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名も無き花の名を。(2008年6月)

04 29 *2009 | Category 二次::幻水2青赤

 サイトにも、販売された同人誌にも、掲載していない話はこれだけ。去年の6月、ましろあやさんとkayaさんが主催された、青赤温泉オフ会の小冊子に書かせて頂きました。長すぎで、反省。十年くらい書いてきた青赤を振り返ってみると、青→陰、赤→陽、という要素だけは変わってない。他の方の二次創作を読むより、自分で書き始めた方が早かったジャンルなので、原作からそう読み取ったのだと思いますが、少し前に騎士イベントやり直してショックでした。え、マイクロトフってこんなタイプだったっけ?この遠視のイノシシみたいな人??



続き










 話は、騎士団長職を戴く前の、若いカミューとマイクロトフ。騎士の務めはつらく厳しく、だからこそ、それを癒す手を離せなくなる。

続き





 六月の長雨に崩れた崖の麓で、泥に埋もれた家を掘り起こすため、十日間を山中で過ごした三十人の青騎士たちは、疲れた心と身体を抱えてロックアックス城に帰ってきた。
 あっという間に小さな村の半分を埋めた土砂のなかには、大小のおびただしい石や、崖土と共に崩れ落ち、張り裂けた木の枝や根が混じっており、泥をかき出すのは容易なことではなかった。青騎士の中でも年若く頑健な者が選ばれ、周囲の村の男たちにまじって、壊れた家の中から、意味のあるものを探し出す、苦しい仕事にたずさわった。
 泥の中から、苦痛を訴えて折れ曲がった手足が覗くと、男たちは火がついたように手足を熱く燃やして、口々に励ましの声をかけながら、尖った石のかけらをかきわけ、泥水をかき出して、何とかして命を掘り出そうとした。
 だが、泥に埋まった粗末な石造りの家から、生きて救い出された村人はいなかった。八人の子供、九人の男、八人の女の亡骸が、ヴェールをかけたような小雨を避けて、村はずれに張られた天幕に横たえられた。その中にはその村の村長とその妻もまじっていた。村人たちは亡骸に白い布をかけ、汚水の匂いと腐臭をわずかにでもまぎらわせるため、香の強い梔子の花枝を供えた。



 山中の村に遣わされた青騎士の中で、もっとも若い十九歳のマイクロトフにとって、その仕事をするまでの六月は、今までの記憶の中に見あたらない、特別な記憶を有した初夏だった。
 彼は何年も前から同じ相手に恋をしていた。自分の想いに気付いた後は、かたくなにその恋を押し隠していた。だが、城を降り込める雨の中に、静かな梔子の香のまじるその六月、彼は自分の想う相手が、自分を同じように想っていることを知った。
 マイクロトフが国境へ行き、相手がまた別の場所にいて、長い間会えない日が続いた後だった。強い果実酒をすすりながら、冗談に紛れるように、マイクロトフがそれを冗談として受け取ってもまるで構わないように、ほんの一言、マイクロトフと会えない日が空虚であることを打ち明けられた。
 その時、相手と二人きりだったのは幸運だったとしか云いようがない。その言葉を聞いて、思わず上げたマイクロトフの瞳と、相手の瞳が絡んだとき、相手は視線を逸らそうとしなかった。今まで一度もなかったような近さで目を合わせた。どれほど隠している想いをもさらけ出してしまうような、挑発的な近さだった。相手の目がふと潤んで、甘さをにじませた。その時は夜で、灯りは傍らに置いたランプのみだった。人のあふれた酒場から灯りを借りて、二人で抜け出し、連日の雨にしっとりと湿った草地に座った。再会を祝う時間を過ごしたかった。蒸留酒を飲むための小さなグラスを互いに回して、赤褐色の果実酒を飲んだ。ランプの光の輪の外で、表情は分かっても、瞳の微妙な色合いを見分けられないことをマイクロトフは惜しんだ。
(「そんな風に云われると誤解しそうだ」)
 彼は熱くなった自分の頬に羞恥を覚えながら、硬い声で云った。常日頃から、相手に自分と同じ気持ちを抱いて欲しいと望んだことなどなかった。心を打ち明けた笑いに接し、身体が触れる距離に近づくと、ただただ罪悪感と、それを裏返した欲望が湧き上がるのみだった。
 マイクロトフの狼狽を悟ったように、相手はなだめるような口調で、誤解とは? と聞き返した。言葉にしろと云うのか。長い間押し殺してきた気持ちが頭をもたげて、胸の奥に針が刺さったように痛んだ。
 この罪悪感を知っていて云わせるなら残酷だ。
(「まるで、おれが特別な相手だと云われている気がする」)
 その時、背中を優しい力が抱き取った。柔らかい髪をさらさらと夜気になぶらせて、相手は長い腕でマイクロトフの身体を引き寄せ、胸と胸を触れ合わせた。整った容貌を際だたせる、異国の旗印のように風変わりな、彼の朱い髪が目をかすめる。薄い夏の上着越しに、走るように高鳴る鼓動がこだまして跳ね返った。マイクロトフは身をすくめた。それが自分だけのものだと思ったからだ。しかし、熱い光のような羞恥心の中で、彼はやがて打ち震える鼓動が一つでないことに気づいた。マイクロトフを抱きすくめたまま、相手は彼に顔を見せようとしなかった。耳元で短い溜息が聞こえた。
(「お前は、特別だよ」)
 少しの沈黙の後、年上の友人、カミューは低くなだらかにささやいた。
(「わたしの中の特等席に居る」)
 マチルダで教師を経験した人物に習ったせいか、カミューの言葉遣いは、教本のように基本に忠実で、字面だけなら堅苦しい。だがそれは、彼の声独特の、ゆるやかな抑揚を持たせることによって、頑なさを排除している。友人は何から何まで、マイクロトフとは正反対だった。





