えるようだった。自分を憎んで、今までの、そして今の罪を滅ぼせるなら、この青年は自死をも厭わなかっただろう。
 だが、マイクロトフが自刃してもマチルダ騎士団が救われることはない。捕虜として投降した、嘗ての仲間達の心や将来に、何一つよい結果をもたらすことはないのだ。
 カミューの部屋の叩き金を彼が叩いたのは、自分が現在から過去に逃げ込もうとする感傷を共有出来ると思ったからではない。カミューなら、それを否定する風を自分の中に送り込むだろうと思ったからだった。
(それも、彼への甘えか────)
 彼は不意にそう思い至った。
 すると突然、その叩き金は氷で作られたもののように冷ややかに思え、二度とは触れることの出来ないもののように遠く見えた。
 マイクロトフは、ノースウィンドゥに来てから、殊に自分がカミューに依存するようになったことを苦々しく思っていた。
 同時に帰城したカミューも疲れている筈だ。もしも彼が休んでいるなら帰ろう。彼に一方的に寄り掛かって後で後悔するなら、会わない方がいいだろう。
 マイクロトフが静かにドアの前からきびすを返した時、扉の蝶番の、かすかにきしむ音が聞こえた。
 それは、侵入者を用心する慎重な開け方でもなく、カミューが開放的になっている時に、自分の部屋を名実と共に開け広げる、そんな陽気な開け方でもなかった。
 静かに、無感動に扉は開き、暗い明りを灯した中に、完璧に身繕いした男が立っていた。城に帰ってきた時と殆ど変らない格好だった。そのまま式典にでも出られそうだった。撫でつけた髪から一筋、あかるい前髪が垂れて、細い焔のようだった。
「御前か」
 柔らかな低い声がささやいた。
「どうした」
 マイクロトフは突然、訳も分からずに気後れして、視線を落とした。すると、赤い礼服に包まれた、彼の腕や胸のなだらかな線が目に入る。
 部屋の中で、着替えることもなく凝っとしていた彼の常ならぬ様子と、欲望を伴った記憶がマイクロトフの身体を硬くした。


 カミューと、ロックアックスを攻める作戦を練った晩に抱き合った。
 初夏が青い木の実のようにふくらみ、物狂おしく甘い月の浮かぶ夜半だった。
 彼とカミューは、一生抱き合わずに終ってもよかった。逆に、いつ抱き合っても不思議はなかった。それが、何らかの告白から始まってもよかった。言葉がなくともよかった。
 何年も前から二人はそのような関係にあった。気持の上では常にてのひらとてのひらが重なり合っており、その触れ合った手にいつ力を入れるか、いつそれ以上の意味を持たせるか、それだけが問題だった。
 ロックアックス城を攻めるにあたって、二人は軍師と三晩に渡って作戦を練った。城の詳細図を作り、捕虜にすべき者と殺すべき者の名を挙げた。それは、正義を理由に離反した者であっても、あきらかな裏切りだった。自分が離反者であることを諦め、祖国に刃を向けることは、自刃する前に似たやるせない興奮があった。
 おそらくそのやるせなさが二人の血を熱くしたのだろう。
 言葉は特別に無く、それはぬるい湯のようにお互いの唇の中に分け入ることから始まった。互いの髪をてのひらで激しくかき乱し、互いへの侵略は窓際からシーツへと場所を移した。二人の身体は争いをやめようとしない蛇のように際限なく絡み合い、額や鼻筋、肩や膝の骨を擦り合ったが、中途でカミューが突然、覆い被さる姿勢を取る努力を放棄した。おそらくそれは、女性を抱きしめる時と、違った経験をしてみたいという誘惑に打ち勝てなかったのだろう。その理由を特に尋ねる機会を得なかったため、マイクロトフはそう想像した。
 或いは、カミューの抱きしめる女性とマイクロトフの余りの違いが、彼の力を解いたのかもしれない。柔らかく崩れ落ちてくる小さな身体の代わりに、太く張った筋肉が、硬い髪が、何度か折れてなお丈夫になった手足の骨がカミューを覆っているのだ。
 そこで服を脱ぎ去った二人は、通常男女がする営みと極めて似通った行為に移った。
 月はますます夜気の中で赤くたわみ、熟して落ちてきそうだった。
