log

コン・グラツィア(2006年12月)

04 29 *2009 | Category 二次::幻水2青赤

恋よ、或いは愛よ。
汝等、生きるための糧であり給え。


他の話とはつながっていません。

続き





 数日ぶりの勝利に沸き立った同盟軍が、ノースウィンドゥ城付近に引き上げを終えた頃は、夜半を過ぎていた。リドリーの離反によって前回の戦いで敗走した同盟軍は、今度はそのリドリーの加勢によって大勝利をおさめた。先のリドリーの退却自体が、軍師シュウの計画のうちであったのだ。
(味方にもそれを伏せたままの出陣とは────シュウ殿は人が悪い)
 前回の手痛い敗走からのこの期間、軍議に夜昼となく明け暮れていた将校であるマイクロトフに、忌々しい思いがなかったと云えば嘘になる。だが、それ故に、今日の戦いに否が応でも切羽詰まった深刻さが生まれたのは確かだった。
 ハイランドのキバ将軍と、彼の息子クラウスが捕虜になった。彼等の処遇はすでに決まっていた。彼等の軍主────少年将軍が、彼等の身柄を同盟に受け入れることに決めたのだった。そこには無論、軍師のシュウの意見が採り入れられている。新都市同盟は、傭兵や、ハイランドから寝返った者たち、マチルダ騎士団の一部の騎士たちを飲み込み、一層得体の知れない集団として膨れあがりつつあった。それらをまとめているのは、門の紋章戦争で、天才的軍師として名を馳せたシルバーバーグの弟子であった、シュウの力に由るところが大きかった。
 そしてそこへまた、今度は門の紋章戦争以来、閉じた新国家として南方に沈黙する、トラン共和国の力を借りようというのだ。
 マイクロトフは、足早に自分の部屋に向かった。早朝には、将軍に同行して、隠密裏に出立することになっていた。少し休んでおくべきだろう。彼のこころの内側では、今日の勝利の余韻が未だ沸き立っており、横になって休みたい気分ではなかったが、少人数での強行軍を目前にしているのだ。体調を万全に整えておくのも、同盟の一兵士である自分の役割というものだろう。
 底冷えのする石の廊下に立っていた兵士が、マイクロトフの姿をとらえて最敬礼した。
「マイクロトフ殿」
 同盟の軍服を着た者が自分に礼を取ることに、未だマイクロトフは慣れない。
「見張りご苦労」
「先ほどから、部屋でカミュー殿がお待ちです」
「カミューが?」
 石のような面持ちで歩いていた、マチルダ出身の騎馬大隊長の表情に、かすかな変化が起こったことを、兵士が見抜いたかどうか。いずれにせよ、人並み以上に長身の男は、小柄な兵士の隣をすり抜けて、一層足を速めて自分に与えられた部屋に向かった。
 古い城だが、同盟軍が拠点とするノースウィンドゥ城は、広さだけは充分にある。マイクロトフに与えられた部屋も、マチルダ騎士団で騎士団長を勤めていた時とさして変わらない広さだった。充分に職人の手をかけ、丁寧に補修を繰り返してきたロックアックス城とは、豪壮さや使い勝手において比較にはならなかったが。マイクロトフの部屋は、扉を開けると広々とした続き間になっていて、居間と寝室に分かれている。寝室にはマイクロトフが身を横たえても充分な、天蓋のついた大きな寝台が置かれていた。
 城に全員の兵士が住まうことも出来ず、仮の宿舎が城壁の内側に混沌として作られている今、贅沢な部屋に住まうことに、マイクロトフは複雑な気持ちを禁じ得ない。だが、城の上階にあるその部屋は、作りからして、いずれにせよ兵士達の大部屋として用いることは出来ない。将校が使うしかないものなのだから、と云って軍師に説き伏せられたのだった。
 マイクロトフと同じ立場のカミューはと云えば、これよりも簡素な、塔の上の部屋を、要領よく自分のものにしていた。外観や言動、マチルダにいた時の地位から、カミューは派手好みのように誤解されがちだが、その実は草原の民の中で育ち、放埒で質素な自由を好む気質だった。生粋のマチルダ貴族のマイクロトフの方が、遙かに贅沢に慣れ親しんでいると云えるだろう。
 自分の部屋に戻ると、居間の暖炉に火がおこされ、その傍に一組の椅子とテーブルが引き寄せられていた。火の傍の椅子には、私服に改めた友人が腰掛けていた。テーブルの上にはカードが並べられており、カミューが、マイクロトフを待つ間、どうやらソリテールでも楽しんでいたことが見て取れた。