 友人と恋心を交換するという、無類の高い壁を越えて、次の道に進むまでには、七日間を要した。真剣でさえあれば前へ進んで行ける、と信じていたマイクロトフの、長いとは云えない人生の中で、喜びと嫌悪が同衾する、複雑な体験が待っていた。彼は歯を食いしばって、その馴れない感覚を胸の中に貯め込んだ。カミューと共有するものだと思えば、蜜も毒も等しく貴重だった。立ち姿を眺める、目を合わせる、手が触れる。傍を通る。相手が自分と、自分以外の者と話すのを聞く。鋭く華やかな太刀筋に見とれる。今まで毎日の中で、当たり前にそこにあった事柄が、全て別の意味を持った。
 自分を痛めつけるように剣を握っても、息苦しく希薄な、六月の石灰色の空のどこかに、カミューへの切迫した想いがあった。それは実現するあてのない憧れと違って、生々しい希望を伴ったものだった。
 自分の心の声が余りにも浅ましく思えて、マイクロトフは、その声が周囲に聞こえているのではないかと不安になった。誰にも聞こえないのが不思議なほどだった。こんな叫びに似た感情なのに。
 誰にも知られたくない。
 殊更にカミューには知られたくなかった。胸を濡れた指で何度も引き裂かれる。こんな悲哀感を抱くのは、恋が叶ったことを信じられないからだろうか。さもなくば、形はどうあれ、恋とは、傷つくこと無しに抱くことの出来ない、抜き身の刃物のようなものなのだろうか。





 くちづけはした。最初はカミューから。次はマイクロトフが引き寄せた。それ以降も彼が誘った。カミューの巧みなくちづけに、対抗心を持たないよう自分を律するのは一苦労だった。完全主義の気質に加えて、様々な面で実力を伴ったこの青年に、何かにつけて敵わないと思うことが多かった。カミューが自分に、兄のような、教師のような気持ちを抱くことを否定は出来ない。彼はそれ故に自分に関心を抱き、唇を交わしてもいいと思ったのかもしれないからだ。
 マイクロトフのくちづけは、我ながらぎこちなく、息を止めて触れ合わせるだけの、子供のような形から始まった。その前にくちづけた時、マイクロトフの舌を誘い込んで撫で、やわらかく濡らし、くるみこんだカミューは、同じだけ踏み込むよう、要求はしなかった。唇を数度離して押しつけると、乾いたくちづけであっても、カミューと自分の感覚の差が曖昧になるのがマイクロトフには新鮮だった。身体の一部が重なることが、何故ひとを親しくさせるのかが、自分の感覚で理解できた。





 彼らがどういった関係に至るべきなのか、それはカミューの口から明瞭に提示された。
 城の傍の森に、半月の夜、人目を盗んで入り込んだ二人はなかなか離れられずに、くちづけを繰り返していた。カミューほど巧みには出来なかったが、マイクロトフも深いくちづけに馴れ、目を閉じて、その闇の中で没頭できるようになっていた。離れては触れ、唇に触れるだけでもどかしく、カミューの背中を、肩を撫で、なめらかな髪を探った。二人とも息が上がるまで、抱擁とくちづけを繰り返した。聞こえてくる浅い息に興奮して目を開けると、カミューもまたマイクロトフを見つめていた。森の中にかすかに射し込んでくる月光が、うっとりと濡れて開いたまぶたを浮かび上がらせていた。
 その時カミューが話を切り出した。声に甘い抑揚があった。
(「お前は、女性の役割は出来ないだろう? わたし相手にそうなることを想像できるか?」)
 マイクロトフは言葉に詰まって友人を見つめた。視線はマイクロトフの方が幾分高かった。二年前の秋までは、カミューの丈が勝っていた。十七歳の夏に、驚くほど伸びたマイクロトフの身体は、骨が伸びる速さに追いつけず、痩せて熱を持った。だがその頃も、いつの間にかカミューより長くなった腕に、ひそかな喜びを感じていた。自分は随分前から、男の立場でカミューを抱きしめたいと思っていたように思う。その逆の立場は想像したこともなかった。
(「すまない、その想像には及んでいなかった」)
 マイクロトフは恥じ入った。繰り返したくちづけや抱擁に紛れて、なりをひそめていた罪悪感が、気持ちの上に濃い陰りを落とすのを感じる。
 男としてのカミューを望む女が、一人や二人ではないのを知っていた。身なりのいい、教養と美貌を兼ね備えた女達は、競ってカミューを火遊びの対象に選んだ。グラスランドの血を引くカミューは、格式ある婚礼の相手には向かないかも知れないが、ただし、城下町で彼と腕を絡めて歩く女は皆、傲然と誇らしげだった。希少な宝石を胸に飾るように、カミューとの関係を誇示して恥じることがなかった。そして、その対象とされるカミューは、常に自然で悠々としていた。頻々と相手を変えることに、マイクロトフがあるとき、不器用な苦言を呈すると、カミューは平然として、
(「女性の望みを拒むのは胸が痛む。飽きられるまでお相手するさ」)
 そう云った。マイクロトフは腹を立てた。カミューが、実際の価値ほど自身を尊重していないように見えたからだ。それに、カミューを必要としているのが女だけではないことを云いたかった。だが、云える訳もない。友人である以上、これ以上は踏み込めないのだと悟った。
 カミューを公然と自分のものにする、ということを想像すると、女達がそれを誇りにする気持ちがマイクロトフにも解る。
(「何て顔をするんだ」)
 目を伏せてしまったマイクロトフに、カミューは半ば笑い出しそうな声を出した。
(「わたしが何か強要しているようじゃないか」)
(「そんな風には思っていない」)
(「わたしは想像したよ、お前に抱かれることを」)
 マイクロトフは目を上げた。
カミューは、発熱しているようなけだるい動きで、アカマツの幹に背中をもたせかけた。頬に、終えたばかりの任務の名残りをとどめた、細い傷跡が走っている。その傷が赤く火照っていた。
(「想像だけで、とてもよかった」)
 カミューはそう云って上唇を舌で湿した。冷えかけていたマイクロトフの指先に、鞭打たれたように力が入り、激しい衝動が襲ってきた。同じような傷跡が、服で覆われた肩や胸に残っていることを、マイクロトフは知っていた。服をはだけてそれを暴くことを考えると、思わず喉が鳴った。カミューが誘い込んでいるのはあきらかで、それに抗いようがなかった。
 彼は両手でカミューの肩を掴み、荒々しくくちづけた。カミューの腕が上がり、マイクロトフの硬い髪を長い指が梳いた。マイクロトフは、唇より先へ進むことを拒んでいた自分の枷を振り払った。頬よりも熱気を帯びた首筋に顔を埋めて歯をあてると、カミューは浅い息を吐き、マイクロトフのうなじをてのひらでゆっくりと探った。それはあきらかに、交接を肯定した愛撫だった。自分の気後れを理由に逃げることはもう出来なかった。
 アカマツの下生えに生い茂る、クロモジの葉の芳香が不意に忍び寄ってきた。雨が続いた森の涼しさ、露を含んだ草の匂い、カミューの身体や声の、際限なく細やかな特徴に至るまで、全てを覚えておきたいと思った。マイクロトフは、この先何度味わえるか知れない、圧倒的な喜びを抱いていた。