 騎士として鍛えた身体が二つ、曲がり、盛り上がり、押し合って、鬱積と汗で粘りついた。
 おれたちが剣を振ったのは何故か。
 愛欲に似た行為に溺れ、水とは似ても似つかない生臭い液体で太腿を汚しながら、二人の身体は同じ問にきしんでいた。
 おれたちの手が硬くきたえあげられたのは何故か。天意に背かなければ、裏切りと生とは共存することを許されるのか。一度完全と思われた理想は、何故失墜するのか。
 口にしない自分達のくちびるが、あたたかい唾液のただなかでそう問うているのが聞こえてくる。それを完全に交感し得る相手だからこそ、彼等はその晩、月が眠り、暁の光に座を譲り渡すまで、痛みと体液をなすりあうことに溺れ込んだのだった。
 
 
 
「これから誰か客を迎えるのか?」
 どうした、と尋ねられて答える言葉のなかったマイクロトフは、仕方なくそう云った。
「くつろいでいるようには見えないが」
 あの晩徐々に東へ下りながら、こぼれそうな円い目で二人を見つめていた月は、今は糸のように細い。嘲笑する目の形に変って、今は天の中程にかかっている。カミューの部屋を訪ねる道すがら、窓から身を乗り出してマイクロトフはそれを確かめていた。
「その予定はない」
 カミューは戸口から一歩下がった壁に、肩をもたせかけて立っていた。回廊をあかあかと照らし出す、蝋燭の炎の輪の中に出てこようとはしなかった。暗闇に半ば沈み、礼服を身につけたまま立つカミューは、その美しさ故になおさら異様に見えた。目に見えない黒い腕にかき抱かれ、身動きもならないよう抱きしめられているさまを想像させた。
「お前はくつろいでいるか? マイクロトフ」
 低く柔らかな問がマイクロトフの疲れた神経にゆっくりと滲みてきた。それが皮肉ならよかったと、彼は思わずにはいられなかった。カミューがこの場で、打ちのめされている自分を皮肉で鞭打つような男であったなら、マイクロトフの取るべき道はひとつしか無い筈だった。相手にそれをどう取られようと、黙ってこの場を立ち去り、二度と彼に依存しないよう自分を戒めれば良いのだった。
 だが、カミューは時に辛辣なこともあったが、今のように、双方に神の許しが必要なとき、言葉の棘でマイクロトフを刺すようなことはしなかった。
 マイクロトフもまた、雄弁な年上の友人相手に、言葉で駆け引きを出来るとは思っていなかった。
「もうだいぶ前から、お前がお前らしい様子でいるのを見ていない」
 マイクロトフはそう云って、ようやく自分が何を求めているのか、その輪郭を掴んだように思った。
「あれ────以来だろう」
 マチルダの名を口に出来なかった自分をかえりみて、マイクロトフは再び鬱積した怒りに駆られる。彼はそこで躊躇ってはならない。彼を信じてついてきたもののためにも、確信犯である必要があるのだ。
「わたしは、お前が半月前の続きをしに来たのかと思ったのだが、違うのだな」
 カミューが平静に口にした言葉を聞いて、彼は自分の目許に血のあたたかさを感じた。睫毛の先まで紅潮したような錯覚を覚える。
「違うと答えれば嘘になるが、それだけでもない」
「そうか」
 カミューはもたれかかっていた壁から身体を起こし、一歩扉から差込んでくる灯りに近づいた。彼の端麗な顔が灯りの中に浮かび、マイクロトフはカミューの姿を聖像のようだと思う。尤も、宗教的な像に喩えるには、赤騎士の礼服は余りにも挑発的に華やかであり、身分のある者とそうでない者の格差を強く意識させるものだった。
「では、『それだけではない』部分を話し合うまで、お前は帰るつもりがないという訳か?」
 マイクロトフは少年期に、カミューの察しの良さに辟易としたことを思い出した。カミューは人の話を聞く前に先回りする癖があり、賢しさによって自身の立場を危うくしないよう、常に自己抑制を必要としていた。
「明確にそう思ってここへ来た訳ではない」
 マイクロトフは、誰かがこの気まずい場面に通りがかりはしないかと、どこかではらはらしながら言葉を探した。