「時間がかかったな」
 マイクロトフが、彼にかける言葉を苦心して探し出す前に、カミューの方から気さくな調子で声をかけた。
「トランに行く日取りは決まったか?」
「ああ。朝には出発する。おれのほかに四人、軍主殿の供を務めることになった」
「たった六人でトランへ入るのか。その中にお前がいるのでなければ、ナナオ殿の正気を疑うところだな」
「おれがいたところで変りはあるまい。余りにも無謀な人数だ。出来ることなら騎馬大隊ごとあの方をお守りするために連れて行きたいところだ」
「そして、警戒心の強いトラン軍と、早速一戦構える事になるだろうな」
 カミューは微笑んだ。
「案ずるな、マイクロトフ。シュウ殿が練り上げた計画だ。お前達は、軍主殿の身の安全とトラン軍の支援とを、両方同盟に持ち帰ることになるだろうよ」
 マイクロトフは襟元を緩めながら嘆息した。
「お前にしては楽観的だな、カミュー」
「わたしは大抵楽観的だよ」
 カミューは、ゆったりと足を組み替えた。今日の彼は、緑がかった光沢のある黒いビロードの上着を身につけていた。テーブルの上に置かれたランプの輝きは、その緑色の艶を際だたせている。その服は、紅色や金茶色の房の微妙にいりまじった、カミューの微妙な髪の色に映え、彼の姿を端然と座した肖像画のように見せていた。
「楽観的なのには、もう一つ理由がある。わたしの『鳩』が先刻、ちょっとした情報を持ち帰ってきた」
 カミューは、テーブルの上のカードを一枚めくり、手元に並べたカードと重ねた。
「トラン共和国の大統領の息子だと自称している、シーナという男がいるだろう」
「ああ……?」
 マイクロトフは、ぼんやりとその若い男の顔を思い浮かべた。記憶が定かではなかった。この乱れた政情の中で、自分を要人の身内だと自称する詐欺師は後を絶たなかった。同盟の少年将軍の偽物が、ラダトの周辺で幅をきかせていた時期もある。将軍の偽物はともかく、怪しい人物をいちいち詮議している暇はない。
「シーナがレパント大統領の一人息子だというのは、どうやら本当らしい。『鳩』に顔写真を持たせて、トランまで飛ばせてみた。大統領の息子は、遊学と称して諸国を放浪し、懐の金が尽きる頃にまた父親に無心しにトランに戻るとか」
「同盟に、トランの大統領の息子が身を寄せているというのか?」
「ああ。だから、トラン入りするなら、無理にでもシーナを同行させるべきだろうな」
 カミューの『鳩』は、彼がマチルダ騎士団に入った頃から、手塩にかけて育ててきた間諜だ。マチルダ騎士団にいた頃は、赤騎士ではなく白騎士団の下位の騎士だった。騎士団の中では手柄を立てぬよう、さなぎのように身を慎み、マチルダ騎士団のためではなく、ただカミュー個人のために情報を持ち帰り、数多くの仕事をこなしてきた。
 その存在についてはマイクロトフでさえも、マチルダを出るまではっきりとは知らされていなかった。カミューがそういった手駒を持っているのは知っていたが、それが、どの騎士団にいる誰なのか、どこまでの仕事を任せているのか、それは一切知らなかった。
 同盟に下る時、マイクロトフとカミューを慕ってついてきた赤騎士、青騎士だけでなく、白騎士の一部を扇動して離反させた者がいる。それがカミューの為業だということは分かっていたが、マイクロトフには具体的に誰がその手助けをしたものかは分からなかった。同盟に下って間もない頃、初めてカミューから、その人物に引き合わされたのだ。
 ────これからは、わたしの仕事だけではなく、お前のために働くこともあるだろう。
 うながされて顔を上げた若者は、彼等よりも少し年長といった年頃だった。同盟やハイランドの、どこの地方の出身と云っても疑われないような、目立たない茶の髪と瞳で、特徴のないありふれた目鼻立ちをしていた。ただ、その油断のない暗い目だけが常人離れして光っている。しかしそれも、目を伏せてしまえば隠れる光だった。
 まるで影のような男だ。
 マイクロトフはそう思った。実際に、『鳩』は華やかなカミューの影として、長い年月を過ごしてきたのだ。
 ────彼がわたしの『鳩』だ。どんなに長い距離を飛んでも、必ずわたしの許に戻ってくる。