 名前さえない山中の小さな村落が、崖崩れに襲われたのは、マイクロトフがカミューと森の中で幾ばくかの時間を過ごして、城に戻ってきたのと同じ明け方だった。村の半分の家が、轟音と共に泥の中に埋まった。
 その知らせを持ってきたのは、山の麓の街、エムデンに逗留していた白騎士二人だった。泥まみれの村人が、街の警邏隊の詰め所に転がり込んですぐに、騎士二人は馬を駆って様子を見に行った。そして、年配の男達で編成された警邏隊の手には負えないと見てとるや、そのままロックアックス城へ馬を飛ばした。不眠不休の白騎士達がロックアックス城に着いたのは、日が昇り、沈んで、夜にさしかかってからだった。
 急遽、騎士団の三人の長が集まり、泥に埋まった村に、誰をどう遣わすかについて話し合われた。青騎士は、非戦闘地帯の国境へ新しく多くの人員を配備したばかりであり、赤騎士は国境を侵したハイランド兵千に対して、それを上回る千五百人を投じ、四百という大量の戦死者を出して間もなかった。そして、政治の絡まない領内の地味な努めに、自分の白騎士を遣わすことを、実質上の領主ゴルドーは元より余り喜ばなかった。
 埋まった山村は小さく、大人数の騎士を向かわせたところで、麓の街でそれを受け入れることは出来ない。一日、二日で終わるあてのない任務になる以上、力の配分を考えなければならなかった。話し合いは一時間に及び、遂に白騎士より年長の、老練な青騎士団長が口火を切った。青騎士の中から、若く、力のあるものを選び、小隊を組んで村に送り込む。城との連絡は白騎士が務める。結局はそう決まった。
 大部屋で眠っていたマイクロトフが年長の騎士に起こされ、中庭に並んだのは讃課の鐘(※)が鳴る前だった。集められたのは、皆マイクロトフと同年配の、経験の浅い、しかし熱意と体力のある騎士ばかりだった。彼らは新しい務めについて真剣に耳を傾け、一様にその務めに志願した。マイクロトフもその一人だった。更に、その中から三十人が選ばれ、急ぎ身支度をして日の出と共に城を立った。
 カミューに別れを告げる時間はなかった。





 十日後、日が暮れる前に城に帰った青騎士達は、すぐに解散を許された。
 小隊長のアッドが騎士団への報告を行うことになり、沈んだ顔の青年達はばらばらに散っていった。前線に出たことのない彼らにとって、ただひたすらに亡骸を掘り出すしかなかった、山村での務めは身にこたえている。殆どの者は疲れた顔で兵宿舎に去って行った。何人かは城下町へと出て行く。酒場に行って憂さを晴らすか、或いは街で、慰藉をもたらす相手のいる者だろう。
 マイクロトフはかすかに赤みがかった空を見上げた。雨上がりの空気が奇妙に透き通っている。こういう日には、滅多に見られないような夕日が見られる。夕映えの見られる幾つかの条件について、マイクロトフに教えたのはカミューだった。彼は、疲弊した身体の中で疼く、不安定な感情をもてあまして、途方にくれた面持ちで、空に渦巻く、雨季の黒ずんだ雲を眺めた。
 やがて彼は城の入り口に、同じころ騎士の叙任を受けた赤騎士の姿を見つけた。彼とも、カミューとも親しくしている者だった。
「カミューを知らないか?」
 向こうがこちらを見つけて挨拶する暇を与えず、マイクロトフは早口に尋ねた。自分とカミューの関係を知られるのではないか、と思うと気詰まりだった。それに、任務はどうなったか、と尋ねられるのが嫌だった。
「カミューなら、年少の従士連中に午後一杯、剣の指導をしていた。俺が見た時は、練習用の剣を武器庫に片付けに行くと云っていたが」
「ありがとう」
 マイクロトフはきびすを返して、城の守備塔に向かった。練習用の剣を片付けるのは、東側の守備塔の武器庫だ。武器庫と名ばかりで、ここには騎士剣や鎧などは仕舞われず、騎士団に流れ込み、処分出来ないものを押し込むガラクタ置き場と化していた。東の守備塔の一階の大部分を占める広さでありながら、普段は余り人が立ち寄らず、騎士達の間に流布するもっともらしい怪談の舞台としても活躍していた。守備塔の近くを警備していると、女の啜り泣きが聞こえると云う。女気の殆どない城に何故女の幽霊が、と思うが、騎士に捨てられた女が恨みを残して命を絶ち、守備塔に棲みついているのだ、という説明が付されていた。
「カミューが武器庫に行ったのは、一時(※)以上前だぞ!」
 背中を赤騎士の声が追ってくる。マイクロトフは背中を向けたまま手を挙げ、了解の意を伝えた。カミューが時折、そこで暇をつぶすのを彼は知っていた。貴婦人の幽霊が出るなら会ってみたい、と云い出して、兵宿舎を抜け出して武器庫で一人、夜明かししたこともある。切れ者のくせに、カミューにはそういう莫迦げた冗談を好きなところがあり、その気さくさのためか、手柄を取られた同輩にも恨まれなかった。
 カミューはとうに武器庫を出て、会うことは出来ないかもしれないが、どうせ兵宿舎で顔を合わせたところで、二人きりになるのは難しい。宿舎で割り当てられた互いの部屋も離れていた。城の中に私室を与えられるようになるのは、おそらく何年も先だろう。
 カミューと二人になるのでなければ、一人になりたかった。他の青騎士達と一緒にいる間は、お互い失意を打ち明け合うのも難しい。与えられた任務の最中にそれに関する泣き言を云うことは、務めを放棄する次に忌避されることだった。騎士の精神においては、なすべきことを前に負の感情を持つことは許されない。建前でもそれが唯一の真実とされていた。