「目的がひとつで無いというのは不便なものだな」
 そう云うと、額に落ちた一筋の赤い髪以外には、どこにも隙のなかったカミューの中に、ふと彼を受け入れようというやわらかなほころびが生まれたのを、マイクロトフは感じた。そして同時に、彼の柔らかな橙色の髪の光沢をてのひらでかきまぜたことを思い出し、剣の柄を握って感覚の鈍くなったてのひらに、驚かされるような優しい疼きを感じた。
 そして、常に怨念と共に脳裏にさんざめいていた林檎の葉のささやきが、カミューの身体とぴったりと一体になっていた時、喉のつかえが取れたように遠ざかったことを思い出した。
「確かに、目的と理由がひとつであれば何よりだ」
 カミューは云った。
「わたしは今、お前を部屋に入れたくはないんだ。だが、お前もひとつは目的を達するべきだろう」
 諦めたような、楽しんでいるような、感情の判別のつかない声だった。
「少し外を歩こうか」
 礼服を着た赤騎士は、影のように背の高い友人を見上げて微笑した。

 ノースウィンドゥ城には温室がある。図書室に隣接して作られたものであり、ガラス職人と建築士が、南国の王宮の温室を模して作った、小さな硝子張りの宮殿だった。
 その中には幾つか白熱灯が点され、中に植わったまだ若い木々────細長く研磨したエメラルドを連ねたような椰子の葉、真紅の怪魚のようなルピナスの花、外来の商人が苗木を持ち込んだ、桃色と白の斑を持つノウゼンカズラの花が照らし出されていた。
 その温室の隣に、既にほぼ落花して、星のような緑色の萼を残した林檎の樹が一本ある。
 カミューは、マイクロトフの林檎の樹にまつわる思い出を知らなかった。表情を頑なにして静かにきらめく温室へ目を向けるマイクロトフを、不可解そうな視線が追ってくる。
 カミューに他意があると本気で思ってはいないにも拘らず、林檎の樹が、二十年前に見た枝とロープ、四対の足と、悪意或る想いとの結びつきから逃れられないことをマイクロトフは知っている。
 その思い出は、乳飲み子であり、そこにいなかった自分に残されている筈はない。だが、年々その映像は強くなり、彼を恐怖へと駆り立てた。即ち、燕の帰巣本能が同じ軒下の巣に戻ってくるように、正義へ、正義へと駆り立てられ、絶え間ない罪悪感と怒りを脳髄に染み出させるのだ。それが病に近いものだと、マイクロトフは理解していた。
「ロックアックスを落としたことは、御前にとってそれほど辛いことだったのか?」
 マイクロトフは、自分の古い葛藤、殊に想像の中で怪物化している林檎の大樹(林檎は決して彼の想像ほどの高木には育たない)から目を背けるために、自分の気持をカミューに引き戻そうとして云った。
「おれは────お前がそれを乗り越えるものだと思っていた。少なくとも自分よりも」
 するとカミューは、蕾の形さえ成していない硬いみどりいろの芽を眺めるように、彼を眺めた。慈しみはあるが、言葉の通じないものを見るような目だった。
「お前の云う意味でなら、わたしはおそらく乗り越える必要はなかった」
 彼はゆっくりと云った。言葉の堪能な、異国人の話す言葉のように聞こえた。
「わたしが一瞬でも逡巡した時があったとすれば、お前と共にエンブレムを捨てるか否かだった。それも、うまくお前を説得する方法がないかと思って躊躇ったまでのことだ」
 マイクロトフはそれを意外に思わなかったため、沈黙していた。
 彼の背後に、死の匂いのするささやかな樹が腕をひろげている。温室の中では外界の干渉を受け付けぬ南国の花樹が花を咲かせ、そしてカミューは無感動に微笑んでいる。この上何を言われたところで驚きはしない。
「おれが何故、ロックアックス城でのお前のことを気にしているのか、自分でも理由が分からない。ただ、その少し前、お前と────」
 彼は云い淀んだ。羞恥からではなく、適切な表現が見つからなかったためだ。
「お前と過ごしたあの晩のせいで、自分の感じ方が変ったのかとは思った。今までは知らずに来られた、お前のもっと細部までを知りたいと思うようになったとしても、不思議はない」