 カミューはそう云ったが、『鳩』が何故そこまでカミューに忠誠を尽くすのか、どういった素性の男なのかを語ることはなかった。マイクロトフも、それ故に尋ねない。話す必要のあることなら、カミューは必ず時を待って彼に語る。マイクロトフはその意味で完全にカミューを信頼していた。
 その『鳩』が持ち帰った情報ならば、シーナがトラン共和国の大統領の息子というのは疑いのないことなのだろう。
「息子を同行させれば、レパント大統領の気持ちが動くと思うか?」
 マイクロトフは、シーナという青年の顔を思い出そうと努めながらカミューに尋ねた。
「おそらく、さほどの影響はないだろうな。レパント大統領は、公私を混同しない冷徹な気性と聞いている。だが、トラン共和国の内情に詳しい者を連れて行くに越したことはない」
「話は分かった」
 彼は、合議の最中に流石に疲れを見せた軍師の、隈の浮いた目許を思い浮かべた。おそらくシュウは、間もなく出発する軍主を送り出すため、また、その道々の憂いを取り払うための手配に、夜明けを待たずして起き出すのだろう。今は僅かな休息を取っている筈だ。彼は今日の戦いで、それだけの働きをしたのだった。
「後一時間か二時間────シュウ殿の起床を待って、大統領の息子のことはおれが話しに行こう。よく知らせてくれた」
 マイクロトフは、そう云った後、逡巡をぐっと呑み込んだ。
「それを伝えるために、ここで待っていたのか?」
 するとカミューは、やや投げやりに見える所作で、手元で自堕落に弄んでいたカードを投げ出した。一番上に、黒いスペードのエースのカードがつやつやと光っている。
「そう見えるか?」
「そうは、見えんな」
 無骨にそう答える。カミューはかすかに苦笑に似たものを見せた。
「さっきは楽観的な材料と云ったが、実際は、シーナのレパント大統領への口添えに関しては、わたしはそれほど期待はしていない。息子の放蕩ぶりに業を煮やす大統領は、ほぼ彼を放逐する寸前だと聞く。そんな息子の口添えがあるよりも、むしろ単身トランに乗り込んだ方が、ナナオ殿には勝算が高いだろう」
「ああ。おれが大統領の立場でも、政治に携わることのない息子の意見を重用することはないだろうな」
「それに、もし、シーナのことをシュウ殿に進言するにしても、ここでカードを相手にして、お前の帰りを待つ必要はわたしにはなかったんだ。トラン行きの合議の席に割り込むか、シュウ殿に耳打ちすれば済む話だ」
「そうだろうな」
 マイクロトフは、カミューの言葉が徐々に核心に近づきつつあるのを感じた。そして、これ以上、表面的な会話で場を取り繕うことが出来ないのを知った。カミューに云うべきことは決まっている。しかし、それを云い出す機会を掴むのが難しく、また、それに応じるカミューの言葉を聞くのがおそろしかった。少年の日、初めて戦場に出かけ、汗に濡れた手で剣を握りしめ、突撃の号令がかかるのを待った日のことが思い出される。
「カミュー」
 彼は、唇を湿し、普段に増して重苦しい声で云いだした。
「何だ?」
 どんな時にもゆとりのある、なめらかな声がそれに応える。
 カミューに云うべき言葉をそれに続けようとした時、ふとマイクロトフの目は、テーブルの上のカードの山に止まった。左上に荒く積まれた手札の下から、見覚えのある白い封筒が顔を覗かせている。それに気づいた時、マイクロトフはかっと顔に血を昇らせた。
「それは」
 手を伸ばすと、くつろいだ姿勢を崩さないまま、カミューは素早くその封筒を、マイクロトフが触れる前に取り上げた。
 その封筒はマイクロトフ自身が、蝋で封緘したものだった。銀色の蝋の上には、マイクロトフの頭文字が刻印してある。しかしそれは、無造作に開封され、明らかに中身を取り出された跡があった。カミューはその封筒を表向きに返す。そこには、マイクロトフの筆跡で、カミューの名がはっきりと記されていた。
「わたし宛のようだから、読ませて貰った」
 こうなってみると、カミューのその平静な声が、かえってマイクロトフの狼狽を誘った。彼は唇を噛み、カミューの座る椅子の斜め前の席に、腰を降ろした。柔らかな布を張られた椅子が、奇妙に硬く感じられる。もうマイクロトフには、沈黙と共に居直るしか手段が残されていなかった。