 守備塔を警備する青騎士と挨拶を交わして、マイクロトフは、塔を取り巻いた回廊を回り込み、奥の入り口から直接武器庫に入り込んだ。蒸し暑い外気の中から塔に入ると、ひやりと冷たい、埃の匂いのする空気に迎えられた。マイクロトフは扉を静かに閉め、ゆっくりと息をした。そうすると、灯りのない武器庫の中はほとんど暗闇に包まれて前が見えなかった。耳を澄ませたが、人の気配はない。彼は立ち尽くして拳を握りしめた。神経が張り詰めている。唇をきつく噛みしめた。
 通路の両側に積み上がった木箱や、異国から持ち込まれた砲台(商人の喧伝にも拘わらず、砲弾を遠くまで撃ち出すことが出来なかったので、ここに仕舞い込まれることになった)や、骨董品と称されて貢がれた陶器の壺や、偽物の剣、旧式の壊れた蓄音機。過去へのわだかまりを積め込んだような、古い品々を思い浮かべていると、自分が騎士団の日常に戻ってきたことを実感した。出来るなら、それら全てのものに力任せに剣をふるって、打ち壊してしまいたい。
 しかし、直情的な性格に反して、騎士の家系で厳しく躾けられたマイクロトフには、扉を叩きつける習慣すらなかった。自分の感情に全てを委ねた時は、おそらく騎士として約束されたものを失う覚悟をしなければならないだろう。





 暫く息を殺して立ったままでいたが、マイクロトフはようやく、爪の痕がつくほど強く握った拳を開いた。冷たい空気を大きく吸い込むと、喉の奥から軽い咳が上ってきて、彼は咳払いした。すると、通路の向こうから、
「マイクロトフか?」
 声がかかった。
 カミューの声だった。
 彼が短くその声に応じると、奥で灯りが点った。
 マイクロトフは言葉には出来ないほど安堵して、灯りの方へ歩いて行った。暗がりの中で、カミューと灯りに出会うのは、妙に暗示的な事象だった。部屋の西側へ曲がると、奥の壁際に、カミューが座っているのが見えた。彼の頭上には窓があり、たっぷりと血を貯めたような、暗い夕映えの空が覗いていた。
 そのランプもまた、この武器庫の中に壊れて眠っていたものを、カミューが火屋を取り替え、真鍮を磨いて使えるように補修したものだ。どれほど古いものかは分からないが、カミューの故郷、グラスランドで作られたものだと云う。
(「マチルダに流れ込んだのは、わたしだけではなかったということだな」)
 割れた火屋の欠片を丁寧に取り除きながら、カミューはそう云って、曲げた指の背でランプを軽く叩いた。同郷の友人を見い出したような親しげな仕種だったことが思い出される。
「すっかり暗くなったな。昨日の夜エムデンを立つ予定だと聞いていたから、今朝には帰るかと思っていた」
 手招かれて、マイクロトフは肩にかけた荷を降ろし、壁にもたれて座ったカミューの傍に腰を下ろした。長靴に締め付けられた足が、疲れに疼く。何日も腰をかがめて働いたのちに、一晩休まずに馬に乗ったために、背中や太腿の筋肉が熱く痛んで張っていた。楽な姿勢を探して身じろぎし、足を組み替えて胡座をかいた。そうして力を抜いて背中を丸めると、また溜息があふれ出してきた。そんなマイクロトフの姿を、カミューはじっと見守っていた。
「疲れただろう。ご苦労だった」
「いや……」
 半月前に、ハイランドとの一戦を経験して帰ってきたカミューにねぎらわれて、マイクロトフは面映ゆさを覚えて首を振った。赤騎士は、遠隔地で戦死した騎士達の亡骸を連れては帰れず、国境近くの平原に大きな穴を掘り、そこに死者を葬った。近隣の村人から差し出された十字架を立て、その戦いの印とした。死者の中にはカミューの親しかった年長の騎士もいた。亡骸に土をかけるのが嫌だった、とカミューは短く云った。彼が愚痴らしい言葉を漏らしたのはそのことだけだった。それほど激しいものになるとは思わなかった戦いが、どんな風に始まって終わったかを、マイクロトフに聞かせたのは他の赤騎士だった。
「手遅れになった事柄に力を尽くすのは、ひどく難しいことだと思った」
 ぽつりと漏らすと、カミューは無表情な顔を彼に向けた。
「勝ち戦でなければ、剣を抜けないと?」
 カミューの言葉に、マイクロトフは頬を紅潮させた。カミューは時折、マイクロトフの真意を知りながら、こんな風に混ぜ返すことがあった。大理石に彫刻したような、カミューの整った顔かたちは、こういう時は不意に彼を冷淡に見せる。だが、マイクロトフはそういう云い方をするカミューに、害意がないことを知っていた。自分に何か吐き出させようとするとき、告解に訪れた罪人に聖職者がそうするように、話の続きを促しているのだ。
「そうじゃない、ただ、おれは、おれの手で誰かを救えたのならどんなによかったか、と思っているだけだ」
 彼はこわばる声を精一杯抑制して云い返した。
「抵抗することも出来ずに、苦しんで死んだ者の顔が、あんなに惨たらしいとは知らなかったんだ。目の前から亡骸の顔が離れない。それを見た者の嘆き悲しむ姿も」
 感情が高まって、声が震えた。喉が絡んで、言葉の最後は絞り出すようにして云わなければならなかった。
 カミューは、ゆるく投げ出した足の、膝の上に載せていたものを黙って押し遣った。駒がばらばらと崩れ落ちて、彼の膝に、今までチェス盤が載っていたことにマイクロトフは初めて気づく。腕に覚えのある者との対局は勿論、一人で駒を進めながら、名の高い現実の戦いの戦術を、検討してみるのがカミューは好きだった。一度ならず相手に恥をかかせたため、年長の騎士とは人前で対局しなかった。
 自由になった膝を折って、カミューはゆっくりと膝立ちになり、座ったマイクロトフに覆い被さるようにして抱きしめた。先に経験した抱擁より、それはだいぶ優しく、子供を抱いてあやすようにして、何度かてのひらがマイクロトフの背中を叩いた。
「誰も救えなかったのか? お前達が力を貸さなければ、亡骸は長いこと泥の中に眠って、見つけたときには朽ちてしまっているかもしれない。冷たい土の中に生き埋めになった者の家族や友人は、それまで決して安らぐことはないだろう。早く死者を弔えなかったことで、不当に自分を責めるかもしれない。死んだ者の亡骸を、それを悼む者の元にすみやかに返すことが、最上の救いになることがある。そんなことは分かっているよな?」
 おだやかな、優しい声だった。カミューの胸郭の骨や筋肉、それを包んだ肌、厚い布を通して、抱きしめられた彼の耳に、声が近く響いてくる。赤騎士が、戦死者の亡骸を全て国境に置いて来なければならなかったことを思い出した。彼らの身体が家族の元へ帰ることはないのだ。
 マイクロトフは、抱擁と慰藉を受け入れて、力を抜いた。そろそろとカミューの胸に顔を押しつけると、強く抱きしめられた。
 カミューの落ち着いた鼓動が聞こえて、彼を少しくつろがせる。
「分かっている。いつも慰めさせて、すまない」
「いいんだ」
 髪や、肩に感じるカミューの腕の感触は、二人の関係が友人の距離を逸脱したことを示していた。マイクロトフが逸り、カミューがなだめる。あるいは、悩んで、導かれる。そういう場面で、カミューがこれほど密接にマイクロトフに触れることはなかった。諧謔に冨み、誰とでも容易に親しくなれるが、カミューは決して馴れ馴れしい男ではなかった。マイクロトフは腕を上げ、自分にかぶさったカミューの背中を抱き返した。マイクロトフよりもやや細い作りの背中は彼の腕の輪の中に収まり、やわらかな呼吸に合わせてかすかにゆらいでいた。
「……どんな状況でも、お前を無理にでも慰める権利を得たつもりだったが」
 カミューは身をかがめ、マイクロトフの耳元にささやいた。
「尊い死者と、お前の胸の中の覇権を争うのは、わたしに少々不利だな」
 マイクロトフはカミューの吐息に触れた耳を熱くして、カミューの背中を拳で、一度軽く打った。カミューのこういうところは不謹慎だと思うのだが、それを嫌だとは思わないのが不思議だった。ただ、耳を傾けていたくなる。快い音楽が流れているのに気づいた時のように。カミューに抱きしめられて顔を上げられないまま、マイクロトフは小声で懺悔の続きを口にした。
「昼間、動いている時はそうならなかったが、夜、灯りが落ちて目を閉じるとカミューのことばかり考えた。お前のことを思い出すと、なんと云えばいいか……その、幸福になって」
 耳が益々熱くなった。ゆらめく暗い灯りの中で、カミューがそれに気づかないよう祈った。
「それで、おれは、自分を許し難く思った」
「わたしはお前を、騎士道精神に欠けると云って断罪するべきなのかな」
 カミューの唇が耳元から頬に滑り、マイクロトフの顎に触れた。軽く歯を立てるようにして、また頬へ戻る。その感触は、背中が粟立つほど甘美だった。
「お前の言葉を聞いて幸福になるわたしも、むろん責められるべきだろうな?」
 舌先でマイクロトフの唇をなぞり、ゆるゆると唇を重ねて、離す。
「お前が帰って来て嬉しいよ、マイクロトフ。胸に空いた穴が埋まる」
 言葉というよりはあきらかに愛撫の一部である様相の、そのささやきの語尾を咬み取って、飲みくだすように、マイクロトフは友人の唇に貪りついた。