 カミューは、温室から硝子の屈折を通して跳ね返る光に目を向けた。殆ど琥珀のような茶にしか見えない彼の目が、かすかにみどりいろを帯びていることに、マイクロトフは初めて気づいた。それは温室の中で、稚いながらも旺盛に育つ、緑の照り返しを受け取ってのことだったのかもしれない。いずれ、自分は彼の両ほほをてのひらに包み、その色の全てを見つめることになるだろう。マイクロトフは思う。それを想像すると胸が高鳴った。
「細部までを?」
 カミューは微笑みに、困惑したような色を混ぜ込んだ。
「自分の心の中は夜の海のようなものだ。自分でも、光のあたる場所がわずかに見えるのみだが、お前の云う細部とは、いったいどこまでの深さを意味している?」
 マイクロトフは思案する。それと同時に、言葉だけに集中しきれずにカミューを見つめてしまう。彼と比べると自分の姿はまるでごつごつとした冬の枯れ木のようだと思う。逆にカミューの姿は、花をつけた春夏の花枝のようだと思った。
「それは、おそらく小さなことだ。たとえば……」
 思案の末、彼はカミューの言葉をそのまま模倣した。
「────『お前は、怪我人の世話をするといい』……そう云ったな。彼はお前の気に入りの騎士で、身の回りの世話をさせていた。それを追い払われて、おそらくお前の気に染まぬことをしたと思って気に病んだことだろう」
 カミューはその時のことを覚えているようで、かすかに肯いた。
「あの時の不機嫌の理由は何だ?」
 カミューもまた思案しているようだった。彼が何故答を躊躇うのか分からない。マイクロトフはその中に、自分との関わりが根付いていることを望まずにはいられない。彼には今までこんな風に誰かを、自分の四肢も五感も全てないまぜになってしまうほど近しく、それでいて貴く思った経験はなかった。カミューにとって初めての想いであれとは願わなくとも、自分に似たものが彼の中にあるといい。
 肉のように赤かった満月の下で抱き合ったときは、息も舌も、指や髪の先までとけあっているように思えた。一生消えないと思っていた世界への隔絶感が消え、代わりにマイクロトフの中に恋情が落ちてきた。
「あの時、わたしは不機嫌に見えたか?」
 カミューは質問の形で話しかけながら、その実問うてはいないように見えた。
「ああ」
 カミューはあの日、どこからともなくただよってくる林檎の花の香と、夏に向けて一斉に若葉を吹き出した木々の中で、冷徹にロックアックス城を見上げていた。
 その目が何を観ているのか、他者にはうかがい知れなかった。マイクロトフは、自分が作戦を前にして、カミューと交感し合ったと思いこんでいた浄化が無であったような孤独感を覚え、また一方で、友人が見知らぬ男に変ってしまったような不安感を味わったのだった。
 カミューの云う通り、人はおびただしい心の「細部」の集大成であり、その全てを打明けることは不可能だった。だが、特別な相手に投げ与えるその内の一欠片をマイクロトフは欲していた。
 カミューの部屋の叩き金を一度軽く叩き、その後、二度は扉に触れられなかったほどに、マイクロトフの望みは強く浅ましかった。
「おれがお前の気分の話だけをしているのではないと、分かっているだろうな?」
 マイクロトフが用心深く問うと、カミューは肯いた。
 清潔に短く切りそろえられているが、長く平らで形のよい爪を備えた手を上げ、目前の右側から左へと、空中に真っ直ぐな線を描いた。
「あのとき、わたしの思っていたのは速さのことだ」
「速さ」
「そう、速さだ」
 更につけ加えた。
「何故、これほどの速さで走らなければならないのかを考えていた」
 マイクロトフは友人の言葉に、押し黙って耳を澄ませた。相変らず林檎の樹は闇の中で黒く、カミューの輪郭がそこにとけこんでいることは不快だったが、努めてカミューの言葉以外には関心を払わないようにした。