「おかげで、お前の気持ちもよく分かった」
 カミューは、敗残兵を容赦なく追撃するような冷徹さで、更になめらかにそらんじた。
「いい加減な気持ちでしたことではない。真実の気持ちと信じて、最後には許して欲しい」
 謳うような調子だった。
「そう、書いてあったな。これは、遺書のつもりか?」
 マイクロトフは腹の底に力を込めた。
「そうとも云える」
「お前は、今日の戦いで死ぬつもりだったのか?」
 痛む部分に触れられたように、マイクロトフは思わず身じろいだ。
「いや、ただ、覚悟があっただけだ」
「それでは、今朝、出陣する前にお前がわたしにしたことは、死を覚悟する日まで、お前の気持ちに気づかなかった、わたしに対する意趣返しか?」
 マイクロトフは、額に手を触れた。そこは発熱している様に熱い。しかし、すぐにそれは、自らの手が緊張で冷えているせいだと気づいた。
「そんな風には云うな」
 彼は掠れた声で抗議した。カミューが本気でそんな風に思っていないことなど、マイクロトフには分かっていた。
 カミューは薄く微笑したままで彼を見つめた。
 怖いほど整った唇が、ひややかな言葉を紡ぎ出す。
「命を諦めた男から、くちづけを受けるとはな」
「だから許せと、お前に乞いたかった」
「許すも許さないもなかろう。それはそも罪なのか?」
 マイクロトフは瞠目して、目の前に悠々と座した友人を眺めた。
「罪をおかしてもいない者を、許し、あるいは裁く法をわたしは知らない」
 カミューは静かに云った。
 今度は、その声に厳しさはなかった。






 きらめくような光の降りそそぐ昼だった。
 キバ将軍率いるハイランド王国軍が、ノースウィンドゥ城へ向けて進軍を始めたという伝令が、城内を騒然とさせた。女達は、せめて兵士達の腹を満たして送り出すために、大鍋に急ごしらえの料理を作り、男達は暗い面持ちで剣を研いだ。リドリーを欠いた同盟軍が、王国軍に勝てる見込みは低いと云ってもよかった。
 城の広間に設けられた会議室で地図を広げた軍師は、しかし泰然とした面持ちだった。彼はマイクロトフと同い年で、師であるシルバーバーグの許を離れてからは、商人として力をふるっていたと云う。実戦を指揮する経験は豊富ではない筈だが、若さに似合わずふてぶてしいところのある男で、どんな苦境に出会っても、決して顔色を変えるということがなかった。
 シュウはまるで不利なゲームを楽しむように、いささかの迷いもなく布陣を取り決め、短い軍議を終らせて、将校達をそれぞれの仕事に散らせた。
 王国軍の主力部隊は騎馬隊だ。それに相対する騎馬大隊を後に下げ、将軍の指揮する歩兵を進軍させるというシュウの案には、将校達も納得しかねる様子だった。だが、軍師の指図は強硬な意志に裏打ちされており、そこにはどの大将も意義を差挟む余地はなかった。
「カミュー」
 部屋に戻ったカミューを、マイクロトフは扉の前で呼び止めた。
「どうした?」
 カミューは立ち止まらなかった。部屋に入り、寝台の横に立てかけた剣を手にして、振り返った。このところ彼が腰に帯びていた剣は、この城に来てから、武器商人に求めた新しいものだった。だが、今日の戦いに、カミューはマチルダ時代から愛用する古い剣、ユーライアを携えてゆくつもりであるようだった。
 この戦いが、王国軍の勢力を削ぐ最大の機会であり、王国軍に押されたままになっている同盟の運命を決するものだと、カミューも心に期するところがあるのだろう。
 カミューを追って、マイクロトフは部屋に数歩踏み込んだ。
 南に開け放たれた大窓のある部屋の中には、厳しい戦いを控えた城には場違いなほど、輝かしい陽光がいっぱいに差し込み、カミューの紅い髪をきらめかせている。銀色のチェインメイルを身につけ、華やかな髪を晒したカミューの姿は、白金の台座にルビーをはめこんだ宝飾品のようだ、とマイクロトフは思った。
「シュウ殿の作戦に不満があるのか、マイクロトフ」
 なかなか口を切れないマイクロトフを見つめていたカミューは、不意にそう云った。
「……無いと云えば嘘になる」
 軽く息を吐き出して彼がそう答えると、カミューは鞘に入ったままのユーライアを、ゆっくりと狙いを定めるようにして一度、大きく振った。ゆるやかな弧を描く片手剣の軌道が、持ち手の冴え冴えとした技量を映し出し、マイクロトフはその残像に見入った。