 根本まで舌を絡め、相手の唇の奥深くを探る快感について、マイクロトフは既に熟達し始めていた。カミューを相手にして、主導権を握ることを許されたことに高揚する。肩を掴んで壁に押しつけられたまま、神妙に目を閉じて、自分のなすがままになっているカミューを見ると、意図的に自分に従っているのだと分かる。カミューと自分のものが混じった唾液を飲み下して、マイクロトフはようやく長いくちづけに一区切りをつけた。
 カミューから離れがたかったが、その先に進んでもいいのか、確信がなかった。マイクロトフは明日休暇を与えられているが、おそらくカミューはそうではないだろう。
「ここには居たのは、待っていてくれたのか? おれたちが帰る時間まで?」
 尋ねると、カミューは目を開けて頷いた。開いた上睫毛がかすかに湿っている。
「日が完全に落ちるまでここにいるつもりだった。宿舎に帰ってしまうと、かえってお前に会い難くなる。フルストから伝言を聞いたか?」
「いや?」
 フルストは、カミューが武器庫に行ったことを教えてくれた赤騎士だ。
「フルストが門の警備にあたっているから、お前を見たら日没まで守備塔にいることを伝えてくれるように頼んだんだ」
 マイクロトフが首を振ると、カミューは口の中であいつ、と呟いて舌打ちした。
「チェスをしていたのか?」
 マイクロトフは、木製の枠に濃淡のある石版をはめ込んだ盤の上に転がる、黒のナイトの駒を指でなぞった。淡いランプの光を受けて、馬の頭部を模した細工が鈍く光っている。
「ああ。それから、インペリウム・シネ・フィーネ・デディーを」
 カミューの云った言葉を聞き取れずに、マイクロトフは聞き返した。
 カミューは腕を伸ばして、傍らにあった木製の足つきの台のようなものを引き寄せた。
「インペリウム・シネ・フィーネ・デディー」
 彼はもう一度明瞭に云い直した。
「ハルモニア語で、『吾、限りなき力を与えん』というほどの意味らしい。チェスと同じようなボードゲームだ。これがそれに使う盤。東方の諸国に生まれて広がったものが、最近になってハルモニアに流れ込んだとか」
 カミューはそう云って、盤上を指さした。天に向いた面には、黒く焼きつけた線が、規則正しく縦横に走っている。男の二の腕の半分ほどの高さの、厚みのある盤は、目の詰まった飴色の木材で作られていたが、側面は埃や湿気を浴びて黒ずんでいた。長いこと誰にも触れられなかったことが分かる。天面はカミューが磨いたのか、綺麗になっていて木材の色が顕れている。
「三日前に交易商が只で置いて行った。一通りの大きな街に持って行ったが、売れなかったそうだ。ルールの教本でもつけて売れば、デュナンにも浸透するのかもしれないが」
 マイクロトフは、漠然と、遊戯盤の上の線をなぞった。縦と横の線が、等しく十九本あることに気づいた。彼はこういったものを見る時、ほとんど数えることなく数を把握することが出来た。彼に訓練を付けてくれた騎士の言葉によれば、マイクロトフの目は、ものを見る機能と認識する機能が同時に働くのだという。それがどういうことなのか、彼自身にはよく分からないが、確かにマイクロトフは、目にした映像の中に含まれる要素を、一瞬で丸ごと覚え込むことが出来た。これは従士時代からの訓練でも重宝され、先陣を切る騎兵ばかりではなく、斥候としても役目を果たせるだろう、としきりに褒められた。
「升目が多いな。チェス盤の倍以上ある」
「交易商が簡単なルールを教えてくれたが、面白いことを云っていた。チェスは頭の中の、理性を司る部分で動かすものだが、この遊戯はそれとは別の、心の動きを司る部分で進めるのだそうだ。逆説的だが、チェスの中には王と臣下の忠誠と因縁があり、王を積まれればおしまいだが、こちらでは、駒の動きに制約が少なく、どれだけの場所を多く取るのかを競うらしい」
 カミューは、傍に置いた紙箱の中から、何か小さなものを掴みだした。盤上の、線の交わるところに幾つかを載せる。カーネリアンと黒曜石を丸く削って細工したと思しき、赤と黒の石だった。
「インペリウム・シネ・フィーネ、デディー。……舌を噛みそうだ。ハルモニアの大仰な感覚にはついていけないな」
 真似て発音したマイクロトフがそう云って肩をすくめると、カミューは笑った。
「もしデュナンでこれが流行ることがあれば、たぶんもっと分かりやすい名前がつけられるだろう。試してみれば、我々には学ぶところが多いかもしれない。チェスよりも、より大国の戦いの機構と似通った性質の遊技だと云うから。百八十個の石に縮尺した民を動かして、仮想の天地を争うのは、夢と現実が理想的に混交した体験と云えるのかもしれないな」
 カミューはもう一つ赤い石を取り上げ、何かを締めくくるように、盤面に軽い音をたてて置いた。石と木材が反響しあって、軽やかな乾いた音をたてる。
「お前は疲れていないのか?」
 カミューは、公の審議をすべき事柄について云い出すような、低く慎重な声で云った。
「疲れていない、わけではないが……」
 マイクロトフは云い淀んだ。
 そろそろ部屋に帰って休め、と云われるのを恐れる気持ちがあった。
「こうしてチェスや何かの話をしているのも悪くないが、お前と森で一晩過ごして、翌日にはお前は行ってしまったから」
 カミューはさらりとした口調で云って、マイクロトフの右手を握り取った。カミューの指は乾いて温かかった。そのまま軽く引かれて、カミューの頬にマイクロトフのてのひらが当たった。手綱を握っていて、汚れと脂の染みついたマイクロトフのてのひらに、弱く頬を押し当てるようにして、カミューはそのまま目を上げ、マイクロトフを見た。灯りを跳ね返した瞳が、琥珀のような光沢を帯びてきらきらと光っていた。
「お前と、お前のなすべきことを案じてはいた。だが、身体が疼いて仕方がなかった。早く帰ってきて欲しかったし────会えば、口をきくだけでは充たされない気がする」
 ひとつまみの火薬が、こめかみと心臓の位置ではぜた感覚があった。露骨な言葉を忍び込ませた求愛に、マイクロトフのてのひらは一瞬で火をはらんだ。そこになめらかな唇がかすった。触れるだけの浄いくちづけ。しかしカミューがその先にあるものを望んでいることが、今は明確に読み取れた。
 十日前、湿った草の上でうなじを反り返らせ、痛みと、それ以外のものに支配されて、低く喘いだカミューの姿が突然よみがえってきた。今までなるべく思い出さないよう、心の奥に押し込めていた記憶だった。
 マイクロトフはてのひらを引き抜き、カミューの薄く整った顎に手をかけた。力を込めて上向かせると、カミューは目を閉ざして唇を薄く開いた。
 色の薄いその唇の内側は、赤く濡れていた。