「ミューズを奪るためにキバ将軍が亡くなった。我々は盗賊同様にロックアックスに入り、王国軍と、残存する嘗ての仲間達に先手を打った。かつて掲げた旗を燃やし────さあ、次は国境を越えてルルノイエだ。夜が明けて朝が来ても、その日が暮れても、鼓膜から蹄の音が絶えることがない。歴史は、昼夜を問わず永遠に走る軍馬のようなものだ。決して止まらず、飢えを充たされることもなく、ただ、次へ次へと走る。はたして我々は、どこに辿り着こうとして道を急いでいるのだ? これほどの速さで?」
 カミューは静かに夜の空をふりあおいだ。湖と森に囲まれた城のはずれには、浮かれ騒ぐ者たちの気配も届かず、静かな虫の声が聞こえるのみだった。
「ヴァレリア将軍とゲオルグ・プライムは、かつて敵同士だった。帝国と戦い、安寧を手に入れた筈のトランは、我々とハイランドの戦いに身を投じることになった。────この先ルルノイエを攻め落として、獣の紋章を滅ぼせば平和がやってくるだろうか? 今度はハルモニアやグラスランドと剣をまじえるかもしれない。はたして我々の馬が足を休めるのはいつになるだろう。辿り着く先に待つものは何だ?」
 カミューはふ、と短い息をついた。
 そして、深刻に耳を傾けるマイクロトフに首を振って見せた。
「そんな顔をするな。誰しも、膨大な選択肢を常に選びながら歩く。時には虚無につきあたることもあるさ」
 マイクロトフはいぶかしさを捨てきれず、そろそろと口をひらいた。
「先手を打つことが誰よりも得手なお前から聞くのでなければ、おれはそれを逃げとしか思わなかっただろう。────だがそれでも、虚無はお前に似つかわしくない」 
「そうか?」
「ああ。お前ほど虚無に縁が無いように思える者はいない」
「そうか?」
 虚無の似合わない男は、もう一度そう云って、薄く整った唇で苦笑した。そして、声の調子を僅かにあかるく変えて、言葉をついだ。
「わたしはこれを、『戦うか戦わないか』という簡素な問題に置き換えることも出来る。戦うと決めたなら戦士であり続ければいい。戦わないと決めて、無血の政治に尽くすのもいいだろう。選ぶことが容易とは限らないが、いずれにせよ決めるのは自分だ。しかも、速さを虚しく思うのは心のごく一部であって、全てではない」
 マイクロトフは肯いた。
「しかし、全てでない筈のものが、全体を支配することがある」
 低く、もうひとことを付け加える。
「おれは、それを知っている」
 そう云うと、カミューは眉をひそめた。
「信用されていないものだな」
 マイクロトフはその言葉を即座に否定した。
「信用している」
 林檎は高木ではない。高い枝につるしても亡骸の爪先は土にこすれ、風に揺れる度に新しい泥が爪を汚す。きしむ枝の音、ぎりぎりに引き延ばされて細くなった縄、遂に自分の目では見なかった家族の像は年々鮮やかになった。同じように処刑された者の姿を見るたび、捕虜の首をはねるとき、彼の心は膨大な憎しみを溜め込んでいった。
 それを幾度、目の前にいる友人に救われたか分からないのだ。
「信用しているが────その虚無とやらを半分おれに渡せ。荷は軽い方がいい」
 カミューは驚いたように、美しい目を瞬いた。彼の誇りを傷つける気はない。自分が思っているほどカミューとの間柄が親しくなかったとすれば、そこに込められたマイクロトフの告白と熱意が汲まれることはなく、それはカミューのなかで不快で浅薄な提案として終るだろう。
「……お前にそんなことを云わせる局面を迎えてはいないんだ、マイクロトフ」
 カミューは教え諭すようにもの優しくそう云った。
「お前を必要とする者の声を優先してくれ」
「つまり、『怪我人の世話をしろ』という訳か?」
 マイクロトフはこわばらせていた肩の力を抜いた。カミューと触れ合った晩、自分の肩の骨に彼の首筋が触れ、あたたかい脈拍を伝えてきたことを思い出した。すると、あの日に得たあたたかな確信を、自分がまだ身体のなかに抱えており、ここで云いつのっていることは、虚しい云い争いではないのだと思えてくる。
「カミュー、お前は長いことおれの教師だった」