「それは無理もない。わたしたちはマチルダで、久しく盤面の駒を動かす役割を担っていた。それに、ゴルドーはよい君主とは云えなかったが、我々が不利になるような作戦を、決して立てることはなかった。敬うことは出来ないにせよ、彼がある種の知恵者だったことは間違いない。その智恵の恩恵を、我々もまた受けていたのは事実だ。……だが、同盟に下ってから、我々の事情は変わった。同盟に加わってすぐの敗戦、裏切り。我々を束ねるのは十七歳の少年。軍師は実戦経験のない若者だ。ミューズが、グリンヒルが、サウスウィンドゥが……同盟の要枢の都市は、相次いで王国の手に墜ちた。我々の手の内にあるのは、古い城と、国を追われた寄せ集めの若い軍隊のみだ。彼等ごと、わたしたちはシュウ殿の盤面に載せられ、頼りなく、上へ、下へと動かされて行く。同じ戦いに赴くにしろ、マチルダ騎士団という堅固な組織にいた時とはまったく勝手が違うものだな」
 マイクロトフは肯いた。
「しかし、おれに関しては、それもやむを得ないことだ。マチルダのエンブレムを捨てたのは、違いようもなく自分の選択だ。同じ盤面を動くなら、クイーンのように自在にとはゆかぬまでも、せいぜいナイトであるよう努めるまでだ。出来ることならポーンでは終るまい」
「ああ、ナイトに」
 カミューは力強く肯いた。
 逸っているようにこそ見えないが、彼もまた昂揚しているのが分かった。
「それも勇猛なナイトでありたいものだな」
 チェスの駒になぞらえた死生観は、彼等にとって理解しやすい。マチルダ騎士団で騎士団長として過ごした数年間、彼等はキングの駒だった。自分自身の命を取られればそのゲームはチェックメイトだ。多くの騎士達が、カミューやマイクロトフの命を守るための駒となって戦場を動いた。その時の二人はキングでもあり、またプレイヤー自身でもあった。そして、更に三騎士団の頂点にあるゴルドーというキングをも擁していた。
 元の都市同盟を機軸とする、この組織にやってきてからの彼等は、単なる歩兵でこそなかったが、盤面の駒を動かす役割を、完全にシュウに譲り渡した。それは、騎士団長として築き上げた彼等の自我に対して、不安感と解放感を交互にもたらす変化だった。
 マイクロトフは、改めて友人の姿を眺めた。いきいきと光の中で輝いているカミュー。彼をこんな光の中で、無傷のままに見ることが出来る日が、もう一度巡ってくるだろうか。
 マチルダにいた頃も、戦いに出る度に、もう城に戻ることは叶わないかもしれない、という心づもりをして出かけたものだった。家族にも、友人にも生きて二度と会うことはないかもしれない、と覚悟するべきだと思っていた。だが、それと同時に、何故か戦場で自分が死ぬことはないという、盲信に似た思いも抱いていた。こんな風に終末を想像し、晴れ晴れと死の中へ飛び込んで行くような気分になるのは初めてだった。
 マイクロトフは思わず、自分の目を強く捉えた友人の髪に手を伸ばした。
 グラスランドから、自由騎士団の紹介状を携えて異国へやってきた、友人の開放的な気質を象徴するような、あかるく軽やかな髪の色だった。暗く雪に降り込められる自分の祖国を粘り強く愛しながらも、マイクロトフはその髪に、常に強く憧れていた。
 髪に触れられたカミューは、自分よりもてのひらひとつ丈の高い、マイクロトフの目を見上げた。マチルダ貴族に特有の、マイクロトフの黒い瞳と、カミューの淡いみどりを帯びたトパーズの瞳が出会った。久しく友人同士だった二人は、言葉を交わさなくとも、互いの思うことを読みとることが出来た。
 瞳を合わせたその瞬間、相手がどれだけ自分をかけがえなく思っているのか、そしてこの戦いにおいて無事に凱旋することをどれだけ強く望んでいるか、そしてそれが、国の大事という高次の問題を飛び越えて、最も基本的な────個人的な愛情から成り立つ、烈しく一途な望みであるのかが、伝わってきた。
 おそらくその場には、共に戦いに赴く友人同士の、気の置けない抱擁がふさわしかったのだろうと思う。
 だがマイクロトフは、それでは飽き足らなかった。