「あ  あ っ」
 組み敷いた身体の中に沈んだ自分が、彼の喉の奥から、何度でも上擦った悲鳴を引き出せることに、マイクロトフは酔っていた。
 こんな声をカミューが出しているのを聞いたこともない。カミューは、痛みでは決して声をたてない男だった。優美な外見に反して、その意地は徹底したもので、初陣で傷を負った時も、槍の穂先を飲み込んだ腹の傷口を焼かれ、縫われながら、布を噛みしめて呻き一つ漏らさなかった。それを見た友人の赤騎士は、カミューが敵に捕らえられたら、おそらく味方の情報を漏らすことなく拷問死するだろう、と云った。髪の中まで汗に濡れて横たわった、血まみれの彼の姿を思い起こして、マイクロトフもそれに近いことを考えた。
(「マイクロトフ、正直に云うが、お前もカミューのお仲間にしか見えない。絶対に敵に捕まるようなことになるなよ」)
 赤騎士はそう云って、悪寒を覚えたように身体をふるわせた。
 今、自分がカミューに与えている感覚は、苦しみ以上のものなのだろうか。汗に濡れた背中に額を押しつけて、マイクロトフは息を殺して動いた。彼はまだ、声を立てずに耐えられる。カミューの自制を取り去っているのが自分だと思うと、意識が朦朧としてくるほど興奮した。
 マイクロトフが苦労の末に彼の中に入り、動くまではカミューには余裕があった。マイクロトフの愛撫を誘い、それと同じだけのくちづけを返した。交合に十分な硬さになるまで、彼を口で愛撫すらした。それが巧みなのかどうか、カミュー以外に経験したことのないマイクロトフには分からない。だが、気後れしないカミューの唇から奥まで含まれ、吸われると、途端に熱をもてあますほど硬くなった。含みきれなくなったカミューは、唇からそれを抜き出して、口元を拭った。熱い溜息と舌先が先端に触れて、マイクロトフが身体をふるわせると、目を上げて微笑った。
 だが、背中から乗りかかったマイクロトフが、痛みに近い刺激をこらえて動き始めると、暫くしてカミューの様子が変わった。十日前はこんな風にはならなかった。おそらく、向かい合って繋がるよりも身体が楽なのだろう、とマイクロトフは思った。前の時、あおのいた身体に全てを入れるために、恥骨が開くほど腿を押し広げなければならず、カミューは苦しそうだった。楽な姿勢の方が、快感を拾いやすい筈だ。汗ばむ皮膚が、マイクロトフにまつわる内部が、何よりもその声が、カミューの味わっているものを顕している。
 下腹の体毛の上を撫で下ろし、弾けそうに硬くなった性器を掴んだ。
「う、 あ、ッ」
 指で、色づいた縦の線に沿ってなぞっただけで、カミューは濡れた声を出し、腹の中に深く受け入れたマイクロトフをきつく締めつけた。カミューが感じると、それが体内で乱反射してマイクロトフに返ってくる。経験豊富とは云えない彼は、それだけで果ててしまいそうだった。だが、カミューの中により長く、深く入っていようとする欲望が、破裂しそうな感覚をせき止めている。
 肉体に与えられる責め苦に耐えることにかけては、マイクロトフも人後に引けを取らない。息を止めたままで湖を深く潜ること、子供と同じ重さの石を背負って、山中の上り坂を時速一里の早さで歩いて、登りきること、高い崖から吊された縄を、はてしなく伝って登ること。剣だけではない、要求される全てについて行こうとして、マイクロトフの身体は常に緊張し、力をはらんでいた。
 それと同種の緊張が、カミューの身体を抱く、彼の身体を巻き締めている。顎を伝った汗の滴が、カミューの背中に落ちる。背筋に丸い滴が幾つか現れ、輪郭が崩れてカミューの汗とまじわってゆくのを見つめる。
 繰り返して深く突く。彼が声を立てないと不足を感じて、性器を握り直し、ひとまとめに揉みしだいた。すらりと伸びた背筋が、跳ね上がってよじれた。そうされると、男が普通には味わえないような感覚があるようだった。ふるえながら折れて、崩れかける身体の反応は、あきらかに女に近いものだった。
 手に握りながら突くと、一回ごとに、絶え入るような、切れ切れの声が漏れた。カミューの声と息が、マイクロトフの耳から、快感として染みこんでくる。
 カミューの感覚を、わざわざ言葉で云わせて、彼を辱めようとは思わなかった。だが、掠れてふるえるその声で、自分の名前を呼んで欲しかった。
「カミュー」
 初めて彼の名前を呼んだ自分の声が、人のことを云えるどころではなく、淫猥に掠れていることに気づいて、マイクロトフは目眩のような羞恥を感じた。カミューは呼び声に応えなかった。
 石の床の上で握りしめた手が、マイクロトフの大きな動きに、重心を失ったように揺れた。膝と左腕で身体を支え、右手を上げて、カミューは壁にすがった。
「う、ぅ、 っ」
 啜り泣くような喉声が漏れる。マイクロトフは額を背中に押しつけて耐えた。
 男なら誰でも、この艶のある声に欲情するだろう。
 この声を出しているのがカミューで、そうさせているのが自分だということが、まだうまく飲み込めない。壁に着いた手に力が入り、爪がざらざらした石の壁面を掻きむしった。中指の爪の先端に亀裂が入り、白くめくれるのが見えた。
「カミュー、爪が」
 触れていた手を離し、腰を掴んで支えると、マイクロトフは片手を伸ばして、壁にかかっていた指を握り取った。指先は傷ついて少し血が滲んでいるようだった。握った手を床に押しつけて、深い位置で動く。汗に濡れたカミューの髪の中から、汗の匂いと体臭が立ち上ってきた。おそらく、カミューが身体や髪を洗うために使ったものの香料が残っているのだろう。肌の匂いの中に、甘い香が混じっていた。いかにもカミューらしい、隙のない香だとマイクロトフは思った。
 胸を大きくあえがせてマイクロトフの動きに耐えていたカミューは、また、膝の力を失ったように揺れた。逃げるように背中がうねる。マイクロトフのてのひらの束縛を逃れて、身を支えようとした手が、再び壁を探った。
 しかし、壁の手前ではずれて落ちたカミューの指は、チェス盤よりは高さのある、ハルモニアの遊戯盤にかかった。そこに載った黒と赤の石が、カミューの指にはらわれて落ちる。彼はむせぶような声をたてて、木製の盤の上で強く拳を握りしめた。突かれるごとに上体が崩れ、木盤の上に肘をついたカミューは、自分の腕に顔を伏せるかたちになった。
 それはいかにも耐えしのぶ、という姿勢で、マイクロトフは奇妙な気分になった。
 彼が初めて寝た女はずっと年上で、慎み深い性格だった。途中にもほとんど息づかいも聞かせず、彼が迷っているのを感じると、ささやくような小声で、どう扱えばいいのかを導いた。殆ど汗もかかず、目を薄く閉じて、彼を見ようとしなかった。マイクロトフは、いつも彼女の家を去るとき、自分がひどく不器用で、取るに足らないような男だ、という気持ちにさせられた。その代わり、彼女を苦しめ、苛んでいるような罪悪感は一度も感じたことがなかった。