 彼は、てのひらにとらえた友人の背中のぬくもりを思い出す。身動ぎするたびに様相を変える貝殻骨や、優美な曲線を描く背骨にいたるまで、肉の内外を自分のてのひらが支えた瞬間を。あれはマイクロトフにとって完全な調和であり、カミュー自身の意思によってさえ損なわれるのは容易ではなかった。
 伝えたいものは、むしろその晩に出逢った肌の熱でこと足りることであり、言葉に出来る部分はそう多くはない。
 その数少ない言葉を取り出そうと、マイクロトフは自分の内側を手探りした。そうしていると完全に林檎の葉のざわめきが耳の奥から消え、マイクロトフは、カミューがどれだけ自分の深くに根を下ろしているかを知る。
「お前に教わったことは多いが、最たるものは、負を抱いて生きるべきでないということだと思う。口に出してそうは云わなかったが、お前はそれを教えたと理解している筈だ。そのお前に、一瞬でも虚無を理由に締めだされるのは耐えられない。────そもそも、そういった頑固さはおれが分担すべき役割なのではないか?」
 マイクロトフの言葉を聞いていたカミューは、てのひらを上げ、額を軽く覆った。ゆっくりと目を伏せ、口元から笑みを消した。
「……何と、お前の要求の厳しいことだ」
「忠実な友であり、教え子でありたいと願っているが────おれはお前から、常に従順であれと教わったことはない」
 彼は、カミューの手にそっと触れた。爪のなめらかな表面から、やがて小さな骨の継ぎ合わされた曲線へ。たった一度共有した夜、カミューが自分を慰撫した、力強く優しい指へ。
「おれと部屋に戻って、速さとは関係のないことを考えよう」
 そうささやいて、彼は一見して平静なカミューの指をそっと握り込んだ。幾ばくかの想いがそこから伝わる筈だと信じていた。
「考えるだけでなく、してみるのもいい」
「お前と?」
 カミューの声がいつもと同じ高さ、すなわち平静な低さに立ち返っているのを、マイクロトフはひどく美しい音楽のように聴いた。
「そう。おれとだ」
 カミューは一度消した微笑を唇にもう一度昇らせた。作為を感じさせない、ゆるやかで平穏な線が彼の整った唇の上に加わった。
「とても断れないな」
 手に入れたばかりの宝石を見せるように、礼服を着た青年は、友人に慎重に打ち明けた。
「こんなに熱烈な言葉で誘われたのは初めてなんだ」

 この行為そのものは清潔でもなく、様式的では有り得ず、むしろ滑稽なのだ。それにもかかわらず、カミューの味と匂い、触感ほど自分を充たすものがないのを、マイクロトフは強烈に意識していた。カミューは、愛情以外では癒されない傷があることを、初めて自分に教えた相手なのだ。そこに欲が加わっても、もはや自分達の間ではその価値が曇ることはないと、マイクロトフは考えていた。
 とはいえ、カミューと繋がり合う瞬間だけは、精神論が全て吹き飛ばされ、剥き出しの肉体同士が引き出す、過敏な感覚が拡大されてしまうことは確かだった。
 前に寝床を共にした時は、痛みという要素が一抹の潔癖さを生み出していた。だが、今夜はそれがない。マイクロトフは生真面目に、そのための小瓶を用意していた。自分の衝動が、あの晩を一度では終らせられないことを知っていたからだ。緑色の硝子を涙型に細工したその瓶の中には、肌を柔らかに濡らす油が入っている。サウスウィンドゥの街で買い求めたものだ。店主に用途を告げ、自分の求めるものを手に入れるまでの過程は、少年期に騎士団の面接を受けたとき以来の勇気をマイクロトフに要求した。かすかにオレンジの香がする。無味無臭のものは手に入らなかったのだ。
 僅か甘い香のする油が二人の間に割り込んだだけで、罪悪感を伴う痛みが消え、驚くような深さとなめらかさがそれと入れ替わった。以前彼の中に入った時は、硬く熱い弾力でマイクロトフを迎えたそこは、濡れただけのことで別の場所のような柔らかさを持った。