 貴石に触れるように友人の髪に触れた自分の指には、友人としての愛情以外の思いが入り込んでいることを、この戦いの前には認めざるを得なかった。マチルダ騎士団を出て、あれほどに打ち込んだ騎士としての立場を捨てた日にすら、向かい合わなかった思いだった。
 今日の戦いに出れば、王国軍を退けるか、将軍の隊の後を追って全滅するか、二つに一つだ。
 この日に、自分のこころを偽ることは出来ない。
 マイクロトフは友人の髪から手を離し、並以上に広く、長い、自分の胸と両腕を使って、友人のしなやかな身体を抱え寄せた。マイクロトフに抱かれたカミューは、驚いたようにかすかに身を硬くした。チェインメイルの編み目がざらざらと音を立て、マイクロトフの身につけた鎧に引っかかって擦れた。マイクロトフは、腕にかき抱いた友人に頬を押しつけた。鎧で守られた全身の中で、頬にまつわる髪と、端麗な顔だけがひたすらになめらかだった。
 顔をずらすと、綺麗に髭をあたった端整な顎に触れた。カミューは男としては非常に体臭が薄く、身体を清めるために使う石鹸の香がそのままたちのぼってくる。鎧の金属の匂いといりまじってさえ、カミューの体臭は清潔感を損なわなかった。それどころか、理解しがたい蠱惑的な甘ささえある。
 完全という言葉を具現化したような、奇跡のような友人の肉体。長い間、触れることの出来ない神聖な憧れとして、黙して距離を置いていたカミューという存在。それに触れるのがいかに容易いことなのか。そしてその容易い選択肢を選び取るまでのどれだけの葛藤を乗り越えなければならないのか。
 マイクロトフは、雄弁に思想を述べ説き、あるいは婦人に甘く恋を語る、カミューの整った唇に、自分の乾いた唇を重ねた。軽く触れて離れる、友人同士の挨拶ではなかった。開いた唇の中へ、筋肉で出来た己の器官をもって忍び入る、恋情に起因したくちづけだった。
 言葉を伴わないその行為においても、おそらくは並以上に雄弁だと思われるカミューの唇と舌は、マイクロトフの訴えに応えようとはしなかった。しかし拒むような仕種もなく、ただ、鎧と具足に包まれた腕に抱かれ、唇をゆるく開いて、むさぼるようなくちづけを受け取った。
 自分のそれよりもやや薄く細いカミューの舌の柔らかさを充分に味わった後、マイクロトフは息を乱して唇を離した。くちづけの間、閉じていたらしいカミューの瞳が開き、マイクロトフの狼狽した姿を映し出した。
 もの云わぬ瞳。
 友人の沈黙、似合わぬ従順さがおそろしかった。そこにどんな怒りや失望が隠れているものか、想像もつかなかった。
「カミュー、おれは」
 彼はそう云いかけ、つぐ言葉を見つけられずに黙った。
「……何故だ?」
 マイクロトフの言葉をうながすわけでなく、濡れた唇を拭おうともせず、カミューは低くつぶやいた。
「何故、とは?」
 まぶたの裏に、くちづけの名残の熱をとどめたまま、マイクロトフは掠れた声で聞き返した。
 しかし、カミューはそれ以上を云おうとはせず、マイクロトフの胸を静かに突き放した。
「時間だ。騎馬隊がわたしたちを待っている」
 無表情な声だった。それがその昼、マイクロトフの想いが決壊したことに対しての、カミューの、唯一にして最後の答になった。







「城を出る前に書いたのか、これを?」
 カミューは、『遺書』と断じた封筒を軽く振って見せた。一枚だけ折りたたまれて差し入れられた紙片が、封筒の中を擦って軽い音を立てる。
「ああ、お前の部屋を出てすぐに」
 王国軍との一戦に勝ち、自分がこの城に戻ってきたなら、友人の目にさらすつもりはなかった手紙を読まれた気不味さが、マイクロトフの胸の中にこみ上げてくる。まるで、隠しに隠してきた自害の計画を、親しい親類に知られた者のような気分だった。
 手紙は走り書きだ。表に書いたカミューの名でさえそうだった。マイクロトフの筆跡を見慣れたカミューには、それが分かるだろう。彼のくちづけを拒むことも、受け入れることもなかったカミューの部屋を出て、戦いに赴く前、マイクロトフは自分の部屋に立ち寄った。そして、衝動的に一言カミューへの手紙を書き記して、封緘した。それは書き物机の上に置いた。もし自分が死ねば、誰か他の者が見つけてカミューに届けてくれるだろう、と思ったのだ。
 こうして生きて城に戻ったその日に、カミューにその手紙を読まれてしまうとは思いも寄らなかった。