 マイクロトフは、落ち着こうとして動きを止め、カミューの汗に濡れた腹や、胸をさすった。熱くふるえる身体をなだめようとする。女を抱いた時にいつもそうだったように、相変わらず勝手が分からない。カミューが乱れている理由が、彼の限界を超えた苦痛のためではないことを、誰が証明できるだろう?
 マイクロトフが動かないことに気づいたように、カミューは緩慢に後ろを振り向いた。頬に髪が張り付いている。薄く開いた目に涙がたまっていることに気づいて、マイクロトフの中に、ずきりと熱い痛みが駆け抜けた。涙を拭おうとして腕を伸ばすと、つながった腰の位置が変わり、カミューは息を弾ませて、目を固く閉じた。
 整然と筋の引かれた盤面の上で腕が擦れ、先刻石壁の上で傷ついた指が、救いを求めるように曲がった。マイクロトフは、その指が木目の上をたどり、乾いた木の繊維をはぎ取るように、爪を立てるのを見つめた。
 背中の上にあった方が、カミューの指は傷つかないだろう。少なくとも石の壁や遊具で傷つくよりはましだ。マイクロトフは大きく息を吐いて、カミューから離れた。抜き取る動きに刺激されて、腰にぴりぴりと快感が走った。
「 あ」
 カミューの背筋が波立つようにふるえ、骨の脇に筋肉が浮かんで、消えた。
 マイクロトフは膝で立ったまま、汗に濡れて重く感じる上着を脱ぎ捨てた。それを床に敷くと、木盤にすがって顔を伏せたカミューの両肩をとらえ、仰向けに返した。彼の頭が床にあたらないよう、うなじを支えていた手を抜きだし、カミューの額や頬にはりついた髪をかきあげる。濡れた目をきつく閉じていたカミューは、そろそろとマイクロトフを見つめた。力なく両脇に投げ出された腕を掴み、マイクロトフは自分の背中を抱くように促した。
「指が傷つくから────」
 やっとの思いでそう云うと、カミューは顔を背けた。
「もう、満足したのかと、思った」
 嗄れた声がそう呟いた。
 マイクロトフは、カミューの頬に手をあてて、自分の方へ向かせた。唇の上を舐め、深く入り込む。舌を絡めながら、慌ただしく太腿の奥へてのひらを滑り込ませた。脚を左右に大きく割って、そこに、痛むほどはりつめたままの自分を押し当てる。
 カミューの息がまた早くなった。
 深くくちづけながらもう一度中に押し入れると、背中に触れていた腕が迷うように動き、うなじの上で組み合わされた。腰の脇を片方の膝が滑り、内側に向かって締め付ける。
 マイクロトフをかき乱すカミューの声は、今度は触れ合った舌を伝って彼の内側に入り込んできた。自分もまたカミューに急所を晒し、内部を明け渡しているのだと思った。それが新しい快感のように思える。
 さなかに自分の名を呼ぶカミューの声は、結局聞けなかった。