 カミューを、敷布に、頑強な楔のように縫い止めたマイクロトフの腰の脇を、膝が折れて引き上げられ、また力を失ってまっすぐに伸ばされる、という過程が繰り返されていた。自分が深く入り込んでいる時よりも、むしろ浅い場所で動いているとき、カミューは耐えられなくなるようだった。無理に折られた枝のようにぐっと曲がった膝は、体温であたたまり、湿った敷布の上を蹴り、やり場がなくなっては、自分を開いたがっしりとした腰に押しつけられる。
 息づかいは、カミューの手足がたまらないように動くたびに間隔が短くなり、彼が切羽詰まった感覚に攻め上げられていることを示していた。
 マイクロトフとぴったりと重なっているところ、足の付け根や、手首、膝の内側、呼吸の度にへこむ肋骨のやや左側────カミューの脈拍をさらけ出す場所全てが小刻みにふるえ、普段動じることの少ない彼が、忙しない動悸と、それと同じ速さの浅い呼気に支配されていることを、マイクロトフに教えた。自分の背中や腹、胸もまた大きな鐘を続け様に打ち鳴らすように、強い脈拍に揺るがされるのをマイクロトフは感じる。おそらく自分の鼓動もまたカミューに伝わっているだろう。
 本来勝ち気な弓形を描くカミューの眉がひそめられて、彼は益々耐えるような表情になってきた。
「……苦しいのか?」
 耳元に口を近づけ、小声で問うと、カミューは煩わしそうに顔を背けた。それへのほんの小さな意趣返しのつもりで、薄赤く染まった耳朶に軽く歯を立てる。
 その瞬間、マイクロトフは声をたてそうになった。丈夫な歯が、柔らかな耳朶の肉をはさみこんだ途端、彼を深くおさめた体内がぐっとうねり、あきらかに快楽を示して痙攣したのだ。激しい反応に締め上げられて、背中に汗が吹き出した。
 それでどうやらカミューの身体を開く鍵のひとつが、右側の耳にひそんでいることをマイクロトフは知った。複雑な渦に収束するために、髪の奥に続くその薄い肉の中へ、尖らせた舌先を這い込ませた。
「────ン、ン……ッ」
 カミューが呑み込みきれなかった声が喉の奥に消えて行くのを、マイクロトフは自分の耳と、触れ合った喉の振動の双方から感じ取った。ゆるくうねり続けるカミューに包まれて、彼は硬く、熱くなった。動きを止めても、マイクロトフのごく細かな構造までが、曲がりくねった痙攣に包み込まれている。とろけた油の柔らかさ故に、奥へ突き入れようとする力も、押し出そうとする力も、双方が思う以上の淫らな摩擦をもたらした。
 カミューが充分に快楽を味わっているのと、そうでないのとではこれだけの違いがあることをマイクロトフは初めて知った。赤みがかったなめらかな髪は、カミューのほの白い頬にはりつき、彼の目元を染めた血色とまじりあっていた。
 彼は、カミューの長い脚を付け根から外側に押し広げ、自分の腕を濡れた腹の奥に滑り込ませた。先に上り詰めると後がつらい、そう云って、カミューは彼が性器に触れるのを嫌がったのだ。だが、自分を迎え入れた部分と連動した快楽に触れたとき、彼がどんな波に呑まれるのか、味わってみたい誘惑には勝てなかった。
 てのひらで探ると、それは流れ出した油と汗に濡れ、硬く、赤く形をあらわしている。やはり濡れて滑るマイクロトフのてのひらが先端を包むと、寝台の上でマイクロトフにつながれながら、カミューは逃げ出すように背中をのたうたせた。
 彼が自分の名前を呼ばないものかと、マイクロトフは息を弾ませて彼を押さえ付けながら思った。我を忘れて声を漏らすほど自分の手で彼を自失させてみたかった。
 最も柔らかい部分を避け、指を根気よく上下させる。自分のてのひらが彼を掴むことで、鏡が光を反射するように、自分に快楽が返ってくることをマイクロトフは楽しんだ。その動きを止めさせようと、力を込めたカミューの指が、彼の指に重なってくる。二人は互いの望みを優先させようと頑固に抗い合った。無言の争いは数分続き、マイクロトフがカミューの身体を自分の全身で押さえ込むと、遂にカミューは陥落した。
 彼は、自分の熱を握り込んだマイクロトフの手から指を離し、寝台の上に投げ出した。そして、自由になった大きなてのひらが自分を益々追いつめようとしているのを知って、踏みとどまろうとするように敷布をたぐりよせて握りしめた。