「死に場所を探しに同盟へやってきたのではあるまい?」
 カミューの声が、何かを教え諭すように柔らかくなった。
「無論、そうだ」
「分かっているのならいいが、もしお前が余り刹那的になっているなら、友人として意見する必要があると思った。わたしはそれについて心配しなくてもいいのか?」
 マイクロトフは再び額を押さえた。僅かに自分の指先に血が通ってあたたかくなっているのを感じる。烈しい感情の変動につれて、身体中を駆けめぐり、凍り付いてもみる。マイクロトフの血も忙しい。
「マチルダにいた時から、おれはお前に心配をかけ通しだ。今日からは一切を慎めると断言出来るほど、自信は持てない」
「なるほど、お前は自信家ではないな。血が熱い割には厭世的で、それがお前の命を縮めるのではないかと気がかりなほどだ。しかも、お前は言葉足らずだ。一度くちづけただけで、お前の気持ちの全てを察して、受け入れろとでも云うのか?」
 カミューは聖句を暗唱するようにすらすらと云い募る。
 熱い額を自分のてのひらに預けたまま、マイクロトフは身動きも出来ずに考え込んだ。友人の怒りの理由が呑み込めた。あのくちづけが、どうやら彼を不快にさせたのではないということも分かった。そして、想いがあるならば、はっきりと言葉で示すよう要求されていることも理解出来た。
 彼は、薄氷の上を歩くような思いで、そろそろと息を吸い込んだ。
「キバ将軍の部隊が迫り、シュウ殿の伝令が何とか持ちこたえるようにと伝えてきた時、出撃の合図を出すまでの短い間、おれは馬上で家族のことを考えた」
 カミューは口を噤んだ。レイピアの切っ先のような言葉で彼の意志をくじくことなく、今度は黙って耳を傾ける姿勢になった。両の肘掛けに腕を載せ、背もたれに深く背を預けてマイクロトフを見守った。
「父は早くに亡くなったせいか、余り思い出すような挿話はない。二人の子を育てたとはいえ、まだ若い母のこと、長じてハルモニア貴族の許へ嫁いだ姉のことを考えた。城住みになって長いせいか、思いだしたのは、姉が子供の頃のことだった。幼かったおれは、丁度今のように、暖炉の傍の椅子に座って姉を見ている。姉は、母に、ピアノの弾き方を教わっている」
 カミューは静かに肯いた。
「何の曲だったかはもう忘れたが、曲をどう弾けばいいのか、母が教えていた言葉は不思議と思い出せる。ソット・ヴォーチェ、ドルチッシモ、コン・グラツィア。『ささやくように』、『きわめて甘美に』、『優雅に』。……小さな手が鍵盤をたどたどしく辿り、母は長い黒髪を背中に垂らして、ピアノにもたれかかるようにして、姉を導いていた」
 マイクロトフは、自分にはおそらく一生縁のない楽器を弾く、少女時代の姉を思い浮かべながら、呪文のようなその言葉をもう一度繰り返した。
「ドルチッシモ、コン・グラツィア────」
 真紅のリボンを結んだ、姉のつややかな黒髪の印象が、他のものの姿に入れ替わったことを、どう説明すればいいのか分からない。ひどく苦心しながら言葉を継いだ。
「きわめて甘美に、優雅に。それらの言葉は、おれにとっては縁遠い世界の性質を表わす形容詞でしかなかった。自分がそんな言葉を覚えていたということを忘れていたほどだ。しかし、馬上で、今にも殺し合うために騎槍を携えて時を待っていた時、姉を教える母の声を思いだした時、その言葉の心象がいつも最も近い場所にあったことが、おれには突然分かった」
 カミューは言葉を差し挟まない。自分の告白の行方を面映ゆく思いながら、マイクロトフにはカミューの沈黙が有難かった。
「きわめて甘美にして優雅、という言葉を聞いたとき、今のおれに思い出されるものは、もはやピアノ曲の旋律でもなく、母の声でもない。だが、おれは幸いにも、その相手と友人であるという幸運に恵まれた。それ以上を望むのは強欲過ぎるということが分かっている。過ぎた欲は罪だ。教会がそれを七つの大罪として数えるほどに。だからおれは、もし今日の戦いから帰れたなら、罪を償わなければならないと思っていた」
 カミューはかすかに視線を細め、片方の腕をゆっくりと上げて、肘掛けの上で頬杖をついた。それはカミューが重要な案件について思案するときの癖だ。
 自分の話は、カミューに黙考を促す話であり得るのだろうか?