 荷をかき回すと、記憶通り、エムデンの宿で女将に渡された、清潔な綿紗の布が残っていた。マイクロトフはそれを取り出し、起き上がって座った友人の身体を拭おうとした。
「いい、自分でする」
 カミューは、しゃがれているが落ち着いた声で云って、マイクロトフから布を受け取った。やわらかな布に顔を埋めて汗を吸わせた後、額の髪を撫で上げて、ゆっくり身繕いし始めた。残りの布で自分の身体を拭いながら、マイクロトフはカミューを眺めた。湿った肌はなまめかしかったが、簡素な綿のシャツに袖を通し、襟とカフスのボタンを止めると、その艶は剥ぎ取られるように消え、そこにいつものカミューが残った。
 マイクロトフは彼から目を背け、自分もまた普段通りに戻るために、汗をぬぐい去り、わずらわしい上着を羽織った。湿った布が肌にはりついて居心地が悪かったが、心を押し包んだ充足感のために、不快感は殆ど彼の中まで入り込んでこなかった。
「先刻、外でハルトマン殿が警備に当たっていた」
 青騎士と言葉を交わしたことを思い出してマイクロトフが云うと、カミューは振り向いた。
「挨拶したのか?」
「ああ」
「……参ったな、わたしもだ」
 低く声をたてて笑った。
 カミューが、そしてマイクロトフが武器庫の中に入ってから、時間が経っている。赤く染まっていた西の空は暗闇に包まれていた。星も月も見えない。もう少し時間が経てば、警備の青騎士の交替の時間になるだろう。だが、姿を消しているのにも限界があった。兵宿舎の点呼もある。しかも二人は夕食さえ摂っていなかった。
「仕方がない。一緒に出て行くか」
 カミューが立ち上がった。足下が僅かにふらつくのを、マイクロトフははらはらとして見守った。手を貸したかったが、気づかないふりをしていた方が良いような気がした。
「中で何をしていたのかと聞かれたら?」
 口裏を合わせる必要を感じて尋ねると、僅かな思案の後、カミューはランプの灯を吹き消した。一瞬明るく照らされた彼の口元が笑っているさまを、マイクロトフは目に焼き付けた。
「チェスをしていたと云えばいい」
「こんな暗い中で、ガラクタ倉庫で今までチェスを?」
 真っ暗闇に戻った武器庫の中で、マイクロトフが呆れてそう云うと、カミューはことさらに取り繕ったような声で答えた。
「お前はチェスも体力任せだからな。相手をする方は命がけだ」
 彼は思わず反論しようとしたが、そのまま口をつぐんだ。平静に立ち戻ろうとしているカミューを引き戻すことはない。それに、山村から帰ってくる途中、腐食した杭が刺さったように、心臓を侵していた痛みが薄らいでいた。カミューの体温がそれを吸い取ってくれたのだと思う。





 歩き出したカミューの、秩序だった静かな靴音を聞きながら、彼はまだ名もない甘く鋭い感情を、黙って喉の奥へ飲み下した。
 
 了




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(※)讃課の鐘→午前三時
(※)一時前→この場合は二時間。

【インペリウム・シネ・フィーネ、デディー】
:ラテン語。直訳は「私は際限のない支配権を与えた」。
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