 マイクロトフにも既に余裕はなかった。カミューと自分の間に肉体という境界線があることを煩わしく思う。もっと深く中に入り込みたい。骨や肉ごとまざりあい、心臓からつながれている膨大な血の管を共有したかった。ここでカミューの首筋や胸から大きく肉をかみとってのみこんでしまえれば。背中の汗が冷えて、彼は身体をふるわせた。
「カミュー」
 マイクロトフは凶暴な衝動を、彼の名に載せて逃がそうと、カミューを呼んだ。湿って、かすれた声が出た。カミューは歯を食いしばっていて答えなかった。ただ、薄く目を開いたのが部屋の暗い明りの中でも分かった。今にもあふれ出しそうにその目が濡れているのに気づく。
「カミュー」
 もう一度呼んだ途端に、マイクロトフの背中に、カミューの腕が巻き付いた。片方の脚がマイクロトフの腰に絡みついてくる。強く引き寄せられて、マイクロトフは、もっと深く繋がりたいという衝動が自分一人のものではないことを知った。
 カミューの快楽を強く意識した途端、不意に灼けるような熱が下腹からあふれ出した。引き抜く暇もなく、マイクロトフの熱はカミューの奥深くに流れこんだ。マイクロトフを強く締めつけ、腫れぼったく熱を持った器官の奥が自分の放ったものでたっぷりと濡れたのを意識する。その瞬間指に力が入り、まるでマイクロトフの力におしつぶされたように、カミューの熱もはじけて、彼のてのひらの上にあふれ出した。カミューはヒュッと音をたてて息を吸い込み、硬く歯を食いしばって、痙攣と蠕動に支配される一瞬を耐えた。
「すまない────カミュー」
 荒い息を吐きながら、彼は暫くしてようやくカミューに詫びた。カミューの中を汚してしまった。それが後で彼の身体をつらくさせることは分かっていた。ひどくかすれた声しか出ない。カミューが口をきかないのはそれと同じ理由からではないかとマイクロトフは思った。
「……いいんだ」
 やがて、けだるく濡れた声が聞こえてきた。頬を透明なものがすべり落ちる。カミューはマイクロトフの背中を巻きしめていた腕をほどき、その流れを拭い取った。
「立ち止まるなら」
 やはり息があがっているように、声は一度途切れた。そしてためいきのように続けた。
「────お前とがいい」
 それが、この部屋に誘ったときに云った、自分の言葉への答だとマイクロトフは気づいた。
 今夜、まだ殆ど彼にくちづけていなかったことを不意に思い出す。
 けだるさと汗、満ち足りた余韻の中で、彼はカミューに覆い被さった。カミューの唇のなめらかさに陶然とする。そして、自分の都合のよさに半ばあきれながら、やはり肉体が二つここにあることの尊さについて、身に染みて嬉しく思った。


 歓喜と慰めは永続しない。苦痛や焦りが驚くほど根気よく人の中に棲み続けるのとはまるで対照的に。だからこそ、足を止めるとき、誰と目を、てのひらを合わせるのかが、大抵の者にとって重要なことになるのだ。
 マイクロトフは、まだ起きあがれずに寝台の上で目を閉じたカミューを見下ろしながら、今夜彼に差し出されたものについて考えた。心身の片方も欠けることなくカミューに歓迎されたことについて。
 自分を支配してきた苦痛が一時過ぎ去り、安らかな気分が胸をひたしていた。
 今夜、彼は旗を包んだ炎のことを思わなかった。
 今夜、彼は忌まわしく美しい想像上の果樹のささやきを聴かなかった。
 今夜、彼は失った同胞の数を数えなかった。
 代わりに彼に何を差し出せたのかを思う。おそらくそれをカミューの口から聞くことはないだろう。彼はそれを問う代わりに、青白い頬に口づけした。安らいだ唇に細く呼吸が通っているのが聞こえる。マイクロトフは完全に夜の中に足を止めて、カミューと自分がほのかに分け合う体熱以上のことを思い煩うのをやめていた。
 貴重な静寂が二人の身体をくるむのにまかせ、闇の向こうから朝がやってくることを、今日は恐れなかった。

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