 考えの末、何らかの結論を出すに値するもので有り得るだろうか?
「おれが今、この場で思いつく言葉と云えばこの程度のことだ。しかし、それで精一杯だ。これが言葉足らずと云われれば、後は詫びるしか術がない」
 暖炉で薪が大きくはぜ、火花が立ち上った。二人の視線が一瞬、同時にそこに吸い寄せられる。カミューは目を彼の顔へと戻して、首を振った。
「マイクロトフ、お前のような男に、甘美であり、優雅だと思われたとすれば、きっと相手はそれを栄えあることだと思い、お前同様、自分を幸運だと思うに違いない。むろんあまたの婦人のこころについては、ただ想像するしかないが」
 カミューはかすかに肩をすくめた。
「仮に、それがわたしなら天に昇る心地だろう」
 マイクロトフは言葉を失った。火と宝石で細工されたような、友人の姿が目前に座っている。親しい者同士であることの象徴のように、近く膝を交えて。
 そして、カミューは剣を握るそのてのひらに、肯定という贈り物を載せてこの部屋へやってきたのだ。
 まぶたが、指先が、背骨に添った背中の一部が、柔らかな湯で洗ったように熱くなった。
 マイクロトフはようやく声を絞り出した。ささやくような声になった。
「お前が応じるとは思っていなかった」
「思っていないことは伝わってきたよ。だから何故今日か、と思った」
「だから、腹を立てたのか」
「遺言代わりに想いを告げられてはかなわないからな」
 マイクロトフは深いため息をついた。
「にわかには信じられない」
「幾らでも時間をかければいいさ。生きて、戦い、勝って、その合間に考えればいい。もう少し楽観的に考えろ」
「今までお前を慕ってきた婦人達が、楽観的だったとは到底思えない」
 そう云うと、カミューは心外というような声を出した。
「疑い深い男だ」
「おれには、事態を打破するための情報を運ぶ、『鳩』がいないのでな」
 マイクロトフは、自分が驚きの余り、異常に多弁になっていることを意識せずにはいられなかった。そして、自分がこのままカミューと話していると、後でどうしようもなく恥じ入らねばならないようなことを口にしかねないと思った。
 予告せずに立ち上がると、カミューがおだやかな面持ちで視線を上げた。暖炉とランプに照らし出された彼は、昼の光に満ちた城で見たとき以上に、生命力にあふれ、自由だった。そして、瞳にマイクロトフと同じ感情を宿しているのを見て取ることが出来た。
「朝が近い」
 マイクロトフはつぶやいた。窓の外に、冷え冷えとした夜明けの気配が忍び寄っている。一日の内で最も冷徹な魔力を秘める時間帯だった。
「お前がトランに行くなら、何日かは会えなくなるな」
 そう云って、カミューはマイクロトフの後を追って立ち上がり、腕を差し伸べた。それに即座には反応することが出来ず、マイクロトフはためらった。
「別れの抱擁を許してくれるのか?」
 彼としては最大限に、軽やかな物云いをしたつもりだった。だが、年上の友人は弾けるように笑い、マイクロトフの一回り大柄な身体を引き寄せた。
「潔癖なことだな。抱擁では充分でないと、昼間のお前の行動が証した筈だが?」
 するりと柔らかいものが唇に触れる。
 甘い感触だった。
 それは強引ではなかったが、石の割れ目に水が染みこむように、易々とマイクロトフの内側に入り込み、敏感な器官を柔軟な接触で巻き取り、現実感を瞬く間に奪い去った。
 ────きわめて甘美に。優雅に。
 マイクロトフの深い思い入れを裏切らない、どんな音楽より優しく艶やかな愛撫が、唇を通して彼にそそがれたのだった。

00: